鈴虫~若葉~
薄っぺらい紙きれは、とても軽やかだったが、身体や神経中にその紙切れの示す意味の重さが、ずっしりと高熱を出したかのような重苦しい痛みと疲労感を牧は感じていた。
昨夜、明子が来て意を決した牧は、仕事の帰りに区役所の窓口でその紙切れを差し出すと、事務的な対応で淡々と離婚届は受理された。
事そのものが明確に、終わりを告げた事を実感した牧は、区役所の自動ドアを出ると、じんわりと目頭の奥が熱くなっていた。自然と溢れ出す、これまでの結婚生活と涙を堪えるように、大きく鼻で息を吐き出し歩き出した。
当たり前のように、あった形が瞬く間に消え去り、牧の中では未だ気持ちが現実に追いつく事ができず、ただただ明子が去ってしまい、一人になった現実に打ちひしがれるばかりだった。
夜風が秋風に変わり、車道を走る車のエンジン音にかき消されそうな中、鈴虫の鳴く声が響いていた。
昼間は、気を目いっぱい張って大捕り物の準備に身構えしていたが、署を一歩出るとただの妻に捨てられた中年の男になっている自分を、頭の片隅に客観視していた。しかし、どうしようもない現状に、牧は肩を落としたまま重い足取りで家路に向かって行った。
明け方、牧は横山の電話で起こされた。朝日が昇り、カーテン越しに薄く光が反射していた。
「詐欺集団の一人、滝沢史子から警察署に連絡があった。主犯の金田司が、何者かに襲われ意識不明の重体で救急搬送された。滝沢史子は、任意同行した」
緊迫した空気が、部屋の中に張りつめ、牧の眠気が一気に覚めた。
「現場は金田達のアジトだ。応援頼む」
「分かった。すぐ向かう」
電話を切り、カーテンを勢いよく開けると、朝日が部屋に差し込み、窓辺の観葉植物が艶やかに葉を輝かせていた。花心も何もない牧にとって、明子が置き去った名前も分からない植物は、とりあえず枯らさないよう水をあげていたが、不意に目に留まったそれらからは、新しい若葉が小さく丸みを帯びて成長しかけていた。牧は、それを見て自分自身も成長していかなくてはならないのだろうと、健気に育っていく植物の若葉を見て痛感していた。
車で現場に駆け付けると、既に規制線が張られその間を潜り抜け鉄の階段を上って行った。辺りはまだ街が目を覚ましておらず、スズメやカラスの鳴き声がよく聞こえていた。
部屋の中は、物が床に散乱し争った形跡と思われる光景だった。
「牧さん、お疲れ様です。凶器と思われる物が、奥の部屋で発見されてます」
鑑識が声をかけ、牧は一緒に奥の部屋に向かった。窓がなく蛍光灯の明かりに照らされた部屋の中は、血痕が飛び散り彼方此方に付いていた。そうして、鑑識が床を指さし、金田が横たわっていた印の横に、鉄パイプが転がっていたのを見つけた。
「それで、金田を殴りつけたんでしょうね………。指紋は?」
「手で持って殴ったとすれば、その持ち手の辺りはほとんど何もなく、多分金田のものであろう跡は、見つかっていますが今確認してます」
牧は、鑑識の話を聞くと辺りを見渡し散らかった部屋をじっくり見ていた。金田の趣味か、滝沢の趣味なのかは定かでないが、カジュアルな雰囲気の部屋には、パソコンや経済関係の雑誌や書籍が散らばり、革張りのソファーの辺りには滝沢の私物と思われる化粧品が散らばり、その中にはピルやコンドームなども散乱していた。投げ倒されたデスクの近くには、デスクトップ型のパソコンが横たわり、鑑識が写真を撮った後それらをダンボールに入れ押収していた。
「女は、午前3時過ぎに金田が襲われた後、連絡を受けてここに駆け付けたそうです」
「金田は幸いにも重体。相手は、殺す気だったのか脅す気だったのか………さて、回復を待ちましょう。そのパソコンの中にも何か見つかりそうですしね」
牧は胸の中で、金田の意識の回復を願っていた。
翌日、詐欺集団の仲間である河原と小野も取り押さえ、行方不明になった男達の事を確認したが、河原も小野も滝沢も「知らない」の一点張りだった。本当に知らないのか、何かを隠し、金田の指示を待っているのか、肝心かなめの金田の意識は未だ回復せず前に進まないまま、牧達の誰もが金田の回復を願っていた。
昼に牧と横山は、金田の様子を見に行く途中、二人で定食屋に入り昼食を食べていた。
そうして、牧は横山に自分が離婚したことを話した。
「そうか………そんな時に、立て込んだ状況ですまないな」
味噌汁に口をつけ、小さく息を吐いた横山に牧は小さく首を振った。
「いや、その方が気が紛れる。これまでも、一人でやって来たのだし、時期に慣れるだろう」
力なく牧は笑ったが、瞬時に表情を変えぼそりと横山に話した。
「こないだ、鑑識にだした人形だが、あの、阿久津 かほが送り主だった」
「阿久津………あの、連続殺人事件で夫を亡くしたあの」
「あぁ」
「けど、どうしてお前の家に」
目を丸くし、横山はゴクンとご飯を飲み込むと、緑茶をすすり牧の話に耳を傾けた。
「俺宛じゃない。明子宛てだ。明子の趣味が阿久津と結びついた。明子は旧姓を名乗っているし、まさかあの時の刑事の妻に送っているとは、露知らずだろう」
「しかし、因果関係だな。あの事件で、鷺沼は闇サイトから殺人依頼を受けていた。そうして、今回の詐欺事件、失踪事件に絡む事も。けど、阿久津の家からは、サイトの履歴や発信はなかったはず」
「ブライスドール………」
牧は、汁椀に口を付るとぼそりとそう言った。
「なんだ?」
「人形だよ。阿久津の夫が死んだ時、自宅からは全くその影も形もなかったが。阿久津は、現在、ブライスドール作家として表立っている」
「そう言えば、阿久津には双子の姉がいて子供の頃に亡くなったとか」
「学校の屋上から飛び降りて」
牧は、鷺沼の部屋から発見された悪趣味なコレクションである、死体の写真を思い出した。その中に、阿久津かほの姉である、郡司ナホの姿があった。牧は、郡司ナホが保護されていた施設にも足を運び、そこで思わぬ情報を掴んでいた。彼女は、いつも大事にブライスドールを持っていたと。そうして、その妹で祖父母に引き取られていた体の弱い阿久津かほが、時々遊びに来ては、同じ人形を持っていた事。そうして、郡司ナホが当時学校で、陰湿ないじめに遭っていた。郡司と同じように鷺沼と一緒に、学校の屋上から飛び降りて亡くなった、阿久津の夫は、当時郡司をいじめていた男の一人だったと言う事を、あの姉妹を幼少から知る男から、話を聞いた。絵にかいたような幸せな家庭の夫と言う印象だった、その男から真実が聞けるか内心期待していたが、遠藤と名乗る男はそれ以上は何も話さなかった。
「………俺は」
牧は、ゆっくりと視線をあげ横山の顔を見て口を開いた。そうてい、横山は食事を平らげ爪楊枝を手に歯に詰まった物を取り除いていた。
「今回の事件も、その因果関係で阿久津も関係している気がするんだ」
牧がゆっくりとそう話すと、横山は真面目な表情で爪楊枝をトレイに置き牧を見た。
「珍しいな。お前がそんな風に憶測するなんて。いつも冷静で事実を明確にして事件解決していくのに」
横山は少し驚いたが、牧の事件に対する思いや仕事への熱意を分かっているがゆえに、それ以上は何も言わなかった。
食事を終え、二人は定食屋を後にして金田のいる病院へ向かった。
短い夏休みを先週しました。
今回のお話は、以前書いた作品がちらりとでてます。(覚えきれてないので、作者自身、前作を見て確認………)前作では、牧はちょっと気味悪い雰囲気のチョイ役でした。
(今回は、哀れな一面もありますが)
まだまだお話は続きます。
どうぞよろしくお願いいたします。