<1>
お幸せに、とはどうしても口に出すことが出来なかった。
そうしてしまえば、わずかな後悔とともに、幾らかの満足と充実が得られることは分かっている。
しかし、どうしてもそれだけは言えなかった。今日の今日まで、奈津子に逢ってしまえば、自分がどれほどに未だ未練を抱いているのか──その醜さを突きつけられてしまう気がして──どんなに金を積まれようとも、祝福の言葉だけは翔太の口を突いて出ることはなかった。
──ほうら、見てごらん。
誰かにそう誘われたように、多くの笑顔に囲まれた男女を見やる。なんと「幸せ」そうなことか。自分と一緒では得られなかったものを──今、大勢の人間に未来を祝福され、笑って受け止めている。奈津子。
翔太にとって、今でも愛しい、ただひとりのひと。
*
初めて出逢った、あの日。
まだ桜が散り始めてすぐ──翔太が進級して一ヶ月ほど経過した頃である。その日は火曜日で、掃除当番だった。クラブに所属していない彼の帰宅時間がわずかに遅れたのは、その理由からである。
押し付けられたモップを払うことは出来なかった。それを手で押しやることは、何だかとてつもない「悪」のようで、特に悪ぶってもいない、ごく普通の男子生徒である彼は、ていよくかわす術を持たなかった。
大体、ふと思うことがある。
自分の存在意義とは何か、と。そう考える時点ですでに理由などないのだが、改めて頭をひねってみても、ちっとも浮かんでこない。それが不安だった。
掃除をしようにも、班員が集まらず、結局、隣の席の読書好きな女子生徒のたったそれだけで、教室を掃除した。お互い沈黙を守ったまま、黙々と机を移動させ、さすがに面倒くさいのでモップで適当に走り回り、ごみも貯まってはいたがやはり面倒くさいので、そのままにしておいた。
ちりとりでごみを集めている数十秒間、『何をやっているんだ』と自分を責めることを忘れなかった。いや、責めるというよりかは──失望にも近い、呆れるにも近い、そう、ただ──自嘲するしかなかった。
春が終わる。
翔太の学校は田んぼに囲まれており、その間を農道が自由に伸びている。土地が狭いため二階建て住居が多数見られ、通学路なのか小学生が至る所でランドセルを揺らしている。その赤とか黒とかピンクとかを窓から眺めていると、いつのまにか一日が終わっている。見つめていたはずのランドセルは、いつの間にやら消えていた。道を行くは自転車を引く老人ばかりである。
──そんな毎日が続く。すでに入学して一年が経過していた。
比較的性格は明るい方ではあると思っている。あえてそう言うのは、ただ「思っている」だけであるからに他ならない。他人からはどう見えているのか──それが分からないので「明るい方である」と自信なさげに肯定するしかないのである。
友達もいる。教師からの評判もさほど悪くはないはずだ。
──が、そんな自分が日々、何を残しているかと考えると、結局は『存在意義』について自問自答、その繰り返しになってしまう。それもまた無駄な時間となるのだ。
何のために季節は過ぎてゆくのだろう。こうして散ってどこかに消えてゆく花弁も、春を思わせるだけで結局、翔太に何かを残すことはしなかった。
何のために、誰のために──成績も平凡、クラブは無所属、スポーツも人並、そんな自分が何をやりたくて、こうしてまた春を終えるのか。それが分からない。答えが出ないのである。誰に聞こうとも、鼻であしらわれて終わるに違いない。
そうやって、掃除を終えた瞬間、どっと溜め息が喉からついて出たのは言うまでもない。女子生徒はとっくに図書室に向かっていった。
机を整え、自分の席に座る。帰らなくてはならない。特に何をしようというわけではない。ただ、街をひとりふらつく度胸がないだけだ。仕方なく、学校を終えると真っ先に帰宅して夕飯を口にする。この十六年間、ずっとそうだった。
頬杖をついて窓ごしに夕焼けと睨みあう。夕陽は逃げない。わずかに沈みながらも、翔太が勝負を投げ出すまでは、ずうっとそこにいて、街に滲んでいく。
こうしているのが好きだった。
──孤独を余計に味わうだけだったけれども。
*
教室に誰も居なくなったのを見計らい、足早に学校を出た。
いつもは一刻も早く自室のベッドに身を投げたいものだが、なぜかこの日だけは違った。おそらく、知っているからだろう。自室にこもって思案にふけっていても、結局現実から逃れることが出来るのは、儚い夢の中だけだということを。
だからなのか、少しだけ遠回りをしてみたくなった。
学校を囲む農道を抜け、住宅街に出る。広い道路が一本だけ見える。その脇には小学校が構えているが、翔太が通学路に利用しているのは、その一本道。突っ切れば十分ほどであっという間に自宅が見えてくる。それもまた単調な帰り道であった。
──が、その十分たらずの時間がひどく勿体無く思えた。
その十分間を、自分はどうやって無駄にしてきたのだろうか。それすら覚えてはいない。とっくに並木道の桜も散ってしまっていた。
──確か、公園があったはず。
小学校脇の一本道を避け、あえて小道に出た。小道とも言えないだろう。舗装もされておらず、そこはただの砂利道だった。大小さまざまな顔をした石ころが、自転車の邪魔をする。しかし、何故かタイヤを通して感じる、そのでこぼことした感触──それは翔太にとってとてつもない衝撃にすら思えた。
自分がどれだけ、万物と接していないのかを、改めて思い知る。砂利道を通ることすら面倒だと思うようになり、転んだら危ないという警戒心のみで一本道を突き進んできた昨日までの自分は、なんと間抜けなことだろう。タイヤを滑らせて転倒する失態よりも、ずっと情けない。
砂利道と悪戦苦闘しながらも別れを告げ、小学校が後方へと徐々に離れて行く。そうして数十メートル足の回転を速めると、住宅の生垣で死角になっていた場所に存在するものが見えてくる。
──小さな、児童公園。
何てことのない、ただの公園。とは言っても、ただの広場というべきか。存在する遊具はブランコに、劣化したすべり台。それに木造ベンチが二つ並んでいる(遊具とは呼べないが)。そして、芝生がその面積の大半を占めていた。
どうしてこんな寂しい空間に足を運ぼうなどと考えたのだろうか。考えれば考えるほど、余計に分からなくなる。きっと理由などないのかもしれない。ただ、気の向くまま、風の吹くまま、雲の流れるまま。自転車をこぐ脚も、止まることを知らなかった。──そう、直感としか言いようがないのである。
時間も五時を回っているからなのか、子供の姿があまり見られない。キャッチボールをする小学生、母親とベンチに腰掛けぼんやり春の空気を満喫している女の子。そのくらいなものだ。ゆったりと平穏な時間が、そこに流れている。まるで切り取られたように、そこだけ自由気ままに、時間の制約など受けていないようである。
──せっかくだ、少し休んでいこう。
道路脇の自販機でミルクティーを買う。春とはいえ、夕方は肌寒い。温かいその缶を手のひらで包み込み、身を縮ませる。そのまま、そそくさとベンチに走る。おそらく手作りなのだろう、不細工に切断されただけの木材を、釘で打ちつけ、脚を付けただけ──いかにも、そんな感じだった。
ふと足を止める。
先約がいた。先ほど、入り口から見かけた時はそこに存在していなかったはずの女性。猫も一緒だ。その猫は全身真っ黒で、眼は夕陽を反射してそこだけ輝いている。黒い塊を膝に抱き、その背を静かに撫でているひと。若い。まだ二十代だろう。
肩までの茶色がかった髪の毛が、春風に揺れている。それもまた夕陽に煌いて、翔太は眼を細める。穏やかに、夕焼けに滲むようなその姿は、壊れてしまいそうなほど、儚い。時間を緩やかに感じさせていたはずの子供たちの喧騒も、いつの間にやら静まっている。公園には翔太と女性、それに一匹だけとなった。
──泣いている。
近づかなくとも分かった。うとうとと瞳を閉じた猫の額に、ぽつりと光るものが見えたのだ。涙だ。勿論猫のではない。──その女性のものだろう。
この瞬間、確かに感じた。今度は、自分たちが切り取られた写真のように、時間が過ぎることのない空間に存在してしまった──そんな風に。
時が止まった。そう思った。
声をかけることなど出来るはずもない。他人だからとか、泣き顔など他人に見られたくないだろうから──などの、デリカシーからでもない。ただ、触れては壊れてしまうから──泡のように、ちっぽけに消えてしまいそうだから。その堪えるように瞳を伏せている彼女の、その肩に──手を置くことなど出来なかった。
だから──翔太は一歩を踏み出して、手のひらで熱を発している缶を差し出した。彼女が顔を上げてもいないのに──こちらの存在に気づいてもいないのに、押し付けるようにミルクティーを眼前に突きつけた。
地面を踏みしめる音に気づいたのだろう、ふと彼女が顔を上向ける。その瞳の端には涙の筋が頬を伝っていた。長い睫毛が雫をはらんで震えている。瞬きするたびに、粒は猫の額に落ちてゆく。その光景はとても美しかった。
女性の腰の隣に缶を叩きつけるように置くと、一目散に走り出す。自転車に鍵をかけていなくて良かった。もたつくことなく、翔太の姿は住宅街へと消えてゆく。
それから彼女がミルクティーを手に取り頬を緩ませたことを、その時の翔太は知らない。
奈津子との出逢いは、そう、春には少し熱すぎたミルクティー。
火傷しそうなほど強い感銘を受けた、夕暮のベンチでのこと。