からす天狗としょおとすとぉりぃ
―最近、蓮美の様子がおかしい。
食卓に並ぶのはもみじおろしを添えた焼きさんま。茄子の田楽味噌と豚汁。秋の味覚をふんだんに使った夕食だ。
けれど蓮美は食事もそこそこに、箸を置いた。
「ごめんなさい、天風。凛子と新しくオープンした甘味処に寄ってきちゃって、お腹が空いてないの」
「⋅⋅⋅それ、一昨日も仰ってましたね」
「そうなのよ。本当に最近多いわよね、新店舗」
にっこり微笑む蓮美に嘘は見えない。けれど彼女は嘘がうまいから、油断できなかった。
昨日は、石蕗家で食事することになったから夕飯はいらないと、使いの者が来た。一昨日だけじゃない。その前の日もそのまた前の日も、なんだかんだ理由をつけて彼女は食事を断る。
なにか理由があるのは明白だったが、なかなか聞き出すことができずにいた。
だがやはり黙っていられない。天風は強行策をとることにした。
◇ ◆ ◇
次の日。普段どおりに家を出ていく蓮美を見送る。玄関や居間の掃除を終えると、買い物かごを片手に家を出た。
最近蓮美は天風の外出に寛容になってきたため、食材を購入するのは専ら彼の役目になっていた。さすがに二人分の食料を学校帰りに買い続けるのは重労働だったのだろう。
―というか、鉄心殿にはやらせていたんだから、素直に任せればよかったものを。
そう思う天風は、悪目立ちする容貌にあまり頓着しない。八百屋の女将がおまけしてくれるなら悪くない、くらいの感覚だ。
「今日はごぼうがおいしそうですね。真っ直ぐで太い」
「天風さん、今日もいい男っぷりだねぇ。特別に安くしとくよ。おまけにこれもつけようじゃないか」
そう言いながら女将が差し出したのは、大ぶりのさつまいもだった。まだ軽く土が付いている。
「これは立派な⋅⋅⋅」
「私の親戚が育ててるのさ。甘くておいしいよ」
これで菓子を作ったら、蓮美は喜ぶだろうか。天風の手料理で目を輝かせる彼女を久しく見ていない。甘い物なら嬉しいかもしれないと思った。
天風はごぼうとさつまいも、それに新鮮なきんきを魚屋で購入して帰った。
家に帰り、すぐに料理の下ごしらえに取りかかる。きんきは煮付けにしようと思っているので、早く調理をはじめた方がいい。煮ている時より冷めていく過程で、味はよくしみるのだ。さつまいもも蒸かして裏ごしするから時間も手間もかかる。
けれど天風は、この時間が嫌いじゃなかった。頑張った分、蓮美が喜んでくれれば報われるというものだ。最近は、おいしいと笑う顔を見ていないけれど⋅⋅⋅。
下ごしらえを終えると、普段ならあやかし長屋へ行く。今日一日、江都に住むあやかしにトラブルはなかったか確認するためだ。
長屋には情報通のあやかしもいるので、『はぐれ者』の動向も探れる。もし不穏な動きがあったら即座に潰す。蓮美に危害が及ばぬように、常日頃から目を光らせていることが大切だった。
けれど今日は、少しくつろいだあと女学校へ向かった。蓮美に用事があるわけではない。最近の彼女の挙動が怪しいわけを、探るためだった。
―もし見つかったら、本当にストーカー認定されるだろうな。
見つからずとも十分ストーキングしていることに天風は気付いていない。
女学校から蓮美が出てきた。隣にはいつも一緒にいる親友。また二人でどこかに出かけるつもりだろう。天風は姿くらましの術を使い、彼女たちのごく近くまで迫った。盗み聞きが犯罪だということにも、彼は気付いていない。
「知ってる?こないだ行った喫茶店の近くの雑貨屋さん、今スゴい人気なんだよ」
「何があるの?」
「硝子細工!外国の色硝子が使われた小物が、スッゴくかわいいらしいの!行ってみない?」
蓮美は目を輝かせながら頷いた。
流行に敏感な親友の凛子は、いつもこうして蓮美を連れだす。そのせいで蓮美の帰りがよく遅くなるので、天風は彼女を勝手にライバル視していた。大切な少女がとても嬉しそうに笑うから余計に悔しかった。
楽しそうにおしゃべりする二人のあとについていくと、雑貨店に着いた。
店の外観からおしゃれだ。通り沿いは硝子張りになっていて、商品がきれいに陳列されている。その瑠璃や黄玉、瑪瑙の美しさが店の外からでも目を引いた。店内には女性客ばかり。
さすがにこの雰囲気の中、割って入っていく勇気はない。天風はそこで追跡を諦めた。
だがこれで、今日は甘味処に行かないだろうと思った。女性の買い物が長いことくらい、あやかしの天風でも知っているのだ。
家に舞い戻り夕食の準備をはじめる。蓮美は思ったとおり、一時間ほどで帰ってきた。もしあのあと甘味処に行っていれば、話が弾んでもっと遅くなったはず。間違いなく雑貨店からそのまま帰った。はずなのに。
「ごめんなさい天風。今日も凛子と喫茶店に行ってたから、お腹空いてないの」
嘘だ。それが嘘だと、天風にははっきり分かる。
蓮美は申しわけなさそうに続けた。
「というか、これからもたくさん甘味巡りをすると思うの。本当に新しいお店が次々できてるから。せっかく作ってくれたものを余らせちゃうのも悪いから、しばらく夕食作らなくて大丈夫よ」
これは衝撃だった。天風は完全に思考が停止して、自室に戻っていく蓮美の背中を呆然と見送った。
間違いない。やはりこれは、避けられているのだ。
もっと早くに気付くべきだった。ここまで露骨に避けられるまで分からないなんて、鈍いにも程がある。
一体自分はなにをしてしまったのだろう。きっとなにか気に障ることを、いつの間にかやっていたのだ。
喜ぶ顔が見たくて作った、まだ温かいスイートポテトが、むなしく冷めていった。
◇ ◆ ◇
秋の風が家に吹き込んでくる。夕方になると風も冷たい。夏がいよいよ終わるのだ、と実感する。
夕暮れの妖しいまでの赤さに気付き、天風は雨戸を閉めるために縁側に出た。そこに、蓮美がいた。
彼女は足を庭石に下ろし、すやすやと寝息を立てている。どうやら本を読んでいるうちに寝てしまったようだ。近付いても全く起きない。
天風はその手にあった書物をそっと抜き取り、傍らに置いた。
こんなふうに彼女をまじまじ見つめるのは久しぶりだ。避けられていると気付いた途端、どう接していいか分からなくなってしまった。気まずいままいつの間にか日が経っていた。
この家を出るべきなのか。避けられている今、天風が蓮美にしてあげられることといえばそれくらいだ。そしてそれが本来、主従としての適切な距離。
―俺は、もう少し蓮美と離れるべきなんだろう。
以前からずっと考えていたことだ。守る対象に近付きすぎては、己の感情が邪魔になる。一緒に暮らし始めたこと自体が間違っていたのだ。そう思っていたのに、向こうから避けられはじめた途端この体たらく。
―全く。矛盾しているな、俺は。
眠る蓮美の長い髪に触れる。さらさらの髪に鼓動が早くなると同時に、温かな体温にほっとする。これも矛盾だ。
封印の書は、存在自体が危険なもの。それが近くにある限りあやかしは出現する。実は、天風はずっと前から天本家を守護していた。
けれど、あやかしとの過度の接触は少女に悪影響を及ぼす。そう鉄心と話し合い、蓮美が物心つく前に、彼女の側を離れることにした。
それからはずっと遠くから見守っていた。鉄心が亡くなった時はさすがに見ていられず、側で支えてやりたいと思ったが、封印の書を蓮美が見つけるまでは接触しないという鉄心との約定があった。なにより、記憶にないあやかしが突然目の前に現れたって、彼女が驚くだけだろうと思った。
それでも、見守っているだけで天風は充足感を得ていた。彼女がただそこにいる。それだけで満ち足りていた。
けれど、蓮美が封印の書を見つけ、封印を解いた時、全てが動きだした。今までよりずっと近くで、成長した蓮美を守る。幼い頃から知っているはずなのに、久しぶりの彼女は想像と違った。
意地っ張りで嫌みっぽくて、すぐむくれる。おいしいごはんにころりと機嫌を直す。たまに見せる笑顔の眩しさ。想像よりずっと、一緒にいて楽しかった。かわいかった。どんどん惹かれた。
だから心が矛盾を抱える。蓮美を傷付けようとする何者からも守りたいと思う。幼いままの彼女をただ守りたいと。
一方で、触れたい、抱きしめたいとも思う。誰も寄せ付けず、誰の目にも触れさせず、永遠に自分だけのものに。
天風は自分こそをなにより怖れていた。荒ぶる感情が、守るはずの少女をいつか傷付けそうで。
「⋅⋅⋅ん」
寝返りを打った蓮美が、温もりを求めるように天風の膝に頬を寄せる。優しい感触。愛しい体温。
天風は柔らかな頬に触れた。壊れ物のように、そっと。睫毛がふるりと震える。その向こうにある瞳の色が、大和国の民の特徴である漆黒ではなく、藍色を帯びていることを天風は知っている。
彼女はもうすぐ十六歳になる。⋅⋅⋅⋅⋅⋅十六歳。
「蓮美⋅⋅⋅⋅⋅⋅」
呟き、天風はふと眉を寄せた。眠る少女の顔が、じわじわ赤く染まっていくのだ。
「⋅⋅⋅⋅⋅⋅」
天風は半眼になり、蓮美の額をぺしりと叩いた。痛くしてはいないが、彼女は恨みがましく額をさすりながら起き上がった。
「なに狸寝入りしてるんですか、あなたは」
「最初は本当に寝てました!天風が頬をなでたりするから起きちゃったんでしょ!てゆうか、『蓮美』って⋅⋅⋅⋅⋅⋅」
思い出したように蓮美が頬がどんどん赤くなる。
まずい。聞かれていないと思ったから、つい慣れた口調になってしまった。
天風は内心の焦りを押し隠し、にっこりと綺麗に笑った。
「もちろん、起きていると気付いてあえて呼んだのですよ?呼び捨てすれば、自分から尻尾を出すかと思ったので」
蓮美はしばらくぽかんとしていたが、意味が浸透するにつれ、別の感情で顔が赤くなっていく。悔しいとぷるぷる震え、口をへの字に曲げる癖は子どもの頃と全く変わらない。
しかししばらく睨んでいたかと思うと、急に我に返ったように顔をそらした。慌てて逃げ出そうとするのを、抱きしめて押しとどめる。蓮美の体が硬直したのが分かった。
後ろから真っ赤に色付いた顔を覗きこむ。頼りなげな瞳が見上げてきた。
「こ、これもなにかの作戦⋅⋅⋅?」
「もちろん。これならあなたも嘘をつけないでしょう?」
どうだろうか。適当な理由をつけて、ただ触れたかっただけかもしれない。
「あなたは明らかに私を避けている。その理由をお聞かせください」
じっと見つめていると、蓮美は顔を背けようとした。あごを掴んでそれを阻止する。
「せっかくの料理も残す。私の腕が落ちましたか?ならそう言って下さらないと、改善の余地がありません」
「あ、あなたの料理はおいしいわ。残しちゃったのは⋅⋅⋅本当にごめんなさい」
彼女はそれでも天風を見ない。なぜそうまで必死に顔をそらそうとするのか。
「ならば―――私を嫌いになりましたか?」
硬い声で聞くと、蓮美は心底驚いた顔で振り返った。
「そんなわけないじゃない!あなたを嫌いになんて―――」
ばっちり目が合うと、彼女は警戒心剥き出しの猫のように、勢いよく天風の腕から抜け出した。
「見ないで‼」
「は?」
「私⋅⋅⋅太っちゃったの!!」
「⋅⋅⋅⋅⋅⋅はぁ?」
蓮美は着物の袂で一生懸命顔を隠している。意味が分からない。
「天風だって気付いてるでしょ!?最近顔もまるくなってきたし、お腹にもお肉が⋅⋅⋅!!天風のせいだもん‼」
なぜそこで自分の名前が出るのか。
蓮美はやけくそぎみに主張した。
「天風のごはんがおいしすぎるのがいけないのよ‼つい食べすぎちゃって、それで太っちゃったの!!だからこっそりダイエットしてたのに!!居間にいると結局食べちゃうから、部屋にこもって⋅⋅⋅太った姿も見られたくないし」
色々理由をつけて夕食を抜いていたのはダイエットのため。顔を合わせようとしなかったのは、太った姿が恥ずかしかったから。なんてまぬけな真相だ。
そして嫌われたと勘違いして落ち込んでいた自分は、もっともっとまぬけだった。
天風はその場にへたりこむ。安心したら力が抜けた。
「そんな理由で⋅⋅⋅」
「そんな理由とはなによ!女の子にとっては重大なことなんだから!」
「あなたはかわいいですよ」
顔を上げずに言ったら、息をのむ気配がした。
「太ったってどうなったって、あなたはかわいいままです」
むしろ太ったことで他の男の目を引かなくなるのなら、その方がずっといいとさえ思う。特にどこかの子爵家の三男とか。
眼鏡を押し上げながら蓮美を見る。彼女は顔をおさえて固まっていた。泣きそうなその顔は、今までで一番赤い。
自分がなにを言ったのか振り返り、失言だったと思う。けれどそれ以上に、彼女の潤んだ瞳に惹かれてしまった。
立ち上がり、距離を詰める。近付くと蓮美はびくりと体を揺らしたが、逃げ出しはしなかった。逃げようにも足が動かないのかもしれない。その方が都合がいい。思う存分見つめていられる。
潤んだ瞳が熱情を煽る。白桃のような頬に触れると、想像以上に熱かった。赤い唇がわずかに開いていて、そこからのぞく濡れた舌に噛みつきたくなった。これはあやかしの性なのだろうか。
衝動のまま顔をゆっくり近付け――
がったん
居間から聞こえた物音に思わず振り向く。仏壇にある鉄心の位牌が倒れていた。
すっと血の気が引いた天風は、無言のまま蓮美を解放した。
◇ ◆ ◇
秋はおいしいものが増えるから、つい気合いを入れすぎていたのかもしれない。天風は少し反省し、蓮美のために太らない料理を研究していた。豆腐や野菜、ささみ肉を中心に献立を作っていく。
蓮美も無事夕食を食べるようになった。本人は少し痩せてきたと言っていたが、天風にはあまり違いが分からない。それよりとにかく関係が修復されたことにほっとしている。けれど。
「天風、お醤油⋅⋅⋅」
「どうぞ」
お互いの指先が触れ、しばし無言になる。
二人の関係が完全に元に戻ったのかというと―――それは分からない。