第二話
◆
金曜日という高揚感に包まれてか、自然と目線が上に向く。今日も日向ぼっこにうってつけの天気である。私は奇跡的に時間的余裕を持って登校できたため、校門で香奈美を待ち伏せていた。同じクラスなのだから教室で待っていても同じであるが、偶然翔君に会って雑談できたらなと密かに期待をしていた。
自転車のブレーキ音が正面からしたので、視線を空から戻す。お目当ての香奈美が「何してんの」と自転車から降りて近づいてくる。
まだ彼は現れていないが、用のある香奈美が到着したため、共に教室へ足を向けた。
「実は明日、翔君と遊ぶ予定なのだ」
「良かったじゃん」
「今以上にグイグイと攻めるのであれば、告白をしてもいい頃かと思うのだが、どうだろうか」
私は自分から告白をしたことはない。そのため、香奈美の意見を窺って知見をつけておく必要がある。
「いやいや。何か話が飛躍しているけど、翔君と二人でデートするのは明日が初めてでしょ? 一歩引いた姿勢の方がいいって。ゆとりがないと見苦しいだけだよ」
私は顎に手をやり、以前香奈美に言われたことを思い出してみる。
「もっと攻めろ。せっかくの機会を無駄にしすぎだ。そう先週言われた気がするのだが」
「一番始めに教えたでしょ。気を惹くためには前衛的であれ。けれども最初は、近づきすぎてもいけないって」
そうだったかなと脳内を確認するが、洋楽を詰め込みすぎたせいか思い出せない。私の頭は所詮この程度だ。ともあれ、私から告白するのはまだ早いというのが彼女の見解だ。素直に参考にさせて頂こう。
「気を惹くために積極的になった後ならば、あとは向こうから攻めてくる。距離感を保って受け身でいれば、間違いないということだよね?」
結論を明確にしておかねば、後で「そうじゃないんだよな」と彼女に叱咤されそうな気がしたので確認しておく。
「そうだね。陽子くらいの見た目と性格なら問題ないでしょう」
「ありがとう」
香奈美から言われると自信になる。一歩下がった私を演じよう。
E組には既に何名かの生徒がいたため、恋愛論の話題を不自然ながらも中断し、何事もなかったかのように互いの席に向かった。
私は窓を覗き、校門を通る生徒達を凝視する。目は良い方ではないが、翔君ほどの外見ならば容易に気づけるはずだ。
彼の普段の登校時間を把握できれば、偶然を装って接する機会を作れるようになる。あくまで偶然なのだから、引いた姿勢や攻めの姿勢など、そのときの戦略関係なしに、私の欲望を満たすことができる。
しかし、いくら待てども翔君の姿は校門に現れない。既に学校に着いていたのかもしれない。
本人に直接聞いても不自然ではない仲になったつもりではあるが、それで鉢合うことができても、私の画策はバレバレだ。
そういえば翔君のクラスには、以前私に情報を提供してくれた男子がいたはずだ。
名前はなんといっただろうか。名前を覚える必要もないと思ったことは覚えている。私はスマホを取り出し、メッセージの履歴を見返した。
ああ、そういえばこんな女子っぽい印象の顔であった。
設定されているアイコンは、顔がクシャクシャになるほどの笑顔を作っている彼の写真だった。自分の顔写真をアイコンに設定する男子ほど、自意識が高いと私は経験で知っている。さっさと用件だけ伝えてしまおう。『翔君て早く登校する人?』と私が送信ボタンを押す。すると相変わらず数秒で返信が届いた。『いつも教室にはギリギリで着く。朝から体育館でバスケして遊んでいるらしいよ』文末にはへんてこな絵文字が付け添えられていた。
なるほど。わざわざバスケをするのだから、相当早く来ていることだろう。基本的には遅刻間際にしか起きられない私に攻略する手段はないので諦めるしかない。
ものの数十秒でそう結論付けられたのは、名無しの彼のおかげだ。なかなかに使える男ではないか。
これまで、尻尾を振って私に順次する猿共もそれなりにいた。それはもう、猿ではなく犬も度肝を抜いてしまうほどの従順っぷりであったが、見た目は犬のそれのように愛らしくはない面々。高身長で整った顔の執事を彷彿とさせる外見ならば私も悪い気はしないが、そうではないのでもちろん突き放した。しかし、突き放せば突き放すほどに、奴らは追いかけてくる。
それはもう悪夢であった。ホワイトデーには食い物では飽き足らないのか、私の好きなキャラクターのぬいぐるみや、欲しかったワンピースなどを渡された。もちろん私は、そんな奴らにバレンタインチョコを渡してなどいなかった。ぬいぐるみには盗聴器が仕込まれているかもしれぬし、ワンピースは体に擦り付けてから新品同様に包装し直したかもしれない。ゴミ置き場に捨てたときには、物に対して申し訳なさでいっぱいになった。
その点、この男子は、それなりに恋愛を経験してきたためか執拗な性格を見せつけてはこないし、連絡を取っていても私の気分は悪くならない。
やっとまともなワンコが飼えるかもしれぬ。
◆
土曜にも関わらず、平日と変わらぬ時刻に起床できた。約束の時間は十四時である。前回遅刻寸前であった私を思ってくれての時間設定であろう。早起きできたうえでの結果論でしかないが、午前中に集合するよう提案しておくべきだったと後悔した。少しでも翔君と時間を共有できるに越したことはないのだ。
私はゆっくりと身支度を始める。チークは濃いめに塗り、メガネも掛けてみる。学校とは違った雰囲気を見せつけるために、ツバの大きな帽子を被る。
ふむ。大学生だと詐称できるほど艶やかになれた。
時間を持て余してしまったので、早めに家を出て買い物をすることにした。欲しい物を見つけても、実際に買うつもりはない。大型のCDショップで翔君と時間を潰したとしても、せいぜい一時間程度だろう。「そういえば欲しいものが近くの店で売ってた」と言えば、時間を持て余すこともなくなる。
いくつもの店を見て回ること二時間強、少し高めのヒールを履いたせいか、つま先も痛くなってきた。約束まではあと三十分ほどあるが、私は待ち合わせ場所のCDショップへ向かった。途中、幾度となく怪しいキャッチに声を掛けられる。その頻度はいつもより格段に多い。
普段であれば煩わしい限りだが、大人らしさを意識した化粧とコーディネートがキャッチを引き寄せていると考えると、完璧な身だしなみができているのだと自覚できて喜ばしい。
CDショップの入り口横で、ネットに上げられているネイルの写真を眺めて翔君を待った。学校が爪に厳しくなければ、鮮やかなピンクにゴールドのストーンを付けたネイルにして、翔君に「可愛いでしょう」と自慢ができるというのに。
夏休みは髪も染めてネイルサロンにも行って、お洒落に磨きをかけてやろうと心に誓う。私と同じような行動をとる女子は多いはずだ。ルールで押さえつけても、どこかで反動となり、羽目を外しすぎる結果となることを教師陣はなぜ分からないのか。
学校に対する愚痴が十を超えた所で、彼は現れた。薄手のカーディガンにチノパンを履いた彼もまた、大人っぽい雰囲気だ。
「最初、陽子ちゃんだって気がつかなかったよ」
「変?」
「可愛いと思うよ」
私も翔君の身なりを誉めるべきであったのだろうが、会って数秒で狙い通りの「可愛い」を頂けたため、何にも気が回らなくなっていた。
翔君に先導されるようにCDショップへ入店する。敷地が広いうえに二階まである店内は、視聴スペースや特集コーナーが数えきれぬほどに設置され、さながらテーマパークのようであった。
広い店内を熟知しているかのように歩く翔君を見ていると、勉強意外の知識も充分に備わっていて羨ましいとさえ思う。勉強しかしていない生徒は、テストの点数という絶対的に分かりやすい評価により、教師や親からは好かれる。しかし高校生活では、社交性などの物差しで測れない軸で友人達から評価されもする。その社交性という評価を保つ武器の一つに、話題の店や音楽などの知識がある。
要は流行りの知識も勉強も、両方合格点を満たしていることが理想型だ。教師からも友人からも異姓からも愛される。
そんな理想型の翔君と付き合えたら、どれだけ優越感に浸れるだろう。おまけに顔も性格も良いのだから、一生離すべきではない人材に間違いはない。
私もしばらくしたら勉学の知識も身につけよう。そうしたら、教師からも愛されて些細な校則違反くらいは見逃してもらえるかもしれない。
翔君はあれやこれやと片っ端からCDを選んだ。それを視聴用のプレイヤーに入れ、一つのヘッドホンを二人で使って聞いてみる。自然と翔君の肩と私の肩が触れ合う。さながら付き合っているようではないか。翔君のファンにこの光景を見られでもしたら、背後から刺されても文句は言えない。
「ここ、ベースの音が良いでしょ」
翔君がたまにこちらを向いて目配せする。私も目配せで応える。
翔君は人に物を勧めるのが好きなようで、手元には十を超えるCDがある。それを聴き終えるだけで優に一時間が経過した。一曲終わる毎に彼は雑談をしてくれたので、立ちっぱなしではあるが苦痛は一切なかった。つま先の傷みは既にどこかへ消え去っている。
「お小遣い厳しいし、この一枚を買うだけで我慢しようかな」
「今度、僕の持ってるCDも貸すよ」
私は心が舞い上がるのを必至にこらえた。学校で会える口実が一つできたのだ。しかも誘導したわけでもなく、翔君からの提案でだ。着実に恋は前進しているとみて良いだろう。
私はお会計を手早く済ませ「他に行きたいところある?」と訊ねてみた。
「いや、今日は」
翔君の短い一言で、有頂天状態の気分が急降下した。奈落の底に叩き付けられた気分だ。以前にもこんな展開があった気がする。つまりは何も進展していないということなのだろうか。
「そ、そっか」
私は心を損傷していないふうに装った。いちいち気落ちするような女子は、翔君ほど心の広い男子でも鬱陶しく感じるはずだ。
「来週から、期末試験が始まるでしょ。陽子ちゃんは大丈夫なの?」
そういうことか――。私は唸ってみせた。
本日翔君に、他の女子との予定があるわけではないのならば一安心だ。しかし、期末試験が来週ということは、夏休みももうすぐということだ。試験なんかのせいでノロノロ停滞しているのは御免だ。
「私は大丈夫だよ。今朝も早起きして少し勉強できたし」
「それなら、試験の点数で勝負だね。一つの教科でも僕が負けたら、パフェでも奢ってあげるよ」
パフェを奢ってくれるのはありがたいし、二人でまた会える機会を頂けるのは素直に嬉しい。しかし、一つの教科ですら勝てるわけがない。翔君の半分の点数を取ることですらやっとであろう。
私が勝つことなんてことは有り得ないため、翔君からの提案は無駄に終わってしまう。ビートルズやマイケルにかまけている場合ではなかったと悔やむことしかできない。
気落ちしていることが伝わってしまったためか、「四人で勉強合宿でもする?」と彼からフォローが入った。
まずい、気を使われている。「香奈美達もいるなら行かない」そう何でもないように返しておくのが精一杯だった。
翔君とは駅で別れ、私はぐったりと電車のつり革に掴まった。
今日は何時間も一緒に居られると期待していたのに。お気に入りの下着を身につけ、無駄毛の処理もしてきたのに。見せつける展開を望んでいたわけではないが、それほど気合いが入っていたのだ。
翔君からすれば、CDショップに行くだけの予定なので、テスト勉強の合間にでも出向いた程度のことなのだろうか。
全てが徒労に終わった。香奈美に連絡する元気も出やしない。どうせ彼女は草太君とキャッキャウフフとしているのだろう。水を差すだけだ。どうせお洒落をしてきたのだから、どこぞの知らない兄さんにナンパでもされて、遊びに連れ回された方が良かった。今なら非行少女にでも何にでもなれる。
明くる月曜からのテストは初っ端から散々であった。今週がテスト期間であるということは、土曜に翔君から知らされるまで聞いたこともなかった。よってテスト範囲も知らない。おまけに土日は、ベッドの上でもがき苦しんでいただけなので、テストのおまけ問題がどれかすら分からない始末であった。
どのクラスメイトも問題の多さに時間が足りていないようであったが、私は時間を持て余し、窓の外に目をやったりするほどだった。
さすがにテストを放棄するのも教師に悪いなと思い、空を眺めるついでに景色のどこかに漢字問題の答えがないかと探してみたりもした。しかし、「花沢墓石」や「公明堂」なんて看板ばかりで、高校で習う難解な漢字などは見つからない。見つからないなら実社会で使われていないということだ。こんなテストやる意味もない。
「どう?」
束の間の休み時間になると、香奈美が声をかけてきた。
「どうにもこうにも上手くいかないものだねえ」
「そりゃあ、勉強しないで窓ばっかり見てたらそうなるよ」
上手くいっていないのは、そこではなく恋愛なのだが、どこから話したものだろうか。「翔君がねえ、はあ――」と濁して返した。
「土曜は失敗したわけだ。一歩引いたら駄目だったの?」
「どうやらそれ以前の問題。私は疲れてしまったよ」
「そうかそうか。テスト期間が終わったら、甘いものでも食べに行こう」
香奈美は私の頭に手を置いてから自席へ戻っていった。
おかしい。いつもの彼女ならば、テスト期間など関係なく「今日行こう。今すぐにでも食べに行こう」と言うはずだ。
しかも自席に戻った彼女は、なにやらノートを広げて食い入るように見ている。
草太君に勉強を教わり、感化されたのだろうか。これでは全ての面で私は置いてけぼりではないか。
今回のテストはさてきおき、恋愛体質の私は恋愛面で成果を出せなければ生きている意味もない。対象を翔君から変更すべきだろうか。しかし妥協はしたくない。
幸いにも、今後どういう身の振り方をするべきか考える時間はたっぷりとある。テスト期間は五日。その間は毎日午前中に帰宅できるのだ。前回の中間テストは、毎日香奈美と遊び倒したものだが、今回の彼女は草太君と勉強するに違いない。私は自分のことを考える時間として大切に使おう。
思考のために時間を使おうと決め込んではみたが、心の隙間が埋まったわけではない。一人自宅で過ごしていると、苦しいだけで何も考えられなかった。
本来は翌日のテスト範囲を勉強するためにある時間。何にせよ勉強なんてできる心理状態ではない。元気であったとしても一人では勉強のやる気は起きないだろう。私は全てを諦め、テスト期間を呆けて過ごした。
そのまま、皆が浮かれるテスト後の休日に至るも、私の脳内は留守状態のままだった。先週買ったCDも開封すらしていない。
「これが無気力というやつか」
無気力を自覚したままそれが続くと、女子らしさが日に日に衰えていく気がして怖くなった。事実、毎日欠かしていなかった化粧水や乳液も、ここ数日使っていない。
まず私はCDの包装を綺麗に剥がし、プレイヤーにセットした。アップテンポの曲を聴きながら、私は眉毛の手入れを始めた。
毛の処理は非情に楽しい。抜けば抜くほど美しくなっていく気がする。
とりあえずは眉毛を綺麗な形に整えられた。まずはいつものように明るく美しく学校に通わねば何も始まらない。鬱屈した姿勢でいたら、翔君はもちろん誰からもモテることはないだろう。
テスト期間も終了したことで、ついに夏休みが音を立て始めている。登校すると、どことなく浮かれている輩が目に付く。私はとりあえず、キラキラした雰囲気を存分に放って学校生活を送るよう意識した。
随時返却されてくるテストの点数は、それはもう目も当てられないものだが、私は気にしない。キラキラしていることの方がよっぽど大事である。
「陽子も一緒に勉強頑張ろうよ」
「まあ夏休み終了間際になったら、宿題くらいは頑張ってみるよ」
私は香奈美といつものように駄弁りながら下校した。まるで時間が数週間巻き戻ったかのような錯覚すら感じる。のどかでいつも通りの日常だ。
私のスマホが着信を告げた。どれどれと何の気無しに画面を見ると『良い点数の教科あった?』とあった。
「何? 翔君から?」
香奈美が覗き込んでくる。
そういえば、テストの点数を競争していたのであった。彼は本気で競争していると思っていたようだ。
終始勉学は滞りなく進めているという振る舞いを私はしていたのだ。勝てるわけがないという私の感情は、彼に伝わっていなくても当然かもしれない。『全然』と返事を打つ。ありていに言い過ぎかなと思い返し、悲しんでいる姿のスタンプも追加で送った。テストの点など気にもしていないので、悲しくもなんともない。しかし、テストが悲惨だったことで翔君とパフェを食べる機会を失ったのかと考えると、悔しくてたまらない。
改めて翔君のことを思い出したことで、胸も痛んできた。
「翔君の攻略は難しいね」
「最近の陽子は輝いているし、翔君と会えさえすれば大丈夫だよ。本当に輝いて見えたから、実はテストの点数に自信があるんじゃないかって疑ったぐらいだもん」
香奈美とケラケラと笑いながら帰宅できたおかげで、寂しさや空しさは軽減された。
それからは、なるべく気落ちするようなことは考えずに毎日を過ごすよう意識した。けれども、『今日返却されたテストはどうだった?』と毎日のように翔君から聞かれ、若干嫌な思いをした。勉強が出来ないことは自覚しているとはいえ、馬鹿にされているのではないかと徐々に思うようにもなった。
一度、昼休みに購買ですれ違ったのだが、ばつが悪くて目を逸らしてしまったため、会話も生まれなかった次第である。
しかし金曜の昼休み、突如翔君が我がE組に姿を現した。私はスマホで音楽を聞いていたため、いきなり彼に肩を叩かれひっくり返るところであった。
「何を聴いているの?」
「び、ビートルズ」
「ところで、テストは全部返ってきた?」
「は、はい」
「結構まずかった?」
「はい……」
「じゃあ明日家で合宿しない? 楽しくて簡単な英語の勉強法を知ったから、教えてあげるよ」
「はい」
「じゃあ、明日の詳細はメッセージ送るね」
そう言い残し、翔君はE組から去っていった。話の展開に付いていけず、私は気の利いた返事はおろか、間抜けな表情を見せていたかもしれない。
香奈美は自席でニッタニッタと笑っている。
香奈美よ、一人で笑っていると美人が台無しだぞ――私は心の中で毒づいてやった。
何がどうあって事態は急転したのだろう。一晩空けて冷静になったところで困惑は解消されない。状況の整理は出来たものの、まだ何も実感できていない。てっきり香奈美や草太君も誘われているのかと思ったが、本日彼女達は郊外へ出向き、夜景を見に行くらしい。
よほど私の学力を心配しているのか、はたまた私の引いてみる作戦が効いたのか。そこまで引いた姿は見せつけることもできなかったはずだ。何かきっかけはあっただろうか。私は最近の出来事を思い出しながら、いそいそとリュックに着替えを詰め込んだ。
合宿と翔君は言った。合宿ということは、お泊まりだと認識しても良いだろう。これまでの経験からすれば、意気揚々と泊まりに行ったものの、日が沈む頃にはハイ解散なんてことも想像できる。あまり期待しないでおくとしよう。
「菓子折りでも持参しておくべきか」
私は仏壇がある部屋に足を向けた。翔君の親がいるようであれば、土産の一つや二つ渡すだけで「なんてできた子だろうか。翔のお嫁になってくれやしないかね」と親ぐるみの仲に進展する可能性も大だ。
私は都合良く供えられていた北海道の名菓を手にした。これならば、翔君の親に渡せなくとも、彼と分け合って食べるのに向いている。
土産や着替え、部屋着にヘアアイロンなど、私は思いつくままにリュックを膨らませた。家を出る直前に、一番大事なはずの勉強道具が入っていないことに気がつき、慌てて押し込む。リュックは噴火寸前になってしまった。張り切り過ぎだと思われなければいいのだが――。
待ち合わせ場所は私の家の最寄り駅。そこまで翔君は迎えに来てくれるらしい。私は大きくなったリュックを上下させ、足早に家を出た。荷造りを当日から始めたせいで、時間に余裕がなくなってしまった。まだ正午を回ったばかり。急げば遅刻はしない。
「あれ、歩いてきたの?」
「うん、翔君の家に私の自転車まで置けるスペースがあるのか分からなくて」
もちろん嘘だ。単に翔君と二人乗りをしたかっただけである。
「停めるスペースくらいはあるんだけど――気が利くね。歩くと結構かかるから、後ろに乗りなよ」
私は「ありがとう」と微笑み、荷台に腰を下ろす。重くなってしまったリュックが、私の重心を極端に後方へずらした。私は思わず翔君の腰に掴まった。
彼は嫌がる素振りも見せず、むしろそれが自然であるかのように「お昼は食べた?」と普段通りに話しかけながら自転車を前進させた。
「少しだけね」
そう返しておけば、翔君が食べていてもそうでなくても対応できる。私はいつ誰に訊ねられてもそう返すようにしている。
「それなら、どこか寄って食べなくても大丈夫かな。僕は少し食べ過ぎてしまってさ」
私は昼食のソバも喉を通らなかったというのに――。彼にとっては女子を家に招くくらい普通のことなのだろうか。
翔君はいつでも冷静だ。今の私とはかなり違う。何を訊ねてもしれっと正直に返してくれそうな気がする。私は「どうして香奈美や草太君は誘わなかったの?」と訊ねてみた。
「せっかく良い勉強方法知ったから、皆に教えてあげたかったんだけど、テスト前に陽子ちゃんに提案したじゃない? そうしたら香奈美ちゃんがいるなら嫌だと言われたから、喧嘩でもしているのかと思って」
なるほど、ようやく合点がいった。その提案をされた瞬間は私がふて腐れていたため、ぶっきらぼうにそう返しただけだ。しかし、結果として引いてみる作戦が働いたようだ。
二人乗りをしていることで、翔君に顔を見られることはない。私は勝利の笑みを浮かべた。
ビートルズが勉強に繋がるというようなことも言っていたし、私が洋楽を知ったかぶりし、一夜漬けしたことも効いているようだ。受け応え一片一片が、恋愛成就に繋がりつつあるのだから、やはり私には恋愛の才能があるのかもしれない。
自転車を走らせて十五分ほどが経った。あきらかに分譲ではない個性豊かな一軒家が増えてきた。徐々に入り組んでいく道を右へ左へと不規則に進む。行きはヨイヨイと入り込むのは良いが、帰りは住宅地の迷宮から抜け出すことも難しそうだ。いっそ帰られなくなってしまい、一生を翔君の家で遂げても私は困らないのだが――。
急に翔君がブレーキを踏んだので、私は彼の背中にコテンとぶつかった。
「ごめんごめん。着いたよ」
眼前にあるは、ローテンブルクやコペンハーゲンにでもありそうな淡い色の一軒家。私はそんな所に行ったこともないし、国名すら分からない。だが、色鮮やかな窓枠や急勾配の三角屋根は、日本のそれとは全く思えない佇まいであった。
こんな家ならば、チーズフォンデュを日常的に食していても納得できる。
「お邪魔します」
元気に明るく行儀正しい女の子になりなさいと育てられた私は、威勢良く言う。
「今日は親いないから、何も気を遣わなくていいよ」
親がいない日に女子を自宅にあげるということは、やはりそういうことなのだろうか。期待するだけ案に違う展開になるのがこれまでであったため、喜びは押し殺す。翔君のことだからイチャイチャと雑談をするのではなく、勉強を教えるという目的だけを遂行するだろう。
リビングに通され、その広さに立ち尽くすしかなかった。ソファや椅子がいたるところに配置されており、どこに座ればよいのかも分からない。この家の勝手知ったるなんぞやになるには当分かかりそうだ。
鳩時計が掛けてあったため、鳩が丁度よく出てこないものかなあと、私はボケっと見つめ続けた。
「紅茶でいい?」
そう言って翔君がティーポットをテーブルに置いた。その辺りに座ればいいわけかと察し、私はティーポットの正面に腰を下ろす。
「それじゃあ、勉強の説明をするね。シャドウイングっていう――」
翔君は私の隣に腰を下ろし、口を開き始めた。勉強を教わるには互いに向き合って座っては勝手が悪い。しかし、この広いリビングですぐ隣に陣取られると、緊張で注意力が散漫になる。
吐く息がミントの香りだとか、胡座をかく姿が格好良いだとか、些細なことに意識が奪われた。私の視線に卑猥さを感じられたらまずいと思い、鳩時計に目を向けて誤摩化した。
「要するに、簡単な文法を使っている洋楽を聴きながら、CDと一緒に口ずさめばいいだけ。それだけで英語のリスニングは満点取れるし、英作文の問題も得意になれる」
私のすっとぼけた顔が見て取れたからか、翔君は声のボリュームを一段階上げて言った。
「はい、集中して頑張ります」
私は自分を叱咤するように言う。わざわざ私のテスト結果を心配しての招待なのに、初っ端の説明から翔君に手間取らせたら「もう帰っていいよ」と冷徹に言われてしまうかもしれない。
翔君はリモコンでコンポのスイッチを入れた。大袈裟すぎるくらいに大きいスピーカーから重低音が強く響く。ビートルズでも屈指の有名曲がリビングを包んだ。私が普段安物のイヤホンで聴いていた曲とは全く違う曲にさえ思えた。
「ビートルズの曲って、文法が簡単だし、リズミカルでシャドウイングに最適なんだ。それに、陽子ちゃんはビートルズを知ってるから、取っ付きやすいと思うよ」
翔君に歌詞カードを手渡され、まずは読んでみる。英語の歌詞なんて分かるわけがないと思ったが、高校入試程度の語彙力でも充分に読めた。
「曲をリピート再生にしたから、次から延々と歌詞を呟き続けるよ」
私はコクンと頷いた。
同じ曲が二十回ほど繰り返された頃には、歌詞カードを見ながらではあるものの、ペラペラとCDと同じペースで歌うことができるようにった。その代償として、最初は伸ばしていた背筋も丸まり、疲労感にまとわりつかれた。
しかし、悪い気はしていない。卒業式の練習なんかでは、校歌のワンフレーズを何十回も歌わされ嫌気が差したものだが、カラオケに来て翔君と一緒に歌っていると思えば平気だ。
「一回休憩してもいい? お手洗いに行きたくて」
曲の切れ目で私は申し出た。暖かかった紅茶も既に冷たいし、休憩を申し出ても自然な頃合いだろう。
「そこの扉から出て廊下を道なり進めば突き当たりにあるよ」
私は存分に伸びをしてから教えられた廊下を辿る。どうやら、奥に深い家のようで廊下が長い。敷地面積は私の家の倍はありそうだ。
休憩ついでに、翔君の部屋へ案内してもらえないか提案してみよう。楽しいひとときであったことは事実だが、このままビートルズの曲を全て歌えるようになっても、高校英語の点数が上がるような気はしない。そのうえ、私にとっての一番の問いは、どうやったら翔君と親密になれるかだ。中学の卒業アルバムでも見せてもらい、昔の彼女の情報を教えてもらう方が私の人生はプラスに転じる。
そんなことを考えながら用を足しリビングに戻る。
「歌ってみてどうだった? 英語の勉強に繋がる気がしなかったでしょ?」
私の心中を見透かすように言われ、ドキリとする。私の今後の展望までは読まれていなければよいのだが――。
「そういえば、英語の勉強だったということを忘れていたよ」
「勉強している気がしないよね。けれど、僕が今回の期末試験でしていた英語の勉強って、これと単語の暗記だけなんだよ」
私が知りたいのは、歌うことの効力より、翔君のことだ。この思いは通じていないようで、彼は違う曲で勉強を再開しようという手つきで、CDを選んでいる。
じれったくなった私は「翔君の部屋見てみたいな」と口にした。
その誘いに即返事をするわけでもなく、彼は私の顔をまじまじと見つめる。
「ほら、どういう環境で普段勉強しているのかなと思って」
翔君の思考を読めない私は、言葉を続けて取り繕った。
「まあ勉強は基本的にここでしているんだけれどね。いいよ、案内してあげる」
翔君は嫌な素振りを見せずに立ち上がった。私はフウと静かに息を吐く。
翔君の後ろにピタリとつけ、廊下を進んで階段を上る。翔君の小さなお尻が目に入り、私より小さいのではないかと目を剥いた。これだけスタイルが良いのならば、モデルなどの芸能活動もできそうであるし、知力もあるから勤められない会社もないだろう。将来に不安が無さそうで羨ましい。私は翔君がいない未来を考えると不安でしかない。次に理想の男性が目の前に現れるのはいつかも分からぬし、そのまま三十、四十を迎えたら恋愛体質の私は禁断症状で早死にするだろう。
通された翔君の部屋は、飾り気がなく生活感も皆無であった。とりわけ男子は、ぬいぐるみを飾ることも写真を貼付けることもしないだろうから、こんなものだろう。隠したいものは隠してあるだろうし、やはり卒業アルバムなどで話題を広げるしかなさそうだ。
卒業アルバムは、本棚から飛び出ていたためすぐに見つけられた。
「これ見たいなあ」
「え、面白くないからよしなよ」
目尻をさげて照れ笑いをしているところをみると、嫌というわけではなさそうだ。小学校と中学校のアルバムが並んでいたが、中学の方を私は手に取った。情報はなるべく今に近い方が良いに決まっている。
「翔君は何組?」
「一組だったよ」
彼も久しぶりにアルバムを見るのか、私の顔のすぐ横で食い入るように覗き込んでいる。
「おお。いたいた。髪短かったんだ。似合うじゃん」
私は写真と見比べるために、翔君の顔を眺めた。それに気がついた彼もこちらを向いたので、彼の鼻と私の鼻が触れそうになる。
「さあ、満足でしょ」
翔君はすぐに私から目を逸らし、アルバムを閉じようとした。
「いやいや。まだ翔君の元カノを見せてもらってないぞ」
私は閉じかけられた一組のページを大きく開き、とりわけ可愛らしい風貌の女子を指差し「この子でしょ」と断言してみせた。
「違うよ。その子は三年間ずっと同じ彼氏がいたの」
「ということは、片思いをしていたの?」
私はわざとらしく声を張った。翔君は「そういうわけでもないよ。こっち」と観念した様子でページを一枚めくった。
翔君が指差した女子は、想像と違う容姿だった。垢抜けていないというか、短く切りすぎている前髪が子供っぽさを助長させている。化粧映えしそうな顔ではあるが、輝きが足りていない。
「落ち着いた雰囲気の子がタイプなんだ?」
「どうだろうな。見た目でいうなら可愛いに越したことはないんだけれど」
「可愛いと一口に言っても色々あるじゃない。清楚とか華やかとか子供っぽいとか」
翔君の頭の奥底にある情報を地引き網でかっさらうつもりで、私は深く聞き出そうとするが、彼は返答に間を空けた。ごくりと私は唾を飲み込む。
「いや、まあ陽子ちゃんみたいなのが可愛いと思うよ」
言葉を発している翔君も耳を赤らめているだろうが、私も恥ずかしくなる。もっと自然に可愛いと言われる分には嬉しさを存分に浴びられるのだが、改まった雰囲気で言われると子恥ずかしい。
「私も翔君は素敵な人だと思う」
照れに絶えきれず話題を移してもよかったのだが、おそらく今が最大のチャンス。雰囲気に乗らない手はない。
絞り出した私の返答にまたしても間が空く。彼はモテるように見えるが、もこういう展開には慣れていないのだろうか。それはそれで、別の可愛さとして好意的に受け止められる。
「それじゃあこれからは、もっと遊んだり出かけたり、お互いの時間を一緒に過ごしてみる?」
「それは、付き合ってくれるということ?」
彼は照れからか一瞬視線を逸らし、「うん」と呟いた。
告白なのかどうか曖昧な一連の流れだったため、一瞬ヒヤリともしたが、ようやくこの瞬間に至ることができた。踊り狂えるほど心臓が高鳴るのが自分でも分かる。しかし、浮かれた私を見て「思っていたのと違う」と感じさせてはいけない。
「では、勉強しに戻ろうか」
「え、うん」
今度は私が先導してリビングに向かう。付き合うという選択肢をとった翔君は、私に惚れていということだ。これは自尊心なんかではない。ならば、引いてみる作戦は続けておくべきだ。
ここから重要となるのは、付き合い始めてからのテクニックである。私の恋愛経験において、半年以上続いた例はない。嘘か真か、少年院にいくと言って消えた鼻筋の通ったイケメン。バンド活動に力を入れたいからと言って消えた高身長の年上イケメン。浪人せずに美大へ行きたいから高校生活はドブに捨てると言って消えた長髪のお洒落イケメン。他にもお付き合いをした経験は多数あるが、大概のパターンは同じだ。「付き合い始めに近づきすることは厳禁」と助言をくれた香奈美の言う通りにしてみようではないか。
リビングに戻ると、彼は紅茶用にもう一度お湯を温め始めたので、私は「これでも摘もう」と秘蔵の名菓をリュックから引っ張り出した。
「そのお土産好きなんだよね」
彼は和やかにティータイムを迎えようとしているので、「勉強しながらね」と私は釘を刺した。
もちろん私の今日の目的は達成されたので、勉強なんぞに手を付ける必要もないが、これまでの翔君と私の立場は入れ替えておくべきだ。そうすれば、彼はより私に夢中になってくれるはずだ。
夢見心地な雰囲気から頭を切り替え、勉強を再開して一時間。互いに集中力が欠落してきたためか、合間の雑談も増えてきた。
「せっかくだから、僕と同じ大学に行こうよ」
「無理無理。いや、行けるのならば行きたいけれど、私が学力を上げるにはそれこそ英語以外も翔君に頼ってしまうことになる。足を引っ張るわけにはいかないよ」
「教えることも勉強になるから、気にしなくていいのに」
「では、徐々に教えてもらうようにしようかな」
曲がリピートするタイミングや間奏に、このように甘いやり取りをして、再度曲を口ずさむ。そのため口は常に開きっぱなしだ。次第に口の周りの筋肉が痛んでくる。
「夕食はどうする?」
翔君は曲を一時停止させた。ちょうど私も休憩を申し入れようとしたところだった。
「せっかくだし、私作ろうか?」
「料理できるの? 和食が食べたいな」
「和食は難しいのです。ホットケーキでは駄目かな?」
反応に困らせてしまうかと危惧したが、笑ってくれている。ならばこのままホットケーキ案を採用させてもらおう。
「冷蔵庫の中を見させてもらうね」私はキッチンへ向かった。
自分から「作ろうか?」などと言ってしまったが、私の料理スキルは炒めることのみ。和食が良いと言われても、定番の肉じゃがは煮る必要があるし、男子が好みそうなカツ丼なんかは、卵でとじる必要がある。不器用な私に作れるはずがない。
「卵と牛乳とバターはあるね。粉がないから、小麦粉に砂糖を混ぜれば買いに行かなくても作れるね」
「へえ。専用の粉なしで作れるんだ。凄いね」
こんな程度の知識で凄いと思ってくれたのなら幸いだ。翔君が料理も得意だったのならば、いよいよ私の立場が危うかったが、そうではないようなので安心だ。
「さて、作ろうか。けれど二人でキッチンに立つって、色々過程をすっ飛ばした気になるね」
「どちらかが一人暮らしをしているか、同棲するかしないと実現しないことだからね」
彼の言う通り、一緒に料理をするなんて、実現するとしたら当分先のことだと思っていた。なので料理は、自宅でも手伝うこともなかった。ともあれ、彼氏と一緒にスイーツを作れるなんて夢のようではないか。
私は鼻歌交じりに食器棚を見上げ、使えそうなものを手に取っていく。上の方に調度よいボウルがあるので背伸びをすると、彼の手が伸びてきてきた。目的のボウルを両手で手渡ししてくれる。
「ありがとう。じゃあ、卵を二つ割ってくれるかな?」
翔君は得意気に「任せて」と腕をまくる。それがなんだか少年のようで、私は見ているだけで笑いがこみ上げてきた。
「殻が入ってるよ」
私は箸で殻を摘んでみせた。私以上に料理が不得意であるとは意外である。知らない一面もまだまだ多いようだ。そうはいえども、私とて綺麗にホットケーキをひっくり返す自信はない。
「ほら、あとはやっておくから、向こうでジッとしていなさい」
私の不器用な一面が、無駄に露呈されるのは避けておくべきだ。
二人でキッチンに立ったのは短いながらも実現された。良い思い出は、良い状態のままで終わらせておく方が健全だ。この機会が再来するまでには私も腕を磨いておくので、それまで彼には我慢して頂こう。
粗末ながら夕食を済ませ、私は帰宅することにした。彼は私を泊めるつもりでいたようだが、付き合った初日から同じ場所で寝泊まりするのは少々気が引ける。当初は私とて泊まることに胸躍らせていたが、急ぐとどこかで転けそうだ。私から自制しておいた方が気持ち的にも楽だ。
彼が漕ぐ自転車は、来た時よりもいささかゆっくりとしている。「自宅まで送るよ」と申し出てくれもしたが、私は「大丈夫大丈夫」と申し出を断った。私だってまだ彼といたいのは同じだが、さすがに自宅まで送ってもらうのは図々しい気がする。
「今日はありがとう。家でも勉強するね」
「応援してるよ。頑張ってね」
翔君が去っていくのを確認し、私はすぐに香奈美にメッセージを送る。『翔君付き合えた軌跡ありがとう』誤字脱字だらけだが、そのまま送信をしてしまう。ようやく心労する生活から抜け出し、甘い夏休みを謳歌できるのだ。誰かと共有しないとウズウズが止まらない。
ついでに翔君にもメッセージを送る。『夏休みはどこへ行こうか。花火大会は絶対に行こうね』先ほど勉強がどうのと言って挨拶を交わしたばかりだが、これくらいの提案はしても許されるはずだ。
夜でも暑さを感じる近頃。暑さからか興奮からか、額に汗が滲む。香奈美や翔君の他に、中学の級友など幾人もとメッセージのやり取りをしながら、私は家路を歩いた。
◆
月曜だというのに気分が重くない。毎週このような心持ちで登校したいものだ。私はいつもより若干早く登校し、教室で香奈美が来るのを待っていた。
予鈴が鳴り、私以外の生徒達が自習のためにノートや筆記用具を出し始めた頃、彼女は教室に入ってきた。そのままニヤニヤと彼女の方から私の席に近づいてくる。私に改めて「おめでとう」と賛辞を送ってくれるのだろうか。
「いやあ、購買で翔君を見かけたんだけどさ、女子から告られてるっぽかったよ」
彼女がニヤついているのは、私の表情がどう変貌するのか楽しみにしているからだろう。
「そんなこともあるでしょう、彼ほどの男なら」
私は平然と応えた。引く手数多なのは当初から把握しているし、今さら驚きもしない。さっそうと「陽子ちゃんという子と付き合っていますので――」と言ったに違いない。
「相手が強引だったら、連絡先くらい教えちゃうんじゃない? 女子の方の上履き、青色だったから三年だよ。男は年上に弱いぞ」
「強かろうが弱かろうが、付き合い立ての頃にさっそく浮気なんてするわけないから大丈夫。まあ連絡先くらいは教えてしまっているかもね。彼は優しいから」
私は脚を組んだ。仮に私以上の女子力を持つ先輩だったとしても、この創世記で絶好調の翔君と私の牙城は崩せまい。
「その翔君の優しさとやらにつけ込んで、相談があると言っては誘い出し、徐々に距離を詰められるかもねえ」
「意地悪なことを言うなあ。相談くらいだったら、ファストフード店で会うこともあるんじゃない。彼は優しいから」
「それ許すんだ。ウチからしたら浮気の境界線超えてるよ」
「それは境界線が厳しすぎるよ。彼の心が浮ついていなければ、浮気ではない」
「いやいや、浮気ってさ――」
香奈美は言葉を途切らせて周りを見渡す。それにつられて私も周囲に目をやると、どこからか痛い視線が飛んできていることに気がついた。自習時間に浮気論争で騒ぐ私達の声は、教室中に響いていた。「またあとでね」と香奈美は自席に向かっていった。
聞き耳を立ていなくとも聞こえる声量により、私の交際相手が全員に知れ渡ったことだろう。この噂は次の休み時間には学年中に伝わってしまうはずだ。それはそれで優越感に浸れるので悪い気はしない。
けれど、その噂が広まることで、翔君への駆け込み需要が増したりしないだろうか。付き合い立てだからこそ、私との関係を考え直すということもありえるかもしれない。
愚図ついた雲を見上げる。空の暗さが私の心を徐々に浸食してく。
「三年生か」
誰にも聞こえないように独り言ちる。翔君が私を捨てて別の女子と付き合うことはありえない。しかし、その女子が翔君の志望校を受験するつもりだったら――。もしその女子が昔の彼女で、復縁を迫っていたのならば――。
翔君の紳士さに感銘を受けたタイミングはいくつかあったが、それはそれだけ女性経験があるからともいえる。今までは育ちが良いのだと思うようにしていたが、それだけではないのかもしれない。
雲の隙間から日光が差してきた。私の未来は明るいから安心しなさいと天が言っているようである。私は目を瞑り、妄想の世界で太陽に近づいていき、日光を存分に浴びて心を浄化させた。彼を疑うのはよくない。一瞬でも疑念を抱いてしまった自分を許してください。
不安を払い拭ったからか、ポカポカと気持ちよくなってきた。このまま体が溶けてしまいそうだ。
私の白い腕がトロンと重力に無抵抗になる。細くて長い足は徐々に形状を失い、放射状に地面へ広がっていく。
私の視点は徐々に下がり、地面から数十センチの位置で止まった。




