殺鳥と死の爆撃機
その日、急な残業のせいで帰宅が遅くなったので、晩酌の時間がずれてしまい、いつものようには、十分に酔えていなかった。普段の就寝時間は過ぎ、体と心がちぐはぐなまま、うまく寝つけそうにないなという不安は的中し、案の定、布団の中で悶々とする羽目になった。暗闇に眼がなれ、自らの体温で温くなった布団に心地よさを覚える頃、なんとはなしに、今日私が命を殺した鳥のことを考えた。
いや、殺したという表現は語弊がある。私が彼?いや彼女だろうか・・・、を殺したのは間違いないだろうが、私には殺したという実感は欠片もない。つまり、仕事中、私の運転する車と鳥が接触し、鳥が死んだという事実でしかない。
雲ひとつない晴天の空の昼下がり、渋滞知らずの走り慣れた土手の堤防道を惰性で進んでいた。汗を引かせないまとわりつくような暑さも車の中とは無縁だった。道路脇の草むらに居た鳥は、目と鼻の先を通りぬけようとする60キロの鉄の塊に驚き飛び上がり、その中途半端な上昇曲線は車の進路と重なった。ぶつかる直前の鳥の濁った眼と視線が交わり、咄嗟に私は眼を逸らした。ハンドルを握る手に、地面の段差を乗り越えた程度の衝撃がかすかに伝わってきた。
しばらくして助手席の窓ガラス上部に、ファンタグレープやスイカの汁のような、紫色の液体が、こびりついていることに気づいた。ただ、それだけの事実でしかない。私が殺した実感はない。悲しくもない。悪いとも思っていない。罪とも思っていない。そして私は淡々と、死と私について興味深そうに思いを巡らす。
仮説1 私は殺す瞬間も死体も確認していないから、殺した実感がない。
こびりついた血痕の量や、60キロの鉄の塊の衝撃から言えば、死んだのは間違いないと頭では理解している。では殺害の瞬間や殺害後を確認しなければ、こうも何も感じずにすむものなのか。目隠しでもすれば、誰でもいっぱしの殺害者になれるのかもしれない。
仮説2 自らの手は汚れない車越し。さらにハンドルに伝わってきた段差の衝撃しか手応えがなかったから。
拳銃や爆撃機やら、手にはボタンを押した反動しかこないようなやり口なら、誰でも、命令をこなすいっぱしの殺害ロボットになれるのかもしれない。
仮説3 相手が鳥だったから
じゃあどこまでなら、どこからなら、死を感じるのだろうか。
いやいや、ちょっとどうかしている。普段と違う時間に飲んだアルコールは、普段と違う脳みその部分に作用でもしているのかもしれない。この思考の行き着く先は、異常殺人者の思考そのものではないか。いや、そういうことなのだろうか。
ヤツラがのたまう『人を殺してみたかった・・・、』 訳がわからんと一笑に付していたあの言葉は、あれは、○○を殺したら、自分の心はどう感じるのか、死を感じるのか知りたかったと、アレはそういう意味の言葉か。今私が考えている事を実験したか、実験していないかの違いでしかないのかもしれない。
快楽を感じ、ヤツラはやみつきになったのかもしれない。
次第に、対象や規模が大きくなっていったのかもしれない。
いや、結局最後までいっても、自分の心を、死を感じる事はできていなかったのかもしれない・・・。
思考のまとまりがなくなり、気づけば眠りに落ちていた。
翌日は、あいにくの天候で、夏特有の集中豪雨だった。しかし仕事は順調に終わり普段通りに過ごせた。
翌々日、あぁあの雨で血が流れて消えたのだなと、ふと、助手席を眺めて気づいた。心のひっかかりも、雨に流され、もうなにも痕跡は残っていない。
ただ思う。もしもいつかバスジャックでもされて、私が運転手で、人が居る歩道を走れといわれたら、目を細めて必要以上の惨事は見ないようにして、爆撃機のように歩道を突き進み、飛び散らすのだろう。あの日、鳥が死んだ日に考えてしまったことを確かめようと。
私小説風のフィクションであり、実在や現実のアレコレとは一切関係ございません。