二つの霊体
重菜の方を見ると、周りを包んでいた黒いものが、重菜の頭上に塊となって現れた。
黒い塊はもやもやと不定形のまま漂いながら、次第に動物のようなものに変化していく。
「あれは……犬?」
四本の足にピンと立てられた耳、そしてかわいらしく開いた口。そのシルエットは、どこかでみたことあるような、小型の犬のようだ。
「重菜、大丈夫?」
苦しみから解放され、息をぜいぜいと切らしている重菜の肩にそっと手を置き、亜留はその様子をうかがった。
「う、うん、なんとか。でも……」
なんとか息を整え、重菜も頭上に浮かんだ黒いシルエットを眺める。
「も、もしかして……あなた、ケフィー?」
「ケフィー……って、重菜ちゃんが飼ってた?」
「うん、昨日死んだ、私のペットのチワワ。でも、どうして……」
犬の形をした黒い塊は、どうも自由には動けない様子でぷかぷかと浮かんでいる。
「なるほど、飼っていたペットでしたか。ペットが死んだ後、飼い主に取り憑く例は少なくありませんからね。しかし、普通の人が見えるほどはっきりとした形を取るのは珍しいですね」
先ほどまで大幣を振るっていた神主が、犬の形の塊を見ながらつぶやいた。
「えっと、つまりケフィーが死んだあと、その魂が私に憑依したってことですか?」
「おそらく、そうでしょう。ペットの霊は飼い主から受けた愛情が高いほど、飼い主に憑依しやすいですから。よほど、かわいがられていたのでしょうな」
犬の形の塊は、じっと見ていると、こちらを寂しそうに見ているようにも見える。それを見て、重菜は溜めていた涙をこらえきれずに流してしまった。
「はい、ケフィーは私が小学生の頃から家族同然に生活していた、大切な存在だったんです。だから、昨日ケフィーが死んだときは、何もできずに随分と長い時間泣いていました」
「なるほど。この様子だと結構長く生きていたようですな。おそらく寿命でしょう」
「ええ、一昨日の夕方からずっと動かなくて、病院に行ったらもう長くないって。まさか昨日息を引き取るなんて……」
大粒の涙を流しながら、重菜は両手をついて泣き出した。
『動物霊は未練を残しやすいからな。事故で死んだり、他の動物に捕食されたり、ペットとして飼われていたりする場合は特にな。ペットが死んでも成仏出来ない、なんてことは日常茶飯事だ』
リラが重菜に語り掛けると、神主は「おや」とつぶやいた。
「なかなか詳しい人間の霊ですね。ここまで動物霊に詳しい霊体も珍しい」
それを聞いて、亜留と明は「えっ」と声を挙げた。
「神主さん、リラのことはわかってたんですか?」
「もちろん、君の体に取り憑いているのは知っていましたよ。もちろん、悪霊ではないということも」
「それじゃあ、最初からこの……ケフィーの霊のお祓いを?」
「そうですよ。でないと、いきなりお祓いなんてしませんよ」
そう言って神主はにこやかな表情を見せた。
「しかし、なるほど。意思の強い霊体に憑依されていては、周りの邪気を感じやすいでしょう。彦野君、といいましたか。部屋に入った時から顔色が悪いと思っていましたよ」
『当たり前だ。これほどひどい悪性の霊的エネルギーなんぞ、見たことないわ』
亜留の代わりにリラが答える。
「この辺はお祓いで溜まった邪気があふれていますからね。なるほど、それで憑依している霊体さんも出てこられないというわけですか」
『そういうわけだ。ただ、私があまりに長く憑依していては、アルへの負担が長く続いてしまう。出来れば離れたいのだが……何か手は無いものだろうか?』
「そうですね……なら、これを使いましょう」
そういうと、神主は懐から一枚のお札を取り出し、畳の上に置いた。お札には、「邪気追放」と書かれている。
お札に神主が人差し指と中指を当て、目をつぶって何事かつぶやくと、急に暗く包まれていた雰囲気が一転して明るくなった気がした。
「これで大丈夫です。もう、悪寒はしなくなったでしょう?」
神主に言われて、亜留は体が楽になったのを感じた。
「こ、これは……」
体の震えが止まり、亜留はすっと立ち上がる。
「邪気を追い払うお札です。邪気が多い空間は、霊感が強い人だといるだけで辛いと聞きます。なので、こういうお札を作っているのですよ」
神主はそういうと、懐からいくつかのお札を取り出した。
『そんなものがあるなら、最初から出してくれればよかったものを。まあ、これで私も安心して外に出られるな』
亜留に憑依していたリラはそういうと、すっと亜留から離れて隣に立った。
「私は星谷梨羅という。一ヶ月ほど前に崖から転落して死んでしまっての。わけあってアルに憑依させてもらっているのだ」
「ほう、これほどはっきりと人間と同じように話せる霊体というのも、なかなか珍しいですね」
「ん、そうか? 私が知っておる限りではそこまで特殊ではないのだがな。それより、こやつはどうするのだ? シゲナからの憑依を解いたのはよいとして、このままではかわいそうだろ」
リラはケフィーの霊体を見ながら言った。霊体は、ずっとふわふわと浮いたままだ。
「もちろん、この後しっかり成仏させますよ。このままだと、また別の人に乗り移ってしまうか、他の霊体に襲われて消滅してしまいますから」
「それが妥当だな。霊体とて、ある程度の意思や苦痛は存在するからな。それに、動物霊が自分と違う種族の動物に憑依すると、肉体と霊体の波長が一致せず、憑依された側が体調を崩したり、突然発狂したりすることもあるからな」
リラと神主の話を聞き、重菜は涙をぬぐって顔を上げた。
「やっぱり、ケフィーとはまたサヨナラしないといけないのですか?」
重菜はリラと神主の顔を交互に見る。リラは「うむ」と頷いて答えた。
「その方がよかろう。その前に、何か言いたいことがあれば、私が伝えるが?」
リラが重菜に言うと、重菜は横に首を振った。
「そうか。……ん、こやつから何か伝えたいことがあるようだぞ?」
そういうと、リラはケフィーの霊体に近づき、耳を傾けた。
「ふむ、ふむふむ、なるほどな」
しばらくして、リラは重菜の前に降りてきた。妙に深刻そうな表情に、重菜も不安な表情を浮かべる。
「シゲナ、あやつ、ケフィーはご主人様が心配で、ずっとそばにいたかったそうだ。いつも元気そうにしておったが、数か月前からすでに体調があまり良くなかったんだと。しかし、ご主人様に心配をかけたくなかったから、そういう素振りを見せなかった。しかし、やはり寿命には勝てず、死んだ日はご主人様が心配すぎてとても辛かったそうだ」
重菜はリラの代弁を聞きながら、涙を流してケフィーの霊体を見上げていた。亜留と明も、ケフィーの霊体を見上げたまま動けずにいる。
「ずっとそばにいて見守っていたかった。特に、近くで泣いているご主人様を見て。だから、ご主人様の体に取り憑いて、一緒に暮らそうと思ったのだそうだ。しかし、今の様子を見て、どうやらご主人様のところを離れた方がよいのではないか、と考えているのだと。どうやら、どうすればいいか迷っておるようだな」
「そう……だったの……」
重菜はあふれる涙をふき取り、ケフィーの霊体に近寄った。
「私は大丈夫だから。ケフィーがいなくなって寂しいけど、友達もたくさんいるし、心配しなくてもいいから」
両手を握って重菜はケフィーの霊体に話しかける。それを聞いて、リラがケフィーに意思を伝えた。
リラの様子を見ていると、驚いたり困った顔をしたりしていたが、最後には「うむ」と言って戻ってきた。
「シゲナ、ケフィーはまだ心配だと言っておるが、私がなんとか説得しておいた。後のことは私たちに任せておけ、とな。だから、安心してお別れするがよい」
「うん、そうだね。ケフィー、なんだか苦しそうだから、このままだとかわいそう」
重菜がそういうと、神主がゆっくりと重菜の方にやってきた。
「もう、お別れは済みましたか?」
「はい……お願いします」
そういうと、重菜は一歩後ずさり、元いた場所に神主がやってきた。
神主はケフィーに向かって大幣を振ると、先ほど同じような経を唱え始めた。その場の全員がじっと経に耳を傾け、じっとケフィーの霊体を見守る。
しばらくすると、ケフィーの霊体は徐々にはっきりとした黒色から灰色に近くなり、次第に白くなっていく。その色も褪せていき、最後には消えてしまった。
『ありがとう、ご主人様』
「……えっ?」
重菜の耳に、そんな声が入って来て、思わず天井を見上げた。
「……ばいばい、ケフィー」
小さくつぶやくと、重菜の目からこらえていた涙が一気に溢れ出し、その場に座り込んだ。
「ありがとうございました。これでケフィーも浮かばれます」
お祓いが終わった後、亜留たち三人は、座布団に座って神主にお礼を言った。
「まあまあ、成仏できない霊を成仏させるのが私の仕事ですから」
はっはっは、と笑いながら、神主は正座で答えた。
「お祓いするって言った時はびっくりしましたよ。まさかリラが成仏させられるのかと」
「よほどひどい悪霊だとか、無意味にふらついている動物霊とかでなければお祓いはしませんよ。守護霊もいますし、浮遊霊や地縛霊なんかは時間が経てば勝手に成仏しますしね」
「でも、ここのお祓いって、悪いうわさもありますよね。守護霊をお祓いされて調子が悪くなったとか、法外な値段を求められたとか」
亜留の話を聞いて、神主ははっはっは、と笑い声を上げた。
「たまに何も異常がない参拝客がお祓いの依頼をする時もありましてね、特に意味もない適当なお経を唱えることもあるのですよ。それで、その帰りに運悪く事故に遭ったっていう話なら聞いたことがあります。あと、準備が出来ていないときは法外な値段を吹っかけて諦めさせようとしたときはありましたね」
「ええ、そんなお客さんがいるんですか?」
「人間っていうのは、悪霊なんかよりもよっぽど恐ろしいものですよ」
「たしかに、それは言えてるかもしれませんね」
なるほど、と亜留は腕を組みながら言った。
「さて、お祓いも済んだことですし、そろそろ本題に入りましょう。今日は相談事と言うことですが」
神主はそういうと、懐から黒い表紙の手帳とボールペンを取り出した。
「そうですね、実は、リラみたいな、女の子の霊を探しているんです」
「ほう、そのお嬢さんのような?」
「えっと、高校生の女の子で、ショートヘアで白いワンピースを着ているはずなんですけど」
亜留が説明すると、神主は「うーん」と頭をひねる。
「確かにここでは沢山の霊をお祓いしてきましたし、いろんな霊を見てきましたが、そちらの霊……星谷さんのような、はっきりとした霊は今まで見たことがないですね」
「……そうですか」
神主の言葉に、手がかりを失った亜留は肩を落としたが、リラが前に出て神主に尋ねた。
「ほかの霊体仲間に聞いたのだが、どうもサオリ……その女子高生の霊体は、毎日のように鱈瀬神社に向かっていたようだ。こっちの方向にはほかにはかなり離れた場所にしか神社や墓地は無いから、ここらへんで霊体が溜まりそうな場所にいるはずだ。そういう場所に心当たりはないだろうか?」
「霊が溜まりそうな場所、ですか」
神主はしばらく顎に手を当てて考えると、「そういえば」と声を上げた。
「この近くで霊的に集まりやすい場所と言えば、この神社の裏手にある、須羅府神社はどうでしょう」
「須羅府神社?」
リラが尋ねると、重菜が「この裏にある境内摂社ね」と答えた。
「今から百年近く前に建てられたものだそうで、かなり古い神社です。昔は無病息災の神が祀られているとして参拝客も多かったのですが、今は少ないですね。何しろ、ここからは少し離れていますから、わざわざ寄る人がいないのです」
「ふむ、確かに古い神社には霊体が集まりやすいが……そこは、ここのように悪性の霊体エネルギーが溜まっている場所ではないのか?」
ここから近いということは、お祓いによって成仏した霊の霊体エネルギーが溜まっている可能性がある。もしそうなら、ここと同じく沙織がいる可能性が低くなる。
「いえ、あそこはここのように邪気には覆われておりません。ただ、霊感が強い方は寒気を感じることもあるそうですから、霊が集まりやすいのは間違いないでしょう」
「なるほど、やはりここが特殊だっただけなのだな」
「お祓いしているところはそんなものですよ。邪気は霊体がお祓いによって成仏する時に残された慙愧の念、とでも言いましょうか、なかなか消えないでその場にとどまって溜まっていくのです。ですから、人が意図的に邪気を取り入れたり、動物が何らかの要因で邪気を纏って他の場所に行ったりしなければ、他のところに邪気が溜まることはありません」
「ふむ、なるほどな」
リラは腕を組んで何かを納得したように頷く。
「もしサオリがこの辺にいるとすれば、そこしかないな」
「でも、もし沙織がそこにいるとしても、何でそんなところに? 何度か来たことがある鱈瀬神社ならともかく」
亜留が首をひねっていると、神主が「おそらく」と挟んだ。
「須羅府神社は無病息災の神ですが、もう一つ何かの神様を祀っているらしいのです」
「もう一つ?」
「はい。先々代の神主が建てたもので詳しいことは知りませんが、二柱の神を祀っているとのことです」
「二柱の神……か。もしかしたら、もう一柱の神様っていうのが、関係あるのかも」
亜留は、先ほどの落ち込んだ顔から一転してやる気になると、すっと立ち上がった。
「行こう。きっと、沙織はそこにいるはずだ」
亜留が両手のこぶしを握りながら言うと、明と沙織も立ち上がった。
「おう、早く行こうぜ」
「うん、私も早く会いたい」
三人はお互いに向かい合うと、お互いの決心を確かめるようにうなずいた。




