006「反論」
――火を止めた鍋の中で煮物の味が染み込み、炊飯器にセットした生米がごはんに変わるまでの隙間時間。消防士のヒカルさんに、高校で物理と化学を教えているトオルさんが帰ってくるまでには、まだ若干の余裕がある。ちょっとくらい休憩しても良いわよね。
カスミは、届いたばかりの夕刊を食卓に広げると、イスを引いて読み始める。
「今日の夕焼けコラムは、シルバー川柳か」
入れ歯や物忘れを自虐する十七音を、カスミが見るともなしに見ていると、ガラガラとアルミ製の引き戸を開け閉めする音、バタバタと床板を鳴らす足音の順で聞こえ、ジャラジャラっと景気よく珠のれんをくぐってマサルが姿を現す。
予想外の人物だとばかりに、カスミは夕刊を元通りに畳みながら、驚き半分でマサルに訊く。
「あら? 今日は、大学から直接居酒屋へ行くんじゃなかったんですか?」
「そうだったんだけど、急にシフトを代わってくれって言われてさ。で、バイトは明日になったんだ。――オッ! ジャガイモとイカリングだ」
――あらあら、食いしん坊なんだから。つまみ食いは駄目よ、マサルさん。
「余熱が逃げますから、蓋を取らないでくださいな。煮物は逃げませんから、手を洗ってください」
「は~い」
口元を拭ったマサルが蓋を戻して立ち去ると、入れ違いでカオルがダイニングに入る。カオルは、マサルが立ち去ったあとに揺れている珠のれんを見つつ、向き直ってカスミに訊ねる。
「アレ? 今日は、マサルも居るのか?」
「えぇ。なんでも、今日と明日とでシフトを代わるように頼まれたとか」
「そんなもの、断れば良いのに。まったく、お人好しなんだから」
溜め息を吐きつつ、カオルは食器棚から自分の箸と茶碗を出し、それを持って食卓に着く。
「優しいのは悪いことじゃないですよ」
「そうか?」
「そうですよ。優しくない人に、優しくしようと思いますか?」
「それは、そうかもな。でも、優しくされた人間が、図に乗って厚かましくなっていかないとも限らない」
――色んな人を見てるだけあって、こういうことには冷淡なのね。もったいないなぁ。
カスミが心の中でモヤモヤと考えていると、炊飯器がピーッという音で、保温に切り替わったことを知らせた。