迷える幻獣
俺は木の上で寝転がり、空を見上げていた。
特に何をするでもなく、ボーッと雲の流れを眺める。この時間が何よりも好きだ。
ここは、人里離れた森の奥にある。人は滅多に入って来ない。
何故なら、この森は木が鬱蒼と生い茂っており、土地勘の無い者が安易に足を踏み入れたが最後、無事に森から抜け出すことは困難だからだ。
それに、この森には凶暴な魔物が蠢きあっていた。
そんな中に、自殺志願者でない限りは、おいそれと入ってこようとはしないだろう。
俺はと言えば、少々込み入った事情により、こんな山奥に暮らしていたりする。
俺は空から視線を外すと、自分の腹を見た。
俺の腹の上では、三十センチメートル程の緑色をした竜が、すやすやと寝息を立てて寝ていた。
俺はその姿を見て、自然と笑みが零れる。
こいつは俺の相棒の【風月】と言う。
俺と似た性格でマイペースではあるが、やる時はやってくれる、頼れる俺のバディだ。
そんな風月の瞼がピクりと動き、ゆっくりと持ち上げられた。
「……エイン、女の子が魔物に襲われてるみたいだよ?」
「マジかよ……」
こんな山奥に何の用かは知らないが、風月が齎した情報に、俺の眉間に皺が寄る。
とは言え、知ってしまった以上は見殺しには出来ず、俺は重たい腰を上げて木から飛び降りた。
風月の先導の元、俺は襲われてると言う女の子の方角に駆けていくのであった。
程なくして、風月が視線で合図を送ってきたので、俺はすかさず近くの木陰に身を隠し、前方にジッと目を凝らした。
すると、前からやって来たのは、俺と同い年くらいの、十歳くらいの少女だった。
金髪に、三つ編みのお下げ髪が左右に揺れている。
白いシャツと赤のチェック柄のスカート、白のスニーカーはあちこち泥で汚れ、木の枝で引っ掛けたのか、服もスカートも所々破れていた。
露出している肌も、擦り傷が幾つか見えるが、はっきり言って、山登りするには軽装過ぎるのではないかと俺は呆れてしまう。
少女はそんなみすぼらしい姿となっても、必死に息せき切りながら全速力で走り続ける。
けれど、どれだけ走って来たのか、最早限界寸前なのだろう。その足には危うさがあった。
「あ……」
「きゃっ!!」
そして、案の定少女は、木の幹に足を取られて、前のめりに転倒してしまう。
少女が転んだちょうどその時、少女の後ろの茂みががさりと揺れ、大きな影が現れる。
そこから出てきたのは、下半身が馬で上半身が人間、鼻はブタのようで長く裂けた口をしており、大きな一つ目を真っ赤にギラギラさせた【ナックラヴィー】だった。
裂けた口からは、フシューフシューと息をする度に、蒸気のようなものが吹き出ている。
「あ……あ……」
少女は恐怖のあまり、声にならない声を出す。
「……どうする?オレが行こうか?」
風月が見るに見かねて、こっそりと俺に聞いてくる。
俺は少しだけ思案してから、首を横に振った。
「……いや、お前が出て行けば、色々と面倒なことになりそうだから駄目だ」
「ならどうする?」
「んー……そうだな~……」
俺は顎に手を当てて考えながら、ナックラヴィーと少女を見遣る。
ナックラヴィーは、ご馳走を目の前にして高揚してるのか、真っ赤な一つ目を獰猛にギラつかせていた。
少女の体は小刻みに震え、あわや気絶寸前である。
ナックラヴィーが、ゆっくりと一歩ずつ少女に歩み寄っていく。
俺はそこで漸く顎から手を離すと、ポンと手を打った。
「よし。こいつにしよう!」
俺はそう言うと、徐に片手を上空に上げて一言呟くように口を開いた。
「バーン、来い」
俺がそう口にすると、唐突に空の空間がぐにゃりと歪み、甲高い嘶きとともに、一体の幻獣が現出する。
「ヒヒーン!!」
体躯は黒く鬣は白く、金色の太く長い捻れた二本の角が特徴的な【バイコーン】だ。
バーンは、すぐ様二本の角に雷を集めると、それを一気にナックラヴィーへと解き放った。
ズドーンーー。
瞬間、稲光が迸ったと思うと、その電光はナックラヴィーに直撃し、大きな轟音とともに土煙が舞う。
そうして土煙が晴れた先には、巨大なクレーターと、そこには五センチメートル程の赤っぽい石がポツンと転がっているだけだった。
魔物と呼ばれる者は、宿主を失った迷える幻獣達の成れの果てだ。
本来なら、人が死の間際になると、教会などで適切な処置の元、幻獣は石に戻されるのが通例だ。
だが、死は突然予告無くやってくるものである。
唐突に宿主を失った幻獣は暴走し、野生化して魔物となる。
そして、幻獣に『死』と言う概念は存在しない。ただ石に戻るだけなのだ。
なので、それを生業にしたハンターと言う者も、この世界には居たりする。
少女は、あまりに一瞬の出来事だった為、暫くは放心状態でその場から離れようとはしなかった。
バーンは既に帰還していた。
俺は心の中でバーンにお礼を言って、少女の次の行動をつぶさに観察していた。
どれくらい時間が経ったかは分からないが、漸く少女が僅かに身じろぐと、いきなり声を発した。
「あ!あった!」
そう言った少女がフラフラと立ち上がり、覚束無い足で木々の間に生えていた花に歩み寄る。
「これだ……間違いない。本で見たもの。【万年花】……これさえあれば、お母さんの病気もきっと……」
少女は感極まり、目に涙を溜めて喜ぶ。
成程。これで合点がいった。
少女は、母親の病気を治す為にあの花がどうしても必要だったのだろう。
万年花は、森の日の当たりにくい場所にしか生息していない。
しかも、名前通りに万年かけて花を開く。
その花弁は、薬の原料にもなると聞いたことがあった。
けれど、確かに珍しい花ではあるが、医者なら当然持ってそうな代物である。
例え持っていなくても、態々少女自らが取りに来る必要は無いと思われた。
医者が発注すれば良いだけの話なのだから。
そこまで考えて、俺はある一つの可能性に行き着く。
少女が、それ程裕福でない家庭だと言うことに……。
万年花のように、珍しいものを原料とするなら、値段もそれなりに高い筈だ。
少女はそのお金を払うことが出来なかった。
なら、自分で原料を調達して医者に渡せば、もしかしたら格安で調合して貰うことも可能かもしれない。
けれど、そこには一つの懸念があった。
俺がそこまで考えていると、少女はいそいそと花を摘み、足早に元来た道へと戻って行ってしまった。
「……風月。あの子が無事に下山するまで、影からあの子を守ってあげてくれる?」
「了解」
風月が俺の頼みを快く引き受けてくれると、瞬く間に飛び去って行く。
俺はそれを見届けてから、ゆっくりとナックラヴィーの石に近付き、それを拾い上げた。
「相当急いでたんだろうな。これを売れば、かなりの額になるんだが……」
俺は軽く溜め息を吐く。
教えてあげたかったが、俺は今はまだ人前に姿を現すことは出来ないのだ。
それが、今は亡き“じいちゃん”との約束だから……。
「けど、もうすぐだ……後二年もすれば、俺はこの山を降りる」
俺は山々をざっと見渡す。
寂しくないと言えば嘘になるが、楽しみである気持ちも事実だ。
物心ついた時からこの山にじいちゃんと一緒に暮らしていたが、じいちゃんから一般教養はそれなりに教えて貰った。
だから不安はない。
俺はもう一度ナックラヴィーの石に視線を戻す。
「お前は、もう少し俺の中で“眠って”いろ」
まるで俺の言葉に呼応するかのように、石が仄かに発光すると、スっと跡形もなく消える。
そうして、俺は我が家へと帰還するのであった。