蜩その3 ~仰向けになった亡骸~
鑑識から引き取った明子の荷物のダンボールを片手に、牧は湿度の高い熱帯夜の空気を身体に纏わりつかせ、気だるさを感じながら、重い足取りで一歩一歩自宅に向かっていた。これほどまでに、自宅に帰ることが憂鬱でならない事がなかった牧にとって、明子の待つであろう自宅と、そこで起こる関係の終止符に、気が滅入る程の抵抗感で一杯だった。
『どうして、こんな事になったんだ………』
堂々巡りの考えが浮かんでは消え、そうしては重いため息を吐く事を、牧は明子が出て行って以来繰り返していた。
家のドアの前までたどり着き、牧は自分が情けない表情をしている事には気が付かづ、ただただ不安と悲しさで胸が一杯な思いを、無理やりねじ伏せて身を引き締めた。
ドアを開けると、玄関に明かりが灯り牧の帰宅をいつも迎え待っていた日常を錯覚した。玄関には、明子が履いているサンダルが行儀よく揃えられていた。牧は、ゆっくりと部屋に入りリビングのドアを開けた。中は明るくカーテンは閉められ、ソファーに明子が静かに座っているのが見えた。
「お帰りなさい」
淡々とした口調で、明子は座ったまま顔を上げ牧に言った。黒く長い髪をポニーテールに結わきあげ、白いシャツとブルーのスカート姿の明子は、硬い表情をしたまま牧を見ていた。
「ただいま………」
牧は、明子のいる日常に気持ちが怯み一瞬顔を綻ばせた。しかし、明子の変わらない表情に、牧はじりじりと近づく、二人のこれからの事を察すると胸が締め付けられるような苦しさを感じた。
「離婚届、書いて下さい」
明子は、牧が部屋にしまっておいた書類を見つけ、ソファーの前のローテーブルにボールペンと共に差し出した。薄っぺらいその紙には、明子が既に印まで押して意思表示を固めた途轍もなく重たい気持ちの重量感があった。
「その前に、理由を教えてほしい」
牧は、声と意を決して振り絞り明子に言った。明子は、小さくため息を吐くと三日月型の目が、ひんやりとした印象を見せ牧の方に顔を上げた。
「………私が、結婚する前に花屋に勤めていたのは覚えてるわよね?」
「あぁ。勿論。明子と初めて出会った場所だから」
明子は呆れた表情をすると、鼻から勢いよく息を吐いた。
「お幸せな記憶ね? 私は、結婚して仕事を辞めても、ずっと花に携わった事をしたくて、家事の時間の合間を見ては、ボランティアでお年寄りの施設でフラワーアレンジメントを教えたり、ハンドメイドのサイトにブーケを出したりしてたわ」
「そうだったのか」
「あたなには、悟られないように。けど、なんとなく気づいてたのでしょうと、思ったわ。お仕事柄、観察力や洞察力は優れてるでしょうから」
牧は、気づかないふりをしていたが、明子は見抜いていた事に肯定も否定もする事無く、ただ黙って聞いていた。
「そういう活動をしていて、出会った人たちの笑顔や、感謝の気持ちを言葉でもらっていく中で、私は自分の存在がそうやって証明されているんだって実感したの。家に籠って家事を淡々として、子供を産んで育てることもできない私には、自分がしてきた好きなことを、もう一度生かした事をしたくなった。………お花の活動をしている時は、昔の自分に戻ろうと思って、旧姓で活動していたの」
」
「………………」
牧は、口を挟むことなくただ明子の話に耳を傾けていた。
「そんな時………」
明子は、視線を上げると牧が手にしていた明子の荷物のダンボールを見つめた。
「私の作品をインターネットで見た人が、お人形の服をお花で作りたいって話が舞い込んできたの。プリザードフラワーに携わる知人に相談して、それが完成したら、その服を着たお人形の写真がメールで来たの。愛らしいけれど人の顔に近いリアルなお人形に、私が作ったお花の服がとても映えてたわ。依頼してくれた人も、とても喜んでくれた………そこで、私は決心がついたの。自分のやりたい事を、自立してもう一度したいって。あたなとの生活は、不自由なく生活させていただけて感謝はしているわ。でも、子供を諦めた時から、私の中であなたを愛する気持ちがスーッと消えてしまったの………そうしたら、どんどん気持ちが苦しくなってきて、自分の冷めた気持ちを偽りながらあなたと夫婦として生きてく事が、とても辛くなったの………」
明子は、悲しげだが疲れた表情を見せ目を伏せた。牧は、明子の言葉の一つ一つを自分の胸の中に、ゴリゴリとした違和感のある異物が入り込むような感覚で受け止めていた。すぐにそれは消化することができず、明子が話せば話すほど、どんどん胸の中に溜まり息苦しさで窒息してしまいそうな程だった。息をする事に意識を傾け、牧は身体の中に空気を送り込み、口を開くと同時にゴリゴリした異物を反芻するように吐き出した。
「………やりたい事は、自由にやればいい。何も、離婚することはないだろう。家事ならできる範囲は協力する。毎日夕飯作ることもない。外で適当に済ませることだってできる」
「もう、一緒に居られないの! こんな気持ちであなたと毎日向き合って生きていくのが、私には苦痛で仕方ないの!」
明子の情緒が乱れ、声が大きくなっていた。キッと睨んで明子は牧を見つめた。牧は、ただ重苦しい気持ちを抱えたまま、悲しげな表情で溜息を吐きながら、明子の言葉を反芻するのに精一杯だった。
「………どうしようもないのか? 少し別居して気持ちを落ち着かせるとかできないのか?」
声を振り絞り、悲しみや怒りや虚無感や複雑な感情が絡み合いながら、牧は弱弱しく明子に言った。
「もう………無理なの………」
明子は、小さく横に首を振りそうしてうなだれた。
牧には明子の思いを、納得する事がなかなかできずに抵抗するばかりだった。少しでも、復縁の余地があるのではないかと、言葉を投げかけるが、それは尽く跳ね返されてしまう。
『俺が身を引くしかないのか………。それが、明子の為なのか………』
頑なな態度の明子との、重苦しい時間がしばらく経過した。そうして、牧は、そう自分の中で問いかけた。
明子の色白い手に視線が止まり、明子が既に結婚指輪をしていない事に気が付くと、牧はうつむき、息を吐いて一つ返事をした。
「分かった………」
自分のこの一言が、すべての終わりなのだろうと予測すればするほど、この一言が牧にとって、奥歯を噛みしめる悔しさに近い気持ちで身震いしていた。
「ありがとう」
「もう一つ、教えて欲しい」
一瞬安堵の笑みを見せた明子に、牧が言葉を付け加えると、ストンと明子の笑みが露骨に抜け落ちた。
「何?」
「この荷物の送り主を教えて欲しい」
「どうして、そこまで干渉しないで欲しいわ。あなたには関係ない」
「関係あるかもしれないんだ! これは、俺の重要な事件の手掛かりかもしれないんだ」
牧は、取り返しのつかない奥歯の悔しさの矛先を変えるように、強い口調で感情をあらわにした。すると、明子の身が一瞬ビクンと反応した。今度は、牧が優位な状況に切り替わるように、反発する隙も無いほど気迫のある雰囲気で明子を見つめていた。
明子は、渋々スマートフォンを鞄から取り出すと、画面をタップしたりスクロールして何かを探していた。
「………この人よ」
明子は、スマートフォンを牧に差し出し牧は凝視してそれを受け取り画面を見た。
ブライスドール作家・シニアホーム木の葉の里施設長 阿久津 かほ 住所:山梨県………。明子が見せた連絡先として控えたメモをの阿久津 かほの名前を見た瞬間、牧の体中がざわざわと震えた。
牧と明子の終止符の光景。重苦しいお話になりました。
別れ話は、受け止める方は抵抗感一杯。別れる方は、潔く去りたい。
そして、浮上した かほの存在。(作者作品 カラーリバーサルを参照ください)
再び、牧はかほを追うことができるのか。今回は話題なかったですが、詐欺集団失踪事件も次回再び。
ここまで読んでくださいまして、ありがとうございました。
まだまだお話は続きます。
よろしくお願いいたします。