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あれから何かが変化しそうな気配もなく、翔太は『相変わらず』な日々を過ごしていた。同じ時間に起床し、玄関を出て、変わらぬ通学路を自転車で駆け抜け、学校に着くと特に愛着もない校舎を見上げ、一日の始まりを憂える。
ただ、心情の変化、というものを感じていた。
明らかに、翔太の心持ちというものが前向きになったのだ。霞がかっていた視界が徐々に澄んでいくのを日に日に感じる。冬場に曇った窓ガラスに指で触れると、向こうの景色がクリアに見えるようになる。何だかよく分からないがそんな感じなのだ。
それは、帰宅時間が毎日三分ほど遅れるようになったことからも自覚していた。これまで翔太は特に寄り道もせず、ロボットのようにほぼ正確に帰宅していた。ワイドショーを見ながら寝転ぶ母親の姿にため息をつき、ブラウン管の画面に映る時刻を確認していたのだから。
しかし、あの日から、何故か心の奥がざわついて仕方ないのだ。遠足の前夜、入試の当日、ドキドキともワクワクともハラハラとも言えないあの不安と期待の入り混じった感情。波立つ気持ちに理由が見付からないのに、自転車は勝手に翔太を未知の世界へ連れ出して行く。
公園に道草をするのが日課になっていた。常連である子供たちの顔を覚えるまでになった。五月も半ばになり、色づく緑が少年少女の笑顔に映えて鮮やかだ。自分も昔はああやって膝や袖を泥だらけにして走り回っていたのだと思うと、ふいに虚しくなる。いつから、指先さえもがわずかな土に汚れるのを嫌悪するようになったのだろう。はしゃぎ回って陽が暮れる、純粋無垢な時間の潰し方を馬鹿馬鹿しく思うようになってしまったのだろう。
学校の校舎なんかよりも親しみを感じてしまうベンチに腰掛ける。喉を潤したいが、自販機の飲み物の味は全て舌に味わわせてしまった。毎日毎日、百円弱の出費は痛いが、部屋にこもり切りで陰鬱な時を過ごす方が、よっぽど精神的に苦痛なことに気が付いたのだ。
気づけば、人差し指はホットミルクティーのボタンを押していた。
この季節にまだホットがあるのは珍しい気もしたが、あの身体を癒すような温かみと甘さが翔太を惹きつけた。
──飲み終わったら、帰ろう。
いつもそう決めて三分だけ、その場所から動かないことにしている。本当は気付いていたのかもしれない。あの日から、自分の頭が妙に晴れやかな理由だけではない。こうして自分の生き方を見つめ直す場所が、公園である理由だ。緑に包まれて開放感があるせいだろうか。本当に? 情けないことに、自分で答えを出すことが出来ない。逃げてばかりだ。
──ふと気配を感じて、顔を上げる。
あの女性だった。
思わず目を見張る。心の準備も何もなく、ぼけっと缶に口をつけている所へ、まさか予想だにしないゲストが現れるとは。染色しているにも関わらず傷みを感じさせないつややかな髪の毛、かき上げながら彼女は微笑んだ。
「こんにちは」
特に特徴があるわけではない声質なのに、不思議とイメージ通りなのを感じた。慌ててミルクティーの缶から手を離し、自分も立ち上がる。女性にしては高めな身長で、それほど翔太とは目線が変わらない。
こんにちは、と蚊の鳴くような声で翔太が応えると、女性はまず頭を下げた。何故、頭を下げられなければならないのかと困惑するものの、言葉が出ない。極度の緊張が、翔太の全身を支配していた。
「この前、ありがとう」
当たり前のようにそう告げる彼女に、ますます戸惑う。人違いではないのか、お礼を言われるような行為をしただろうか。しかし、心の底では何故だか飛び上がるほど嬉しさを噛み締めている自分がいる。──会えた。また、偶然とは言え顔を見ることが出来た。
彼女は続ける。
「ミルクティー、美味しかった」
その一言で、何かがずんと胸にのしかかる思いがした。覚えていてくれた。自分が突発的に行った、迷惑とも言える行動に丁寧すぎる礼をしてくれた。どうやら、人違いでもなさそうだ。
「あれから、よくここに来ていますよね」
どう見ても年上の相手に敬語を使われるのは、どこかくすぐったかった。
「──はい、まあ……」
うろたえないように精一杯落ち着いて口にした言葉は、情けないほど震えていて、緊張が丸分かりだった。
「機会を見て、もっと早くお礼、言おうと思ったんだけど……遅くなってごめんな
さい」
そう言って苦そうな表情で、また深々と頭を下げる。
「──今日、会えて良かった」
本当にありがとう、と言って最後に彼女は微笑んだ。
その瞬間、不思議な思いに駆られる。全ての景色が、この女性を引き立てる道具にしか見えなくなったのだ。夕陽に支配されてゆく空の色、家路に着く親子の姿、露をはらんだ草花に、家族団らんを楽しげに過ごす住宅の灯りも、そのことごとくが彼女の前には霞んで見えた。
「何か、お礼させてもらえない?」
「……いや、こっちが勝手にしたことっすから」それは本心だった。
自分勝手に缶を押し付けて、自分勝手に逃げ出しただけで、そこにお礼を言われる筋合いなど無いのだ。ましてや、お返しをしてもらうほど、図々しい人間
でも無ければ、またそこに筋合いなど無い。
「──お願いします。あの時、あのミルクティーでずいぶん救われたから、
お願い」
両手を合わせて力強く言い放つ。その瞳には断ることなど許さないという意思が見えた。だからといって、あの一缶で彼女の何を救えたのだろう。確かに泣いてはいたが、あんな飲み物ひとつでこのひとの苦しみを取り除けたとは思えない。
しかし、ここで断ってそのまま帰宅すれば、それで終わってしまうような気がしたのだ。変わらぬ日常に戻って、ひとの頼みすら無視した自分に、さらに嫌気が差してしまうに違いない。
だから、翔太はうなずいた。
「……じゃあ、遠慮なく」
すると彼女はほっとしたように、「良かった」と安堵した表情を見せた。やはり笑顔の方が似合う──出逢ったばかりの人間に対して、自分は何を考えているのだろうと、やましい心を振り払うかのように、彼女の話に耳を傾ける。
「何がいいかな? ──って言っても、大したお礼出来ないけど、ね」
見た感じでは大学生あたりだろう。懐が寂しいのはお互い同じなのだ、それにもとより高額な品物を要求する気はなかった。しかし、初対面とも言える相手に品物でなく【行為】を求めるのは気が引ける。肩をもめ、とかそんなこと言えるわけがない。
「……じゃあ、あそこの自販機でおごってもらえれば、それで」
翔太の指差す先を見やり、そんなもので大丈夫なのかと心配そうな顔をする。思わず笑ってしまう。自分と違い、感情に素直で、表情がころころ変わるのだ。
「そんなに遠慮する必要、無いんだけど?」
「…ミルクティーひとつに、それ以上のものを求めるのはおかしいと思うけど」
まだ納得の行かない彼女に、「充分っすから」と答える。最後に、本当にそれでいいのかと目で訴えかける彼女に、翔太はしっかりとうなずく。
「──そう、分かった。じゃあ、何が良い? 一本と言わず、何本でも良いよ」
とことん義理堅い人間なのだと思う。見知らぬ学生に、お礼だからとそこまで太っ腹になれる彼女の人柄が、じんわりと心を暖める。
「ミルクティーを、ひとつ」
──自然に、その言葉が出ていた。
それまで口にしていた缶のラベルを覗き込まれ、「甘党なのね」と不思議な顔をされる。
「そんなにミルクティー、好きなの?」
連れ立って公園脇の自動販売機に向かう。呆れているのか喜んでいるのか分からない表情に鼓動が高鳴りながら、「まあ……」と曖昧に答えた。
軽く流されるかと思っていると、予想もしていなかったほどの笑顔で、女性は口にする。
「気が合うね」
これからの人生、ミルクティーだけで過ごしても構わない──翔太はこの時、本気でそう思った。
熱すぎるミルクティーの缶。
いつもよりさらに温度が高く感じられたのは、隣で微笑む出逢ったばかりのひと──彼女のせいなのだろうか。
胸にぽつりと浮かんだ想いに名前が付けられないまま──翔太にとっての真実は、火傷をした唇の痛みだけだった。