最終話
書き出しは第一話に寄せてありますが、これは第三話です。
◆
私はどんな道理があってこんな路地の片隅で排泄をせねばならぬのか。
今朝、通学する際に素通りしたラーメン屋の脇。鉄の錆びた匂いと油の匂いが、エアコンの排気によって吹き付ける。
これでも、大腸が許す限り吟味した場所だ。
こんな醜態を晴天に晒すことになるとはーー。
用を足しながら私は自分の手足を眺める。あれだけ白かった肌は、黒い毛で覆われている。大きな目はそのままだが、耳は頭の上に位置しているし、尻尾まである。声を出そうとすると「ミャアミャア」という鳴き声しか出ない。
出したいものは出し切ったので尻を拭きたいが、自分の手は頭を掻くのがやっとの長さしかない。そもそも拭くものもない。私はゴリゴリとコンクリートに尻を拭うしかなかった。
涙の一つでも流して気を楽にしたいが、涙は出ない。体の原理的にそうなのだろうか。
しょげている暇があれば、まずは寝床を探さなければいけない。もちろん衛生的なところでなければ駄目だ。屋外に私が満足できる寝床なんてあるのか分からぬが、探すしかない。
ヨタヨタと街を歩き回る。通っていた高校周辺をうろついているため、見慣れた街であるはずなのだが、視点が低いせいか違和感を感じる。まるで知っている街ではないかのようだ。
歩けど歩けど、寝床にできそうな場所は見つけられない。日向ぼっこにうってつけの場所はいくらでもあるのだが、まずは安堵できる場を見つけておかねば、お日様の下で妄想に耽る気にはなれない。
ググウと腹がなる。猫でも腹がなるのかと驚き、優先度を食べ物に切り替えた。腹を満たしておかねば、本能でネズミなんかを食してしまうかもしれない。考えただけでおぞましい。
飲食店が連なる区画へ来たはいいが、ゴミ箱をあさるなんてことはできない。私は煎餅屋の店先にあるベンチに座った。その姿を可愛く思ってもらえたのか、店主の婆さんが煎餅を小さく割って与えてくれた。狙い通りである。
私はペロリと煎餅一枚を食べ、「ニャア」と催促を促す声を出した。
煎餅屋の婆さんは親切で、私が鳴けばいくらでも煎餅を出してくれた。「喉が渇いたろうに」といって浅い器に注がれた牛乳まで持ってきてくれた。これは良い宿主を見つけたかもしれない。
私は店先に居座り、閉店する時間まで動かなかった。「飼い主が心配するからお家に帰りなさい」と婆さんに言われるが、それでも私は微動だにしない。ここで引いたら悲惨な生活を送ることになってしまう。
婆さんは「こんなこと昔もあったなあ。仕方がないねえ」と呟き、私を抱っこして店内に戻った。煎餅屋は二階が居住スペースとなっており、婆さんはそこで暮らしているようだった。古い木造の家屋は、猫の私が歩くだけでも軋み、至るところにホコリも溜まっている。女子高生としては衛生的とは言えない環境であるが、野良猫が住む場所としてはリッチな方だ。
婆さんが風呂に入ったので、私は大きな布団の上に陣取り、考え事に耽る。
当面の生活は何とかなりそうであるが、考えることは山ほどある。こんな状況になった理由や、人間に戻る方法などだ。それともう一つ。翔君のことである。
彼はどこの馬の骨とも分からぬ女子から告白をされていたようなのだ。さすがにその時は断ったのだろうが、私がいなくなって数日も経てば彼も精神的に弱る。そして都合良く居合わせたその女子に慰められる。そうやって絆され、別の愛を育んでしまうかもしれない。
あってたまるものかと声にするが、息が喉を通ると「ミャア」という可愛らしいになってしまった。
翌朝、煎餅屋の婆さんがノソノソと起き上がったことで、私はビクッと本能で目が覚めた。太陽は顔を出したばかりのようで、部屋はまだ薄暗い。
私は自分の手足を確認した。
ああ、やはり私の体は猫のままなのか。溜め息を漏らし、婆さんが注いでくれた冷たい牛乳を舐める。
今日はとりあえず翔君の姿を一目見ておきたい。このままでは翔君禁断症状になって余計な不安を募らせてしまうばかりだ。私はカリカリとガラス戸を引っ掻いた。
「おや、散歩をしたいのかい。どうぞ」
婆さんはドアを開けてくれた。西の空は分厚い雲で覆われている。雨が振らなければいいのだが――。傘を持てない手なので躊躇いはあるが、私は学校へ駆け出した。
四本脚で駆けることにも慣れてきたが、早朝の冷えたコンクリートは、脚の裏に不快感を覚えさせてくる。
私がいなくなったというのに、学校は何も変わりなく佇んでいた。私が消えたことで暴動が起き、ガラスというガラスが割られ、壁面は落書きだらけにでもなっていた方がまだ安心する。何も変わっていないことで、「お前はこの学び舎に不必要な人間だ」と誰かに言われた気さえしてくる。
まずは体育館の様子を窺う。翔君は朝から体育館でバスケをしていると誰かが教えてくれたのだが、さすがにこんな朝早くからはいなかった。
私は小さくなった脳みそで、この街を俯瞰する。徐々に縮尺を小さくし、学校と翔君の家を線で繋ぐ。
おそらくはこんな道のりで登校するだろうと予測を立て、学校からその道のりを辿った。
まずは彼の姿を確認したい。元気そうにしているのか、はたまた私が消えたことで悲しんでいるのか。
駆けているときは脚の速さと身軽さに驚きもしたが、普通に歩くと歩幅が狭いため、数十メートル進むだけでかなりの時間を要した。
猫なりの時間感覚で二十分ほど歩くと、遠くから人が近づいてくる気配がした。次いで、話し声が明瞭に聞こえてくる。私はブロック塀の上に乗り、遠くを眺めた。
翔君と草太君が自転車に乗ってこちら側へ向かってくる。歩いた方が早いのではと思えるくらい、ゆらりゆらりと漕ぐ様は、普段通りの翔君と変わりなく見えた。
「いやあ、草太は香奈美ちゃんと付き合えて羨ましいよ」
「どうしたんだよ。陽子ちゃんの方が可愛いってお前言ってたじゃん」
まだ彼らとの距離は二十メートルほどあるが、声はよく聞こえる。彼らの声が大きいわけではなく、私の聴力が人間の時より増したようだ。
「可愛いのは事実だったから、成り行きで誉めたんだ。そうしたら、告白と勘違いされてさ。付き合わないわけにもいかなかっただけだよ」
「可愛いなら良いじゃん」
「僕もそう思って、まあいいかって思ったんだ。けれど冷静になると、知性的で分かりやすい性格じゃないと疲れそうで……。付き合う前から、僕の中で陽子ちゃんって謎だったから」
「その点、香奈美は分かりやすくていいぞ」
ガハハという笑う草太君の横顔と、どこか暗い表情の翔君が、私の目の前を通り過ぎていく。「分かりやすいと付き合うのが楽でいいよね。この前、先輩の女子と第二音楽室でお昼食べたときは――」
翔君の声はなおも続いているが、彼らは路地を曲がったため正確に聞き取れなくなった。
私は顔を掻きむしった。
私と翔君だけの第二音楽室だと思っていたのに――。同じ大学を目指そうとも言ってくれたのに――。一緒に楽しく料理もしたのに――。少し時間が空いただけで、男子はこうも冷めるものなの? 酷すぎる。
彼らを追いかけて、先ほどの言葉の続きを聞いてやることも可能だが、そんな気力は起きない。これ以上傷つきたくないし、聞けたところで何か打開策を打てるわけでもない。
馬鹿だ。こんな姿になってまで、翔君の姿を目に入れたいと思った自分が間抜けすぎる。
私はトボトボと煎餅屋に向かった。これからどうしたらいいのか考えたいが、頭が働かない。もう駄目だと呟くと、「ニャ」という短い声が出た。
「何がもう駄目なの?」
ついに幻聴すら聞こえてきた。私の頭はどうかしてしまったのかもしれない。
「やっぱり聞こえないのかな?」
私は声のする方に顔を向けた。
「やっぱり聞こえているんじゃない」
私が顔を向けた先には自動販売機が威圧感満載で設置させられていた。そのお釣り返却口。小さいその空間に、茶色い毛のハムスターが収まっているではないか。
私は事態が飲み込めず、歩いていた姿勢のまま硬直した。とりあえず、どうして私の声が聞こえるの? と呟いてみた。
「何でだろうね。とにかく、君は猫のはずなのに日本語を話している。逆に、僕のチュウチュウという声を、日本語として聞き取っている君に僕は驚いている」
彼は鼻をクンクンと動かしながら言った。
ということは、彼もまた元は人間なのか。ハムスターになってしまっては、私より悲惨かもしれない。食物連鎖では私より随分下の方。むしろ私に狩られる立場だ。ハムスターなのに目を細くしてキョロキョロと視線を動かすその姿は、一晩越すのがどれほど辛かったのかを物語っているように感じられる。
私は誰かと会話ができることに喜びを感じ、ハムスターを背中に乗せて話をした。まず名前を訊ねると、言い淀んだのち「ツカモト」と教えてくれた。自動販売機の返却口なんかに潜んでいたのは、カラスや野良猫を警戒してのことらしい。さらには、心優しい人間に飼ってもらうために、人が気づける場所である必要もあったそうだ。
「けれど、全然駄目。自動販売機で飲み物を買う人、昨晩は現れもしなかった」
背中にいるツカモトの表情は窺えないが、細い声から憂いさが感じとれる。
行き場のないハムスターの苦労話を、彼が吐き終わるまで私は黙って聞いてあげた。それが終わると、私も先ほどの翔君の件を吐き出す。ツカモトは「酷いね。僕は女性と付き合ったこともないけれど、気持ちは分かるよ」と私に同情してくれた。
ツカモトが聞き上手であるためか、私は聞かれてもいないのに付き合うまでの過程を長々と話してしまった。ハムスターとして生き延びることだけで必至だったはずなのに、私の恋愛話を「頑張ったね、辛かったね」とツカモトは自分のことのように聞いてくれた。
互いの人間の姿を知らないからだろうか。何の先入観も無しにツカモトと出会え、話せたことで、ありのままの彼の性格を知れた気がする。
私はつい先日まで、容姿から得られる印象により、相手の性格をねじ曲げて脳に入れていた。私が人間に戻れたら、こういう物腰柔らかく裏表のなさそうな人と付き合って幸せになりたい。心踊る恋愛もそれはそれで刺激的で楽しいが、落ち着ける仲というのも良いかもしれない。
ツカモトはずっと何も食べていないということだったので、私は彼を煎餅屋に連れていった。
「あら、お友達かい? 猫なのにハムスターと仲良くなるなんて、相性が良いのかしら」
婆さんは私とツカモトに煎餅を渡してくれた。他人に「相性が良いのかしら」なんて言われたら恥ずかしくて会話もしにくくなってしまう。ツカモトの表情をみると、やはり彼も照れているのか、目を右往左往させながら煎餅を頬張っていた。
とりあえず、気が利く婆さんと、私の心を安らいでくれるツカモトがいれば当面は平穏に暮らせそうだ。彼が話を聞いてくれたおかげで、翔君のことも徐々に頭から追いやることが出来ている。
「人間に戻れなくても構わない気がしてきたよ。何かこのままの方が幸せになれそうな気がする」
ちょうど私もそんなことを思っていた。ツカモトとは気が合いそうだ。
土の匂いが漂うなと思い、店先に目をやる。道路が急な雨で斑点模様になっていた。待ち望んでいた夏が、いよいよ到来したようだ。
思い出に残る夏にしたいな――。
店内に吹き込んだ風が、ツカモトのヒゲを僅かに揺らす。なんだか心地良くなり、私は微睡んだ。
◆
「陽子ちゃん。起きて」
私ははたと目を覚ました。辺りを見渡すと、知った顔の生徒達で溢れる私の教室。そして私の真横には、学ラン姿の男子が立っている。見上げてみると、それは翔君だった。
「お、おはよう」
ドキリとしてそれしか言葉にできなかった。涎を垂らしていなかっただろうか。私は念のため口元を拭った。
「これ、自習時間に作ったからよければ使って」
翔君に手渡されたのは単語カードだった。パラパラとめくってみると、整った字で英単語が書き込まれていた。
「あ、ありがとう」
「明日の自習時間は寝ちゃだめだよ」
彼はそう言い残してE組を後にした。
「彼氏さんは本当に優しいねえ」
いつの間にか私の目の前にいた香奈美がボソリと呟く。
「そう見えるね」
「もっと喜ばないと。自習時間だけで書ききれる分量じゃないよ、それ」
「そうなんだよね」
私が張り合いない返しを続けたためか、香奈美はすぐに去っていった。
脳はすでに覚醒しているが、それでも腑に落ちないことが山積みだ。夢にしてはリアリティがあった。コンクリートの感触や、煎餅の味もよく覚えている。
私はスマホを取り出し、『昼休み一緒に食べられない? 聞きたいことがいくつかあるの』と翔君にメッセージを送った。
翔君の屈託のない顔から繰り出される優しい言葉の数々。それが事実だったのかくらいは確認しないと前に進めない。
翔君から指定されたのは、例によって第二音楽室。平常心を心がければ大丈夫。おかしな夢で見聞きしたことを確認するだけなのだ。最後には笑い話になっているはずだ。
ガラガラとドアを開けると、今回は既に彼が椅子に座って待っていた。
「聞きたいことってなに?」
「まずは弁当を食そうよ。まともなご飯が無性に恋しくてね」
私は卵焼きを頬張り、素朴な味に舌を巻いた。食事中の会話も、いつも通りの調子で楽しめた。
普段通りの自分を取り戻せている。それを自覚してから「私の性格って分かりにくいかな」と切り出す。
「急にどうしたの? 陽子ちゃんの性格を読み切れないことは確かにあるけど、性別が違えばそういうことも往々にしてあるのが当たり前じゃないかな」
「私は勉強もできないし、知的ではないことで迷惑かけていないだろうか」
「勉強が苦手なのは知っているけど、知的じゃないなんて思ったことはないよ」
「そっか」
私が五月雨式の質問を止めると、沈黙が続いた。彼の受け応えは、淀みなくてもっともらしい。表情もにこやかなままだし、私の心配はほぼ解消された。
「何か不安になることでもあったの?」
神妙な顔持ちに切り替えた翔君が私の目を覗き込んだ。
「いや、たいしたことではないのだけれどね。翔君が上級生の女子とここに入っていくのを見たっていう人がいたんだよ。だから心配になってね」
こんな夢を見たから心配になりました――。なんて言える空気ではなかったので、結果的にカマをかける質問をしてしまった。紳士的な彼に対して申し訳ないことをしていると自覚しはている。
「ああ、それか」
翔君は目を一瞬窓の方に向け、言葉を続けた。
「先週だったかな。ご飯に誘ってくれた先輩がいたから、ここに来て食べたんだ。けれど、今は陽子ちゃんと付き合ったから、他の女子とはもうご飯食べないよ」
翔君は言い終わると、平然とした様子で菓子パンを齧った。
嘘ではなさそうなので、所詮は夢だったのだと自分に言い聞かせる。しかし、やはり最近まで他の女子ともこの空間で過ごしたことは事実のようだ。
翔君と私が密会する場だと思っていたこの第二音楽室が、急に居心地悪く感じられた。
しかし、気分を害されたのは翔君の方のはずだ。あらぬ疑いをかけられて心底うんざりしているだろう。「ごめんね。小さいこと気にして」と私は口角を無理矢理上げた。
それから予鈴が鳴るまでの時間は、夏休みの予定を話し合った。温泉へ行こう、海へ行こう、神社のお祭りへ行こうなど、この関係が何事もなく続くかのように私は会話を盛り上げた。
「ではまた」
「うん。またね」
翔君は手を上げ、自分の教室に向かっていった。私も、彼と逆側の方向に歩みを進めた。
◆
「一切女子に免疫のないような、うぶな男子ってどうかな」
「その人次第じゃない? これまで運が悪くて女性経験がないなんてことは多々ありそうじゃん。逆に、本人に問題があって女性経験がないなら、付き合っても我慢することが多くて疲れそう」
香奈美は私の机に腰掛け、下校する生徒達を窓から眺めている。彼女の前髪は風になびき、顔は夕日で赤く照らしつけられている。
「だよね」
私も窓からの景色を眺める。
「翔君が女慣れしてて怖くなっちゃったとか?」
「怖いのではなく、彼と私は合っているのかと疑問に思っただけ」
「そりゃあ付き合い立てだもの。色々疑問は湧くさ。相手をきちんと知りもしないくせに、別れる選択肢をとるのは、中学生みたいで馬鹿らしいよ」
「そうだね」
私は俯き、ピカピカに磨かれた自分の爪を眺める。夏休みはもう目前。自分がどうしたいのかをはっきりさせないまま長期休みに突入するのは御免だ。
「翔君、まだクラスにいるかな。ちょっと見てくるね」
「マリッジブルーに蹴りをつけてくるわけか」
「そんなんじゃないよ。というか結婚してないし」
私は徐々に歩調を早め、教室を出ると駆け出した。まだ帰っていなければいいのだが――。
B組のドアを、走ってきた勢いのまま開ける。ガタンと教室中に音が反響した。
こちらの教室は、西日が直接入り込んでいて眩しかった。逆光で顔はよく見えないが、教室に残っている生徒が一人だけいるのは分かる。
シルエットからして、翔君ではないことが瞬時に判断できた。
「翔君ってまだいるかな?」
私が声を掛けるも、返事がない。その生徒に近づき、私は目を細めてその生徒の顔を覗き込んだ。
なんだ、あの朋勝君か。彼は学級日誌を書いている。しかし、なぜ私の質問を無視し、顔を背けているのだろう。
「ねえ」
私が再度呼びかけると、一瞬だけ私の顔に黒目が向いた。しかし、すぐに目を逸らされた。
とりあえず翔君はいないのだ。大人しく今日は帰るしかない。私が朋勝君に背を向けようとしたとき「今日はたぶん帰った」と低い声が聞こえた。
「そうなんだ。ありがとう」
私は礼を言い、改めて彼に背を向ける。B組を出ようとしたところで、窓の隙間から風が吹き込み、私は何気なく振り返った。入室したときと同様の、西日に照らされた朋勝君のシルエットがそこにはある。髪の毛がウネウネと風になびいているのが分かった。
「あのさ、朋勝君は翔君と話したりするの?」
何となく彼と話してみたい気分になり、とりあえず翔君を話題の種にした。
しばらく沈黙が続いた後「たまに。翔は誰とでも話をする」と返ってきた。私は近くの席に腰を下ろした。
「私、翔君と付き合い始めたんだけど、今悩んでいてさ。少し聞いてもらえないかな?」
返事がない。断られたわけでもないので、勝手に話し始めてしまってもいいだろう。
まず私は、翔君の優しさに関するエピソードを口にした。途中、相槌が一切ないので、私は一人で自慢話をしているかのようだった。
私が一通り話し終わると「そんなに優しい翔と付き合えて良かったじゃん。それなのに何に悩んでいるの?」と彼から質問が飛んだ。
「それがね、妙に女慣れしていると思ったら、やっぱり私以外に仲良くしている女子がいたんだよ。そんなことは付き合う前から憶測してたし、付き合ってから浮気まがいのことをされたわけでもないから、私がウダウダ悩むのも御門違いなんだけど……」
「翔の過去とか取り巻く環境が気になっちゃうなら、もっと穏やかに付き合えるような人が合ってるかもね」
「やっぱりそう思う?」
私は身を乗り出してしまった。返答が私の心境を射たので驚いた。
「誰と付き合うかは、結局自分で決めるべき、だから僕の言うことは当てにしないで」
「参考にするくらいはいいでしょ。それなら翔君のことではなく、男子特有の意見を聞かせてよ。例えばどこからが浮気かとかさ」
「正当な理由なく二人で会う時点で浮気。例えば、頼まれたものを貸すのに会うのはいい。けれど、それが頻繁に続いたら貸し借りが本当の目的ではない可能性が高いから、正当とは言えなくなる」
彼は手に持つシャーペンをクルクルと器用に回した。
「そうだよね。要は心が浮ついているかどうかってことだよね」
「けれど、心を浮つかせていなくても、女子を不安にさせたら駄目」
「そうなのだよ。まさしく私は不安になったの」
彼は「それは辛かったね」と呟き、学級日誌にペンを走らせた。
「あ、日誌書いてたんだったね。話しかけてしまって申し訳ない」
てっきり「別にいいよ」くらいの言葉が返ってくると思ったが、彼からの返答はない。自己主張が苦手な性格なのだろう。
「ありがとう。すっきりした。またね」
私はヒラヒラと手を振る。日が沈み、蛍光灯に照らされた朋勝君の顔がくっきりと見えた。頬にニキビがあるのがよく見える。
私は今度こそB組を後にした。
暗くなったE組は、既に香奈美の姿もなくガランとしていた。私はカバンを肘に掛け一人で帰路に就いた。
目鼻立ちがしっかりしていて、どこから見ても格好良い翔君。おまけに恋愛経験も豊富なので、付き合ううえでのリードもありがたい。けれどそれらは全て、他の女子との経験があるからできること。翔君を構成するものは、今までに彼を取り巻いてきた女子の存在によるもの。私には二番、三番と煎じたものが与えられるだけだ。
ならばむしろ、もっと安心できる相手と付き合い、私好みに染め上げていく方が要らぬ心配事もなく、小さいことで疲弊することもない。
「でもなあ」
私は少し欠けた月を見上げた。
キラキラ輝き続けたい私は、同じオーラを持つ香奈美のような女子と友達でい続けたい。同じように、彼氏となる人も輝くオーラを纏う人が良い。
理想やプライドと、穏やかな幸せ。どちらをとるべきだろうか。翔君と付き合っても幸せになれないと決まったわけでもない。
答えは喉元まで出かかっている。
黒猫が私の前を横切った。容貌の優れた顔で悠々歩くその様は、自分に絶対的な自信を持つかのようで心打たれた。
「そうだ、わたしは――」
いつもと変わらぬ帰り道。赤い自動販売機が仰々しく鎮座している。羽虫が数匹、その光に引き寄せられていた。キラキラ輝く方に吸い寄せられるのは、虫も人も同じのようだ。吹き抜ける風が私の背中を押した。
ありがとうございました。




