二人の記憶
木製の引き戸を引くと、ギィ、という鈍い音とともに扉が開いた。両壁に取り付けられた格子状の窓からわずかな光が入ってくるものの、十分な光量は無い。そのため、中の様子ははっきりと見えなかった。
「ここも、結構霊体エネルギーが濃いな」
亜留は入った瞬間、建物内部の涼しさと霊体エネルギーの感触の同時に襲われ、身震いをした。
「うわ、なんだこの黒いもやもや動くのは。外にもいたけど、これが霊体ってやつか?」
突然、明が大声で叫んだ。中にいる霊体に驚いたらしい。
「あ、そうか。明も霊体に憑依されたから、霊感が上がって霊体が見えるようになったのか。色が濃いやつは最近ので、白っぽいやつはもうすぐ消滅する奴だってさ」
「そうなのか……それにしても、これだけ数が多いと不気味だよな」
神社内部にも、黒い霊体が十数体うようよとしている。周りの壁を見ると、何枚かお札が貼られていた。どうやら悪霊を近づけないためのお札のようだが、効力が切れているためか、その役目を果たせていない。
神主が時々掃除をしていると言っていたが、中までは手が行き届いていないようだ。しかし、木造の壁や床はそれほど傷んではいない。
ゆっくりと奥へ進んでいくと、一歩歩くたびにぎぃ、と床がきしむ。明かりのない中、目を凝らして周りを見渡すが、霊体たちが邪魔で視界はあまりよくない。
「ねえ、あれ……」
重菜が奥を指さす。そこにはご神体があり、その前に、人型のものが横たわっているのが見える。
「もしかして……」
そう言うが早いか、亜留はその人影へ駆け寄った。
近づくにつれ、その正体がはっきりとしてくる。ショートヘアに、白いワンピース。見覚えのある顔は、間違いなく、探していた天川沙織だった。
「沙織、どうしたんだ、しっかりしろ!」
亜留は思わず沙織を抱きかかえようとしたが、当然のようにその腕は空振りに終わる。
「まさか本当に……」
「うそ、本当に沙織なの?」
明と重菜も、慌てて沙織の元に駆け寄る。そして、沙織本人であることを確認した。
見つけた沙織は、リラほどはっきりとした姿をしておらず、透明に近い状態になっていた。
「ふむ、どうやらこの娘、相当衰弱しておるようだ。多分、何度もここに来ている間に、周りの霊たちにエネルギーを奪われたようだ。かろうじて、全てのエネルギーを奪われる前に、このご神体の前にやってきた、といったところか。いくらお札が無意味といっても、ご神体には悪霊を遠ざける力があるからな」
「じゃあ、沙織は……」
「気を失っているだけだと思うぞ。ほれ、たしか霊力を回復させるお札があっただろう。それを使ってみるのだ」
リラに言われて、亜留はお札の束を取り出し、一枚ずつ探した。
「霊力増強、これか」
一枚のお札を取り出し、沙織の霊体に近づける。そして、メモに書かれた通りの経を唱えると、透き通った体は徐々にリラのように明確な姿を見せた。
しばらく様子を見ていると、沙織はつぶっていた目を開き、ゆっくりと起き上がった。
「ん……あ……れ?」
自分がどこにいるか確認するように、沙織はあたりをきょろきょろと見回す。その様子を見て、亜留はほっと胸をなでおろす。
「よかった、何とか無事で」
そう言って、亜留は沙織に手を差し伸べた。しかし、一方の沙織は、キョトンとした目で亜留を見つめたまま動かない。
そして、沙織の口から、耳を疑うような言葉が発せられた。
「えっと、あなたは一体、誰なのですか?」
外から聞こえる風が、格子状の窓に当たってがたがたと揺れ動く。
その神社の中の、少し控えめに作られたご神体の目の前で、沙織はぼうっとした顔で目の前の三人を見つめる。
「さ、沙織、まさかまた……」
亜留は両手両膝をついてがっくりと崩れ落ちた。
「亜留!」
「あ、亜留君!?」
明と重菜が亜留のそばに駆け寄るが、その様子を見ても、沙織は特に興味を示さない。
「ふむ、どうやらサオリは、霊体エネルギーを奪われ過ぎて、記憶の大半が消えているようだな」
「そんな、じゃあ私たちのことは覚えてないってこと?」
リラの言葉に沙織が声を挙げた。
「記憶や感情と言うものは、もともと霊体にとって基本的に不必要なものだし、多くのエネルギーが必要なのだ。基本的には少ないエネルギーを霊体の維持に使うからな。ここら辺にはかなり貪欲な霊体や悪霊とも呼べるようなものが多いから、必要以上の霊体エネルギー発生源であるサオリを襲ったのだろう」
「じゃあ、沙織の記憶は、もう……」
亜留はあまりのショックに顔が上げられないままつぶやいた。
「まあ落ち着け。もしかしたら、あの神主なら、霊体の記憶を取り戻す方法を知っているかもしれん。ひとまず、サオリを連れて降りてみよう」
亜留とリラのやり取りを聞きながら、沙織は相変わらず何が起こっているのかわからないといった、困惑した顔をしていた。
「あの、あなたたちは、ここに何をしに来たのでしょうか?」
沙織の言葉が、亜留たちに重くのしかかる。
「沙織……本当に私たちのこと、忘れちゃったんだね」
重菜は、全てを忘れてしまった沙織を見て、思わず泣き出してしまった。
「とにかく、サオリに来てもらわねば話が進まぬ。ひとまず、サオリには事情を説明せねばならぬな」
リラはそういうと、沙織のそばに近寄り、これまでのことを話した。
「つまり、私はあなたたちの友達だった、ということですか?」
リラが大方説明し終わると、沙織が驚いた顔でそういった。
「そうだ。それで、いなくなったサオリを、ここまで探しに来たのだ」
「そうだったのですね。私、ここに来る前の記憶が、あまりなくて、どうしてここにいるのかもわからないのです。覚えているのは、名前と、私は幽霊だっていうくらいで」
「私らがここに来た時には、既にかなりの霊体エネルギーを消耗していたようだからな。記憶を維持するエネルギーが残っていなかったのだ」
自分の正体がわからない不安からか、沙織は曇った顔で俯いた。
「しかし、もしかしたらお主の記憶を取り戻すことができるかもしれぬ。もっとも、一緒についてくるかどうかはお主次第だが」
「おい、リラ、そんなことを聞くまでもないだろう」
「こういうのは相手の意思が大事なのだ。もしかしたら、サオリに思い出したくないこともあるかもしれないだろう」
「それはそうだけど……」
亜留はリラの言葉を聞きながら、沙織の様子をうかがう。まだ、どうすればいいのかわからないという表情で、沙織はいまだに俯いていた。
「私、今は自分が何者かわからなくて怖いんです。昔のことも、自分が何をして、どういう人間だったのかを知るのが、まだ怖い」
話すごとに、沙織は徐々に顔を上げていく。
「でも、皆さんとの楽しい思い出があるのなら、私はそれを思い出したい。それに、皆さん優しそうな方ですし、信頼できそうですから」
そういうと、沙織は初めて全員に笑顔を見せた。
「よし、決まりだな。ひとまずサオリを連れて下に降りよう。ほれアル、いつまでもへこんどらんでさっさと立ち上がらんか」
リラに促され、亜留は立ち上がってジーンズの埃を払う。続いて、明と重菜も、後に続いた。
「あ、そうだ。名前はお聞きしましたけど、皆さんのことは、どう呼べばいいのでしょう」
沙織が立ち上がると、亜留たちに尋ねた。
亜留と明はしばらく考えていたが、お互い頷くと、沙織の方を向いていった。
「好きな呼び方でいいよ」
徐々に日が高くなる山道を降りていくと、途中一人の参拝客とすれ違った。少なからず、須羅府神社への参拝客は現在でもいるようだ。
鱈瀬神社の本殿に近づくにつれ、邪気、すなわち悪性の霊体エネルギーが増加すると思い、亜留は「邪気追放」のお札を手にしていた。
「あれ、私何も感じないけど、どうしてかな」
しかし、重菜は、本殿に近づいているのに、悪寒がしないことを妙に感じていた。
「僕の手を握ってるからじゃないのか? さっきもそうしてたじゃん」
「でも、あの時でも、少しは嫌な感じがしたの。でも、今は全くそういう感じしないもん。それに、明君もリラちゃんも、何も感じないでしょ?」
重菜は少し離れたところで歩く明と、亜留の体から離れっぱなしのリラに尋ねた。
「俺は別に、特に何も感じないぜ? さっきの所の方がヤバかったくらいだ」
「うむ、そういえばそうだな。あれだけ嫌な感じがしていたのは、今は全く感じられぬ。一体どうしたというのだ?」
何も感じないことを不審に思いながらも、三人と霊体二体は、山道を降りていく。
山道を抜けると、本殿が建つ広場が見えてくる。木々で遮られていた太陽の光が、あたりを眩しく照らす。
「おや、どうやらお探しの霊体は見つけたようですね」
声が聞こえた方を振り向くと、先ほど沙織のことについて相談していた神主が、熊手を持って落ち葉をかき集めていた。
「あれ、神主さん、今は大丈夫なんですか?」
「午前中はお祓いの予約が入っていませんから。大抵は、こうして掃除をしているのです。それと」
神主はごそごそと懐から、お札を二枚ほど取り出した。
「みなさんが苦しくないように、ここら辺の邪気を払っておきました。幾分か楽だと思いますが、どうでしょうか」
「なるほど、それで私やシゲナが何も感じなかったわけか。さすが神主、と言ったところだな」
「はっはっは、まさか霊体に褒められるとは、思いませんでした」
顔に似合わない神主の高笑いが、拝殿にまで聞こえそうなくらい、境内に響き渡る。
「あの、それで、聞きたいことがあるんですけれど」
神主の笑い声を遮るように、亜留は神主に尋ねた。真面目な亜留の顔を見て、神主は笑うのをやめ、本殿の方へ振り向く。
「ここで立ち話も何ですから、中で話を聞きましょう」
そう言うと、亜留たちを案内をした。
「なるほど、せっかく見つけられたのに、記憶を失っているのですか」
鱈瀬神社本殿の脇にある小部屋で、神主は亜留の話を聞きながらお茶をすすった。昼間だというのに、部屋の薄暗さは相変わらずである。
「見つけた時に、かなり霊体エネルギーを喰われていたようだからな。ある程度はお札で霊体エネルギーを回復させたが、記憶までは戻らなかったようじゃ。もう少し霊体エネルギーを回復させれば多少はましにはなると思うが、果たして完全に記憶まで戻せるか。私は難しいと考えておる」
リラの補足説明に、神主は「うむ」と頭をひねった。
「確かに、完全に記憶を無くしてしまっては、復活は難しいですね。ですが、名前を憶えているということは、もしかしたら完全に記憶を戻せるかもしれません」
「え、本当ですか?」
思わず、亜留が身を乗り出した。倒れそうになる亜留の目の前の茶碗を、重菜が慌てて支える。
「人間の記憶も、よく物忘れをするでしょう? シナプスがどうとか、私には詳しいことはわかりませんが、忘れていても、ふとしたことで思い出すものです。同じように、霊体も物事を記憶できるシステムが生きているなら、その材料……つまり、霊力さえあれば、何か思い出す可能性もあるということです」
「しかしだな、人間の記憶喪失と違って、今回はその記憶を構成するエネルギーを喰われておるのだ。そこらの霊的エネルギーを補充するだけでは、意味をなさないのではないのか?」
「もっともです。しかし、例えば、その霊体が生まれた場所や死んだ場所、あるいは長年住んでいた場所のような、なじみのある場所であればどうでしょう。そこには、その霊体が放出したエネルギーもとどまっているはずですから、記憶を取り戻すためのエネルギーが賄えるかもしれません」
リラは「ふむ」と頷くが、まだ納得していないようだ。
「それは一理あるが、おそらくそれだけでは足りぬぞ。かなり中途半端にしか思い出せず、余計苦しい思いをするかもしれぬ」
「もう一つは、その霊体が何らかの原因でエネルギーを放出した場所です。放出したものを補充すれば、そのまま記憶を構成するエネルギーに変換できますから」
「それに該当する場所にはさっき行ってきたばかりだ。あんな場所で霊体エネルギーの補充なんぞやっていたら、逆にエネルギーを持っていかれるぞ」
「そうですか……他に、そういった場所に心当たりはないですか?」
神主は亜留に尋ねる。リラとのやりとりを聞いていた亜留は「そうですね……」とつぶやいて考え始めた。
(沙織がエネルギーを出した場所……僕と一緒に行った場所に、そんなところが無いだろうか……)




