油蝉 〜 蛻の殻〜
作者作品 『カラーリバーサル』の事件後の話です。
張込みが長引き署内で仮眠を取った後、牧 修一 (まき しゅういち )は自宅のあるマンションへ帰宅した。
夏休みのせいか、マンション前の公園では子供たちが声をあげてはしゃぎ回っていた。日差しが強く、アスファルトから照り返す湿度のある熱気が身体にまとわり付き、牧の体内からは絶え間なく汗が吹き出て流れ落ちていた。
エレベーターのない4階建てのマンションの4階まで階段を上ると、所々にひっくり返り息絶えたカナブンや羽虫などの死骸が目に付いた。
自宅前のドアポストを見て、回覧板や宅配物であろう不在票が挟んである事に、牧は異変を感じていた。
ズボンのポケットから鍵を出し、ゆっくりとそれを回してドアを開けた。締め切った部屋の温度と、排水溝だろうか不快な臭いが篭りそれが牧の鼻についた。
リビングにたどり着くと、締め切ったカーテンの隙間から差し込んだ光が、テーブルの上の白い紙を細く照らしていた。
牧はその紙切れを手に取ると、書かれていた文字を見て放心した。
『出て行きます 明子』
5分くらい経った頃、牧は、ゆっくりと頭の中を起動させ、一体何がどうしたのかと考え始めた。
昨日の出勤まではいつもと変わりなく、朝食を用意しテレビで見かけたニュースの話や、今日も暑くなるだのと他愛ない日常会話を交わしていた。これまで、不平不満を言うことは無く、休みの日は一緒に外出したり食事をしたりしていた。お互い同い年である牧の間には、子供がなかなかできず、不妊治療をしてきたが40歳になった時、明子がもう子供は諦めようと口にした事をきっかけに、それ以来は性交渉をすることすらなくなった。お互い、別々の部屋で寝るようにはなったが、喧嘩することなど一度もなく、それなりに円満な夫婦関係だと牧は思っていた。
明子は、結婚前花屋に勤めていた。牧が聞き込み中に急に土砂降りに遭い雨宿りしていたのが、明子が勤めていた花屋だった。
「しばらく止まなさそうです。もし、よろしければこちらお使い下さい」
ビニール傘を差し出し、小さく笑みを見せて言葉をかけてくれたのが、明子との出会いだった。
物静かで内向的な明子が、牧は心地よい存在ではあった。30歳で出会いその2年後に結婚をした時には、署内の同僚たちが目を丸くして息を飲んで驚いた。その場に居た全員が全く同じ顔をした事に、牧は不意に可笑しくなり薄く笑ってしまった。
「いや、牧は仕事命かと思ってたからなぁ」
「女に興味があるとは思えなかった。人間味あるんだな?」
口々に牧の人間性を語り出しつつも、結婚を祝福してくれた同僚達に牧は、上手く感情を表せずに不気味な笑みを見せていた。
ぽた…っと、一雫の汗が明子の書い置いた紙切れの上に流れ落ちた。そうして、牧は我に返り、熱気と部屋の様々な臭いが篭った部屋の中にたった一人居ること、明子がいない事を再認識した。
直ぐさまズボンのポケットからからスマートフォンを取り出し、明子に電話をかけたが、電話は拒否され繋がることが出来なかった。
小さくそれでいて深い溜息を吐いた牧は、ゆっくりとイスに腰をかけてまたしばらくの間、呆然としていた。
明子の部屋のドアを開けたのは、それから1時間程経過した頃だった。必要最低限の衣服や、化粧品、旅行用のキャリーバック、貯金通帳や印鑑、ジュエリーなども持ち出していた。紙切れは間違いなく明子の文字だった。部屋の中が荒らされた傾向もないため、自ら出て行った可能性は高いが、牧は事件性を半信半疑で考えていた。
しかし、事件性であっても、本気で何かしら明子が自分の意志で出て行ったとしても、どちらにしても受け止め難い事だと牧は思っていた。
夕食も摂らず、呆然と明子のベッドに腰掛けながらただただ時間だけが過ぎていった。
すると、牧のスマートフォンがバイブし着信を知らせていた。
明子だろうかと、動揺し慌てて画面を見るとそこには明子ではなく“明子 姉”と表示されていた。一瞬怯んだ牧は、明子の姉である涼子からの電話を深呼吸した後で出た。
「もしもし…しゅうい」
名乗る間も無く、間髪入れずにスマートフォンのスピーカーから、涼子の高く早口な声が大きく響いた。
「修一さん! 明子はもうそちらには戻りませんから! 明子だって自分の人生があるんです。残りの荷物はそのうち引き取りに伺いますから」
「あの…お義姉さん…明子はそちらに居るのですか?」
気持ちを落ち着かせ、牧は静かに涼子に尋ねた。
「えぇ、そうよ」
「あの…明子と少しでも話したいのですが…」
短い沈黙の間、その向こうで涼子が明子に確認を取っている様子が牧には思い浮かばれた。少しでも話を聞きたいと言う、牧の願いは虚しく次の瞬間に聞こえた声は、涼子だった。
「悪けれど、それは嫌がっているから。けど、明子から伝言」
牧は、ゴクリと唾を飲み込み藁にもすがる思いで耳を澄ましていた。
「離婚届、送るからサインして届け出してちょうだい。それじゃ」
「離婚って、どういう事ですか!? もしもし!」
涼子は言葉を言い切って直ぐに電話を切ってしまい、牧の言葉は涼子には届かなかった。
「一体、どうしてなんだ…何があったって言うんだ…」
牧は、混乱する頭を両手で抱え悶々とする思いと、どうする事もできないもどかしさで何もする事が出来ずにいた。
その夜は一睡もする事が出来ず、考えてもキリがなく、ただただ頭の中が活発にあれこれ思い浮かんでは消え、時には怒りや喪失感の波にのまれ、精神を掻き乱されていた。
翌朝、牧の職場である東大和田署に出勤すると、同僚から一つの事件の話を知らされた。
「行方不明者?」
書類に目を通し、牧は同僚の横山に尋ねた。
「あぁ。しかも、そいつらが全員詐欺者だ。俺達が調べているオレオレ詐欺の」
横山はノートパソコンの画面に出ている彼らの顔を指差して言った。いつも、糊のきいた襟のシャツを着ている横山は、画面を見ながら話を続けた。
「平戸 隆 21歳。都内在住 フリーター。かれこれ1ヶ月前から所在が分からず家族から連絡が入った。鈴木 和也 37歳 平塚市在住 土木会社勤務。半年前から自宅に戻らず両親から捜索願いを依頼。松嶋 旬 29歳。川崎市在住 飲食店勤務。借りているアパートの管理人から家族を通して連絡があり、1年前から消息不明だ。こいつらは、詐欺集団で活動しているメンバーの部下で、電話役と金を受け取る役周りをしている。防犯カメラにコイツラの顔が割れている」
「金に目がくらんで高飛びしているか…と考えるところだろうが、さらにコイツらの監視役が直ぐ近くで詐欺の現場を見ているはずだ」
「あぁ。そうなんだ。けれど、3人の共通点が詐欺集団である事くらいで、他には今の所、ない。だから、こうして更に力を入れてこの詐欺集団を調査しているところだ…なぁ、牧、お前、寝不足か?」
「あ、あぁ。暑くて寝苦しくてな」
目の下に出来た“くま”や、疲労感ある顔の表情から横山は牧を心配した。
「そうか。確かに毎日熱帯夜だなぁ。そうだ、これ、飲めよ」
トンと、小さく音を立てて横山はデスクに栄養ドリンクを置いた。
「悪いな」
「いいって。俺も、ここんところ張込みで夏バテ気味なんだ」
そう言って、お互い栄養ドリンクの蓋を捻り開け、強烈な味覚のする液体を身体に流し込んだ。
連載をスタートしました。
これまで、温めていた作品なのです。
個人的には、ワクワクしながら書き下ろしました。
過去の作品の中では、印象薄い登場人物でしたが今回は主人公にしてみました。
今回は、長編になります。
気長かにどうぞお付き合い下さいましたら嬉しいです。よろしくお願いします。
第1話ご覧下さいましてありがとうございました!