猫の目は閉じていた。
またしてもホラーです。
お付き合いください。
猫がいた。
私の部屋の中に。
「名前は」
にゃあ、という声を出して、猫はそっと尻尾を振る。
ただし、彼は籠の中で。
私は薄ぼんやりと体につながれた鎖をじっと見ていた。
目が覚めれば、お腹はいつも満腹になっている。
彼か彼女かわからない猫にはギリギリ届かない広さで、私の手元にはなんの食料もない。
不思議なことに、自分の欲求が満たされていると、猫のことを助けてやりたいと思う。
「猫、猫、お前名前なんて言うの」
何も知らない。
この打ちっ放しのコンクリートの部屋は適度に暖められていて、時間の感覚なんて全くなくなるほど。
猫のケージは相変わらず私の手の届かないところにある。
「お前の名前は、今から、ルーチェね」
猫は、気だるげになぁ、とあくびをしながら答えた。
目が覚めると、また私は満腹で、尿意も便意もなかった。
けれど体の鎖は全く変わらなくて、私はどうやってこの部屋を出たのかも想像がつかない。
扉のない部屋、体に絡みついた鎖。
猫のケージ。
そうだ、猫。
ルーチェは?
その背中には、一条の赤い何かが走っていた。ひどく痛むのか、それをしきりにペロペロと舐めては、怒ったように私を睨む。
「ごめんね」
なんとなく、謝らなければいけない気がした。悪いわけではないのだけど。
それでも、ルーチェの怒った顔は変わらなかった。
「ルーチェ。お前、鍵を知らない?」
答えはなかった。
また眠気が襲ってくる。ここに誰かが来るのだろうか?
来るのならせめて、ルーチェを。
けれどそんな想いは眠気に飲まれて、消えてしまった。
目がさめると、猫に違和感を感じた。
そうか。
痩せてきている。
傷は今度は付いていないけれど、じわじわと、その動きは悪くなりじっとしているままで、弱々しい声でみゃあと鳴く。
「お前、食べてないの、ルーチェ」
抗議するかのようにカッ!と威嚇の声を返されるが、それにも今ひとつ気迫も何もない。
「ごめん、私食べ物何も持っていなくて」
フン、と言いたげにその体が縮こまる。唯一の救いは、ルーチェが妙に綺麗な体をしていること。
排泄物も何もない、綺麗な姿のまま、じわじわと痩せて、飢えてきている。
いや、それよりも渇きが体を蝕まないか。
「……私に栄養を与えている人が、お前にも餌をやっているのかな」
その時、じわりと眠気が襲ってきた。ダメ、今回だけは言わないと。
指先のささくれを剥いて、ぎゅっと指を赤黒くなるまで掴んで無理やり血を出し、それからコンクリートに擦りつけるように「ネコのエサ」と書いた。
これでわかるはずだ。
同時にやることができたという達成感で気が抜けて、私は眠りについた。
「……ネコにエサ、消えてる」
目覚めれば、すっきりさっぱりその短い文は消えていて、代わりに猫が衰弱した様子でこちらをじっとりと見上げていた。
猫の爪は、全部深々と切られて、すでにルーチェは動くこともままならなくなるほどになっていた。その血は乾いて、そのよくわからない色の毛皮にこびりついている。
「……光なんて、名前をつけるべきではなかったかもね」
その声に、猫は全く答えなかった。
「私は変なことを言うべきではないのかもね」
「なぁ」
苛立ちを込めた答えが返ってきて、ちょっと、いやかなり凹んだ。
私がこういうことをしたから、ルーチェはこう悲惨な目にあっているのかもしれない。
当てつけのように私を捕まえて腹いっぱいにして、ルーチェはわざわざ弱らせている。
私を捕まえているやつのツラを拝んでみたくなった。起きている術は、ないものだろうか?
本当にどうしたらいいのかわからない。
ルーチェ。
「どうしよう」
一人だった時は涙すら出てこなかったのに。
怖い。
こわいよう。
泣き疲れて、次に目覚めた時は、私はとても空腹で、疲れていた。ルーチェは、何もされていない。綺麗にもされていない。
「良かったのか、よくないのか、わかんない」
少しだけ泣いて、ちょっとスッキリしたら喉が渇いた。
「ああ、お腹空いたなあ」
猛烈な眠気が襲ってくる。ルーチェが鳴く声が、薄れて行く意識の奥で聞こえた気がした。
「……ルーチェ」
目がさめると、ルーチェはじっと寝そべったまま、綺麗になった体で、やせ細って来ていた。
「今日、何日なんだろう。わかんない」
知らないわそんなのと言いたげな瞳は、じっと私を見る。
何かが足りない。
何かが。
ルーチェのしっぽが、消えている。
体の横に巻かれるようにしていつも置かれていた尻尾は、彼女か彼かはわからないが、その体から引きちぎられていた。
「うっ……」
もうもはや鳴くのも無理なのか、痛みを感じても反応する気力もないのか。
猫はそのまま、動かない。
「ルーチェ……」
私が何かをする、しないに関わらず、ルーチェはやっぱり傷つけられるのだ。
名前なんてつけなければよかった。
愛着が湧いて、死なせたくないと思ってしまう。
自然と涙が溢れて、気づけば私は空腹になって来ていた。しかし、そこでまたもや眠気が襲ってくる。
「だ、ダメ!!だめっ……嫌だ。寝たくない、ルーチェが、ルーチェ……!!」
けれど、そんな抵抗は虚しくて、私の意識は真っ黒に塗りつぶされて行く。
目覚めると、そこには腹を切り開かれている猫がいた。
「ルーチェ」
「なぁ」
最後の最後で、応えてくれた。
ごめんね。私が一番近くにいたのに、助けてあげられなかった。
もう。
もう嫌だ。
ここから出して、そして。
死にたい。
私の意識は、睡魔に塗りつぶされて溶けた。
「おはよう」
鎖の鍵をポケットから取り出して、南京錠を開ける。
本当に苦労したわ。
私の空腹の間にあんな人格が生まれてるなんて、思いもしなかった。
こんな終末のような世界で生き残ろうとしたら、猫の一匹の生き死になんて気にしている場合じゃない。
軟弱な人格。
それは私にはいらない。
半端に甘っちょろい人間性なんて持っていても、私たちは生き残れない。
殺して奪う。
平気でできなきゃ野垂れ死ぬだけ。
最近こういう病気が流行っているから、今はもう稀少な存在である医者も慣れたもので、私の症状を見るなり猫とその使い方を処方してくれた。
もう一つの人格が死を覚悟したら、その人格は消えるんだそうだ。
やっぱりあそこは腕が良い。
ふと振り返って、部屋の中をチラッと見た。
ケージの中の猫は、目を閉じていた。
お読みくださり、ありがとうございました。