運を貯める男
「運が悪かった……」
「あの時あんな事が起きなければ……」
「どうしてこのタイミングで……」
何も知らない人間ならこんなセリフは負け犬の、単なる言い訳にしか聞こえないだろう。
「頑張れば報われない事は無い」
「努力は必ず報われる」
僕はかつてそう思っていた。
だけどそんなのは嘘っぱちだ
世の中にはどうしようもない不運がある、そんな事は知りたくなかった。
知りたくなかったけど、知ってしまった、知らされてしまった。
致命傷な失敗というのは、理由がないのだ。
父さんは教えてくれた。
「なにか失敗した時、運を言い訳にしてはいけない。自分の失敗を認めたくないから『運』というものに責任転嫁してしまうのは確かに楽だろう。だがそういう人間は必ず同じ失敗を繰り返す。運が悪かった、で思考停止してしまって原因を考えないからだ。なにか悪いところが無かったか、努力が足りなかったのではないか、と自分の失敗に向き合えば、同じ失敗は二度と繰り返さないだろう」
父さんはとても責任感の強い人だった。真面目で努力家な父さんを僕は尊敬していたし、その言葉は子供ながらにとても正しい事に思えた。
だけど……その言葉が正しくなかったと教えてくれたのも父さんだった。
父さんは本当の不運に出会ってしまった。
五年前、僕が小学五年生の時だった。
父さんは車を売る仕事をしていた。真面目で努力家な父さんはその仕事ぶりを認められて昇進する事になった。営業部の仕事から本社の人事部に異動する事になったのだ。
僕はその話を聞いて「おめでとう、よかったね」と無邪気に父さんを祝福した。
すると父さんはなぜか眉をひそめて「そう、だね」と言って僕の頭を寂しそうに撫でてくれた。
……? 父さんがなんで喜んでいないのか不思議だったけど僕はたいして気にもとめなかった。
その翌日から父さんはいつもより早く家を出るようになり帰りも遅くなっていった。
父さんと会える時間が少なくなって寂しかったけどお仕事頑張ってるんだろうな、と父さんへの尊敬は変わらなかった。
それからしばらくすると、父さんの様子は僕にもわかるくらいに変わっていった。
夜遅くに帰ってくる父さんは、枯れた植物のように元気がなく疲れきった顔になっていった。
その顔は僕が今まで見た事がない顔だった。今まで父さんはどんな疲れた時でも笑顔で僕の頭を撫でてくれていたのに。
僕は不安になって母さんに尋ねた。
「父さんショウシンしてからお仕事大変なのかな、なんだかとても疲れてるみたいで、僕心配だよ」
「……そうね、お父さんは人一倍真面目な人だから、きっと色々な事を考え過ぎているんだと思う。でもきっと大丈夫、お父さんは立派な人だからお仕事が一段落したら前みたいに元気になるわよ」
「そうかな……」
「大丈夫、ほらそんな不安な顔しないで。お父さんを信じて、ね?」
「うん……わかった」
だけどそれから半年経っても父さんは相変わらずだった。話しかけるのもはばかれる程に疲弊した父さんを見るのはとても辛かった。
そんなある日の夜、僕は寝室で眠っていると父さんに起こされた。
寝ぼけ眼で起き上がると「大事な話があるんだ、起きれるか?」と言われ僕は居間へと連れて行かれた。
居間に行くと母さんも居て僕に暖かいお茶を入れてくれた。
僕は母さんに礼を言って椅子に腰掛けると動揺を隠せず早々に尋ねた。
「いったいどうしたの? 大事な話って?」
「……父さんが今何の仕事をしてるか、知ってるか?」
「えっ? 車を売るお仕事でしょ?」
「車を売る会社では働いているけど違うんだ、父さんが今してる仕事はな……」
その時初めて僕は父さんが働く人事部でしている仕事を知った。
父さんは子供の僕にもわかるように丁寧に、真摯に説明をしてくれた。
父さんの仕事は……リストラ、同僚の首を切る事だ……と悲哀な表情で。
僕には父さんの辛さが容易に想像できた。
いっぱい苦しんだんだろう、いっぱい悩んだんだろう。だって父さんは優しい……とっても優しいから。
父さんは目からは涙が溢れていた。
いつも頼りがいのある父さん、いつも明るい父さん、いつも正しい父さん、そんないつもの父さんからかけ離れた姿だった。
そして、父さんは自動車の会社を辞める事に決めた。僕も母さんも反対なんかしなかった。むしろ父さんが辛い仕事を辞めてくれて、ほっとしたくらいだった。
これですこし前までのような幸せな日常が戻る。一緒に食事をして、テレビを見て三人で笑ったり、たまに外に遊びに連れて行ってもらったり。そんな平凡だけど、究極に幸せな日常が戻ってくる、そう思っていた。
そう思っていたのに……
父さんが仕事を辞めて間もなく、母さんはパートに出る事になった。近くのスーパーでの仕事だった。別にお金に困っていた訳では無いらしかった。ただ母さんは、父さんに焦って欲しくなくて、家の心配をして欲しくなくてそう決心したらしい。でも本音の部分は、一度働いてみたかったからという事だったのかもしれない。だって母さんはとても楽しそうだったから。
父さんはわずか二週間余りで新しい仕事を見つけた。カーナビとか車用品の営業の仕事らしい。今まで働いてた経験のおかげで、これまでと変わらないような役職につけたらしい。
さすが父さんだな、そう思った。でも当たり前かもしれない。父さんは誰が見たって、とても真面目で立派で頼りになる、僕の憧れなのだから。
僕と父さんにとって最悪の不運は不意にして訪れた。
母さんが倒れた。
それは母さんがパートで働いていた時の事だった。死因は急性心不全という、いわゆる原因不明の死因だった。母さんは僕らが心の準備をする暇もなく、あっという間にこの世を去っていった。
僕は泣いた。喉が枯れる程に声をあげ、ただひたすら、力の限り泣き続けた。
父さんは泣かなかった。
だが、自分を傷つけ続けた。自傷行動というらしい。両の爪で顔面を引っ掻き、手当たり次第の壁に頭を叩き続けた。病院の人達が必死になって押さえつけるまでそんな自傷行動を続けた。
父さんは入院することになり、次に会った時にはもう……壊れていた。
僕の事もわからない。一人で立ち上がる事も食事をする事も出来なくなっていた。
出来る事と言えばただぼそぼそと同じ言葉を呟く事だけだった。
「俺が悪いンだ、俺が、俺が全部、俺が、すまないすまんしすまないすままあい」
同じ言葉を壊れた人形のように呟き続けていた。
僕には父さんが何を考えているのか手に取るように理解っていた。
責任感の強い父さん。その強迫観念にも似た責任感は今回の件を全て自分のせいだと思い込んだのだろう。
自分が仕事を辞めなければ母さんはパートに出る事はなかった。パートで働く事がなければ母さんが死ぬ事なんてなかった。だから母さんが死んだのは全て自分のせいだ。
おそらく父さんはそんな事を考えたのだろう。
責任感の強い父さんは、その思い込みから目をそらす事も出来ず真っ正面から受け止めた結果……壊れてしまったのだ。
父さんは何も悪くなんかない、父さんが責任を感じる事なんかじゃないはずなのに。ただ運が悪かっただけだ。
母さんが死んだ、父さんが壊れた。
あんなに暖かくて平穏だった僕らの家族は、振りかぶった斧で何度も叩き付けるように不幸が突きつけられ、いとも簡単に崩壊した。
いつも頼りがいのある父さん、いつも明るい父さん、いつも正しい父さん、そんな父さんは本当に僕の憧れだった。
だが父さんは今や、僕が最もなりたくない姿になってしまった。
僕は恐くてたまらなくなった。
いつか僕も父さんみたいな不幸に見舞われるんじゃないか? そんな不幸はいつ起こるかもわからない、明日訪れるのかもしれない。
僕は恐くて恐くて、毎日震えて引きこもった。
しばらく引きこもった結果、僕は一つの答えを出した。
「運を貯めよう」
馬鹿げた考えだと思う。だけどそれしか考えられなかった。神様の存在なんて信じられなかった。もし神様がいたとしても、どんな理由で僕の家族に不幸を届けた? 父さんみたいな誠実な人間でもあんな不幸を届ける神様だ。僕にも間違いなく届けてくるのだろう。
そんなものに頼るくらいなら自分の手で。どうにもならない事かもしれない。でもそのどうにもならない事を、どうにかする為に僕は必死だったのだ。
運を貯めるってどうすれば良いんだろう? 何かアイデアあったらお願いします。