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「なんだか最近、明るくなったな」

 そう言ったのは、中学時代からの友人である真鍋だった。


「──いや、おまえはもともと明るいけどさ」

 彼の言わんとすることがなんとなく分かるような気がした。自分でも、胸が躍るように毎日気持ちが高ぶっているのが感じられる。自然に笑顔でいられるようにもなってきた。

 これまでは自分の存在について延々と問答を繰り返してきた。答えに行き着くこともなく──。学校では、おどけて笑いを取るピエロのような役割を演じてきた。どこでも本当の自分を出すことが出来ない、そんな気がしていた。

 しかし、ここ最近、少しずつ結び目がほどけてゆくように、頬がふわりと緩むのだ。窓の向こうで揺れる木々の枝、足元で懸命に生きる草花、怒ったり泣いたり、笑ったり──クラスメイトの様々な表情にまで、『よろこび』を感じるようになった。見えるものすべてが面白い。

 きっと真鍋もそれを感じ取ったのだろう。おそらく、真鍋だけではないかもしれない。自分はそれだけ、周りを見ることをしていなかったのだ。

「今日は部活が休みでさ。どっか行かないか」

 真鍋は携帯電話をポケットにしまいながら尋ねた。


「どうせ暇だろう」翔太はうなずく。

「よし、決まり」

 雑誌に載っていた古着屋に行きたいから付き合え、という真鍋の言葉を聞いているうちに、ふと思い当たる。

 ──奈津子さん、また来るかな。

 

 話は、彼女との再会の日までさかのぼる。


 


       ***




 ミルクティーを飲み終わり、翔太が一息ついていると、相手が口を開いた。

「君はいくつ?」

 年上の女性が放つコロンの香りに戸惑いつつ、答える。

「今年、十七です。高校二年」

「じゃあ、今は十六歳なの」

「ええ、まあ」

 若いねえ、と呟く彼女に、「あなただってまだまだ若いのに」──そんな気の利いた台詞のひとつも口に出来ぬ自分が情けない。そんな思いをごまかすように、今度は翔太が年齢を聞いてみた。

「女性に年齢を聞くのは失礼だ、って学校で習わなかった?」

 少し目の色が変わったので、慌てて頭を下げると、「冗談だよ」と笑われた。笑うと目元が細くなり、雰囲気がさらに柔らかくなる。瞳に吸い込まれそうになるのをこらえた。

「──二十三歳」彼女が小さく漏らす。今年で二十四歳だけど、と付け加えた。

 ──七つも年上なのか。

 淡い気持ちが崩れていくような思いがした。相手はとっくに社会に出ていて、自分はまだまだ親の力で学校に通う身だ。その差はひどく大きい。

 ふと思う。自分は何を期待していたのだろう。

 そして考える。なぜ、七歳も歳の差があることに落ち込んでいるのだろう。

 答えに行き着くまでに、もう少し時間がかかりそうだった。


「ところで、名前は?」

 名前よりも先に年齢を聞いてしまったのが何だかおかしくて、笑みをこぼす。そういえば、まだお互い名乗っていなかったことを思い出した。

「翔太──川崎、翔太」

「へえ、翔太くん」

 瞬間、毛穴から湯気が噴き出るかと思った。今まで、女性に名前を呼ばれたことはあったというのに、心臓がここまで飛び跳ねた経験はなかった。手のひらに汗をかいている。ぬるぬるとして気持ち悪い。

「──あなたは?」

「何か書くもの持ってるかな」

 下校途中だったので、鞄があることにほっとする。教科書はすべて学校に置いてあるが、何かノートの切れ端くらいはあるはずだ。慌てながら中を探る。

「教科書、学校の机の中に全部置きっぱなしなんでしょう」

 見透かしたように彼女に言われ、曖昧に笑ってみせた。数学のノートを見つけ、白紙のページを切り取る。ボールペンの芯を出して彼女に渡した。

「ありがとう」

 さらさらと何かを書き進めてゆく。やがて顔をあげ、翔太に向かって切り取られた紙片を差し出した。

「それが私の名前」

 そう微笑まれ、手渡された紙に目をやると、『小野田奈津子』の六文字が並んでいた。少し右上がりな字体だった。

「おのだ、なつこ……」

「そう、小野田奈津子。漢字六文字なんて、面倒くさいのよね」

 投げやりに空を仰ぐ。「でも気に入ってるのよ、この名前」

「──いい名前、ですね」

 緊張のためか、せっかくの台詞も上手く声にならない。「ありがとう」と奈津子が微笑んでくれた瞬間、また血液が沸騰するかと思った。

 夕方の少し冷えた風がふたりの頬を撫でる。奈津子の髪の毛が揺れて、その細さに目を奪われた。

 と、同時に、わずかな疑問が頭をよぎる。

「あの、もうお礼はしてもらったし──」

 そうなのだ。ミルクティーを購入してもらった時点で、彼女はもう帰宅するなり、出かけるなり、何にせよ、この場所から去っていてもいいのだ。自分とこうして、世間話をする必要などないのだから。それなのに、風が冷たくなるような時間まで、なぜ──。

「ああ、気にしないで」

 翔太の考えていることを察したのか、奈津子は首を振る。

「この時間、いつもこの公園に散歩にくるから」

 自宅から十分程度のんびりと歩き、夕暮れの温かい雰囲気の中、この公園でしばし時間を潰すのが趣味なのだという。初めて会ったときに膝の上で寝ていた猫は、お互い顔見知りの常連だそうだ。特にペットということではないらしい。

「だから、いつもケイ──あの猫とふたりだったから、今日は新鮮で楽しいんだ。この時間帯だとね、子供もお年寄りも、みんな家へ帰るから」

 そういうものなのだろうか。

「ところで、君はよくここに来るの? 今まで見かけたことないよね」

 あなたに会えるかもしれないと思ったから──なんて、口が裂けても言えない。翔太はまごつきながら、口を開いた。

「この公園に来ると──」

 徐々に夕陽が沈んでゆく。オレンジは薄紫を含んで夜を迎えようとしている。

「なんだか、不思議な気持ちになるから──」

 それは本心だった。確かに、奈津子の姿を探して公園に通っていた。しかし、ここに足を踏み入れると、自分の殻が少しずつひび割れていくのを感じるのだ。温かい黄昏時の空気が、柔らかく包んでくれる。そして、内側の自分を徐々に解き放ってくれるような──。

「……分かるなあ。うん、とてもよく分かる」

 意味不明な発言で、相手に理解してもらえるか不安だったが、奈津子のその一言でほっとした。流されるままの言葉ではなく、本当にそう思ってくれている──奈津子はそんなふうに頷いていた。

「──ねえ。今日はもう遅いから、またここでお話できないかな」

 ベンチから、すっと立ち上がったかと思うと、奈津子はそんなことを言った。「私、一週間に三日はここでぼんやりしているから」

「──曜日とかは……」

「未定なの。いつも気まぐれに、思い立ったときに来るんだ。だから、君と波長が合えば、また会えると思う」

 手のひらはびっしょりと濡れていた。極度の緊張で、がくがくと頷くことしか出来ない。喉がからからに渇いていて、言葉が搾り出せないのだ。

「──良かった、じゃあ、また」

 白くて小さな手のひらを振りながら、目元をすっと細め微笑む。その笑顔は、夕陽の鋭い光に紛れて残念ながらよく見えなかった。

 手をかざして光を遮り奈津子のいた方向に目をやると、そこには、もう誰の姿も見えなかった。小さな公園の中には、呆然と立ち尽くす自分だけ──。はじめから何も存在しなかったかのように。

 ──夢だったのだろうか。ついさっきまで隣り合って言葉を交わしていた女性は──奈津子は、自分が作り出した幻想だったのだろうか。

 ふと気付く。

 左手には、ノートの切れ端が握られていた。

 そこには、右上がりな字体で『小野田奈津子』と書かれていた。




      ***




「悪い、おれ、用事がある」

 真鍋は「暇なんじゃなかったのか」と不満そうな顔をした。翔太はお守り代わりにポケットに入っているノートの切れ端にそっと触れて呟く。

「──待っていなくちゃ、いけないんだ」

 今日は来るかもしれない──毎日、そう考えて過ごしている。

 夕暮れ時の公園は、草花が光を反射してきらきら輝くのだ。その中を、奈津子がやってくる。

 その輝きは、どんな宝石にだって打ち勝ってしまう。


 胸に芽生えた想いの存在に、翔太はようやく気付きつつあった。





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