寡黙な側近は、王太子の婚約を解消する
「婚約者と、無難に婚約解消しておいてくれ」
「かしこまりました」
ヴィクトルは一礼し、そのまま部屋を出ようとした。
「ヴィクトル」
呼び止められて、振り返る。
北の国、ノルデン王国の王太子オスカーが、少し不思議そうにこちらを見ていた。
「理由は聞かないのか?」
「必要でしたら、殿下がお話しになるかと」
オスカーは一瞬黙って、それから大きく笑った。
「ははっ。そうだな」
机の上の書類を一枚取り上げる。
「なら、頼んだぞ」
ヴィクトルはもう一度一礼して、今度こそ部屋を出た。
◇
夏の終わりだった。
北の国では、日中こそまだ暖かいものの、朝夕の風には早くも秋の気配が混じっている。王宮の庭でも、木々の葉がところどころ黄色く色づき始めていた。
王太子オスカーは、大柄な男だった。
短く切った金褐色の髪に、明るい青の瞳。肩幅が広く、王太子の正装より騎士の訓練着のほうがよほど似合った。
一方、その側近を務めるヴィクトルは、オスカーより背は低いものの、こちらも長身だった。
細身で、灰色がかった黒髪に淡い灰色の瞳をしている。口数は少なく、聞かれたことには答えるが、必要のないことまで自分から話すことはほとんどない。
幼いころからオスカーのそばにいる、王太子付きの側近だった。
そして今、その王太子から一つの仕事を任されている。
遠い西の国からやってきた婚約者を、無難に国へ帰すことだった。
◇
その婚約者であるイネスが北へ来てから、三週間ほどが経っていた。
イネスは、海の向こうにある小国、アルメリア大公国の第一公女だった。
艶のある長い黒髪に、黒に近い瞳。淡い色の髪や瞳を持つ者の多い北の王宮では、その姿はひときわ目を引いた。
彼女はもともと、父である大公のあとを継ぐ者として育てられていた。
ところが近年、両国の間にある西の大国が、長く続いた戦乱を終えて一つの帝国となった。
それまでいくつもの勢力に分かれていた巨大な国が、一つになったのである。
軍も財も、以前とは比べものにならない。
その帝国を挟むように位置する北の国とアルメリアにとって、無視できる変化ではなかった。
二国が強く結びつくために決められたのが、オスカーとイネスの婚約である。
婚姻が成立すれば、イネスは大公位を継ぐ権利を弟へ譲り、北で王太子妃となる。
彼女はそのために、この国へやってきた。
毎日のように教師を呼び、北の歴史や王宮での慣習を学んでいる。貴族たちの家名と領地を覚え、王太子妃として必要になる儀礼にも目を通した。
どこで何が採れ、どの町がどの街道で結ばれているのか。税の仕組みや周辺国との交易についても、教師が驚くほど熱心に尋ねていた。
そして、遠い国へ嫁いできたというのに、一度も弱音を吐かなかった。
◇
「その腕輪、とても綺麗ですね」
ある日、イネスが言った。
隣を歩いていたオスカーの妹、アストリッド王女が自分の手首を見る。
淡い銀色の髪に、白い肌、深い青の瞳。整った顔立ちと、思ったことをそのまま口にする性格のせいで、他国の人間からは近寄りがたいと思われることも多かった。
その手首には、細い銀板をいくつも重ねた腕輪がある。表面には雪の花を思わせる細かな模様が彫られ、腕を動かすたび、しゃらりと澄んだ音を立てていた。
「これのことかしら?」
「はい」
「王都の職人が作ったものよ。北では銀が採れるから、昔から細工も盛んなの」
イネスは興味深そうに覗き込んだ。
「とても細かな仕事ですね」
「工房もあるわ」
「見学してもよろしいのですか?」
「構わないわ。今度、私と行きましょう」
「ありがとうございます。ぜひ」
イネスが嬉しそうに笑った。
少し後ろをヴィクトルが歩いていた。
「あなた、本当によく勉強するのね」
アストリッドが言った。
「まだ知らないことばかりですから」
「故郷へ戻りたいとは思わないの?」
口にした瞬間、アストリッドの表情が固まった。
「あ……」
イネスも、ほんのわずかに足を止める。
けれど、すぐに笑った。
「ここへ来なければ、この腕輪を見ることもできませんでした」
「……」
「せっかく来たのですもの。知らなかったものを、たくさん知りたいです」
「そういうことを聞いたんじゃないわ」
「では、今度工房で教えてください。北の銀細工は、ほかの国のものと何が違うのでしょう」
アストリッドはしばらくイネスを見た。
「……ごめんなさい。今のは聞くことじゃなかったわ」
イネスはにこりと笑った。
「何のことでしょう?」
アストリッドは少し眉を寄せたが、それ以上は聞かなかった。
「……そうね。またわからないことがあったら、いつでも聞いてちょうだい」
◇
アストリッドと別れたあと、イネスは二人の令嬢に呼び止められた。
「公女殿下。これからどちらへ?」
「厩舎へ行こうと思っています」
「厩舎へ?」
一人が目を丸くする。
「公女殿下ご自身が?」
「ええ。故国から連れてきた馬が、あまり餌を食べていないそうなので」
「まあ……」
もう一人が、少し笑った。
「西の島国では、公女殿下も厩舎へお入りになるのですね」
「何か?」
「いいえ。ずいぶん逞しいのだと思いまして」
「逞しい?」
「こちらでは、馬のことは騎士や馬丁に任せますでしょう?」
隣の令嬢も微笑んだ。
「王太子妃になられる方が、ご自分で馬房まで足を運ばれることは、あまりありませんわ」
「そうなのですね」
「西では、大公家の方もずいぶん自由でいらっしゃるのね」
「海に囲まれた国ですもの。こちらとは違うのでしょう」
二人は顔を見合わせる。
「もちろん、悪いという意味ではございませんのよ」
「ええ。少し驚いただけですわ」
「教えていただいてありがとうございます」
イネスがそう答えると、一人が微笑んだ。
「わからないことがあれば、クラリッサ様にお尋ねになるとよろしいですわ」
「宮廷のことなら、何でもご存じですもの」
もう一人が意味ありげに笑った。
「オスカー殿下のお好みも」
二人はくすくすと笑いながら去っていった。
イネスはしばらくその背中を見ていた。
それから何事もなかったように、厩舎へ向かった。
◇
西から連れてきた黒い牝馬は、飼葉桶へほとんど口をつけていなかった。
「あなたも、まだ慣れないのね」
イネスが鼻筋を撫でる。
牝馬が、甘えるように鼻先を肩へ押しつけた。
「急に何もかも変わったら、戸惑うわよね」
黒いたてがみをゆっくり撫でる。
「少しずつ慣れればいいのよ」
そこで、イネスは少し黙った。
牝馬がじっとこちらを見ている。
「……そうね。私も、だわ」
牝馬が小さく鼻を鳴らした。
◇
翌日、イネスは王宮の小さな昼食会へ招かれた。
若い貴族たちが集まる、気楽な席だと聞いていた。
「あら、公女殿下」
先に来ていた令嬢の一人が、イネスの髪を見て微笑んだ。
「今日は髪を下ろしていらっしゃるのですね」
「何かおかしいでしょうか」
「いいえ。とてもよくお似合いですわ」
別の令嬢が続ける。
「西の方らしくて」
「ありがとうございます」
「こちらでは、王宮での昼食ならもう少しまとめる方が多いですけれど」
「まあ、でも」
昨日、厩舎の前で会った令嬢が笑った。
「公女殿下は、そのままのほうが異国情緒があって素敵ですわ」
「本当に。北の女性には真似できませんもの」
そこへ、一人の女性が入ってきた。
「皆様、何のお話?」
「クラリッサ様」
令嬢たちの表情が明るくなる。
クラリッサは、この国でも有力な侯爵家の娘だった。
淡い金色の髪に明るい緑の瞳。白い肌と華やかな美貌を持ち、王宮の若い令嬢たちの中心にいる女性である。
幼いころからアストリッドの遊び相手として王宮へ出入りし、オスカーとも長い付き合いだった。
家柄も申し分ない。
オスカーに正式な婚約者が決まる以前には、いずれクラリッサが王太子妃になるのではないかと口にする者も少なくなかった。
「公女殿下のお髪が素敵だと話していたのです」
「まあ、本当に」
クラリッサはイネスの黒髪を見る。
「西の公女殿下には、とてもよくお似合いですわ」
その呼び方に、イネスはほんのわずかに目を上げた。
「ありがとうございます」
「オスカー殿下は、昔から淡い色がお好きだと思っておりましたけれど」
そこでクラリッサは少し困ったように笑った。
「もちろん、女性のお話ではございませんわ。お召し物や、部屋の調度のお話です」
「クラリッサ様ったら」
周囲から笑い声が上がる。
「紛らわしいですわ」
「ごめんなさい。そんなつもりでは」
クラリッサはイネスへ微笑んだ。
「お気になさらないでくださいませ」
「ええ」
イネスも笑った。
昼食が始まっても、似たようなことは続いた。
料理の取り分け方や、食後に席を立つ順番。どれも正式な礼典に記されるほどのものではない。
だからこそ、知らないイネスだけが間違えた。
「あら」
「西では違いますの?」
「公女殿下は、まだいらしたばかりですもの」
「これから覚えていけばよろしいですわ」
最後には、必ずクラリッサが助け舟を出した。
「皆様、西の公女殿下を困らせてはいけませんわ」
誰よりも親切そうな顔で。
◇
さらに数日後、王妃主催の小さなお茶会が開かれた。
正式な外交行事ではなく、イネスを北の貴族令嬢たちへ馴染ませるための私的な集まりだった。
イネスが部屋へ入ると、何人かの令嬢が一瞬だけこちらを見た。
彼女が身につけていたのは、深い紺色のドレスだった。
「まあ……」
小さな声が聞こえた。
視線を追うと、部屋の奥にいる王妃もまた、濃紺のドレスを身につけている。
「西の公女殿下」
クラリッサが近づいてきた。
「何か?」
「私がお伝えしておけばよかったですわ」
「何をでしょう?」
「こうした私的なお茶会では、王妃陛下と同じ色は、皆なるべく避けますの」
「そうでしたか」
「決まりではございませんのよ。ただ、こちらでは昔からそうしておりますから」
イネスが王妃へ向き直ろうとすると、その前に王妃が口を開いた。
「気にする必要はありません」
あっさりとした声だった。
「決まりではないのでしょう?」
「はい、陛下」
クラリッサが頭を下げる。
「なら、そのままでいなさい。よく似合っていますよ、イネス殿下」
「ありがとうございます」
イネスが頭を下げた。
王妃は彼女のドレスをもう一度眺める。
「それに、あなたばかりがこちらのやり方を覚えるのでは、不公平でしょう」
「え?」
「今度はアルメリアのお茶会のことも、私たちに教えてくださいな」
イネスの表情が少し和らいだ。
「はい。喜んで」
「楽しみにしています」
王妃はそれだけ言って、次の話題へ移った。
それからは、誰もドレスの色について口にしなかった。
◇
お茶会を終え、王妃へ挨拶を済ませたあとだった。
イネスが廊下へ出ると、クラリッサたちも後ろからついてきた。
「先ほどは申し訳ございませんでした」
クラリッサが言った。
「何がでしょう?」
「ドレスのことです。私がお伝えしておけば、余計なお気遣いをさせずに済みましたのに」
「王妃陛下も気にしていらっしゃいませんでしたから」
「そうですわね」
クラリッサは微笑んだ。
「陛下は昔から、とてもお優しい方ですもの」
一人の令嬢が口を挟む。
「クラリッサ様は、王宮のことを本当によくご存じですわね」
「長く出入りしておりますもの」
「オスカー殿下のことも?」
令嬢が冗談めかして尋ねる。
「まあ」
クラリッサは困ったように目を伏せた。
「昔のお話ですわ」
イネスが彼女を見る。
「以前から、殿下とはお親しいのですね」
「幼いころから存じ上げております」
クラリッサは少しだけ寂しそうに笑った。
「王族の方ですもの。ご自分のお気持ちだけで、お相手を選べないことくらい、私もわかっております」
取り巻きの令嬢たちが黙る。
「王宮には、殿下には本来もっとお似合いの方がいらしたのでは、とおっしゃる方もおりますけれど」
クラリッサはイネスへ優しく微笑んだ。
「どうか、お気になさらないでくださいませ」
「……」
「私はもう、何も望んでおりませんから」
イネスはしばらくクラリッサを見た。
それから、静かに微笑んだ。
「お気遣い、ありがとうございます」
◇
その翌日、昼過ぎから王宮の庭で小さな集まりがあった。
王妃が育てている秋咲きの花を見るだけの、気楽なものだった。
イネスも、クラリッサたちと一緒に庭を歩いていた。
「公女殿下、こちらですわ」
一人の令嬢が声をかける。
庭の奥には、石造りの小さな露台があった。数段の階段を上がったところから、庭を見渡せるようになっている。
「この季節は、上から見るととても綺麗なのです」
「そうなのですね」
イネスは階段を上った。
後ろからクラリッサたちも続く。
「西のお庭にも、こういう花はございますの?」
「似たものはあります。でも、色が少し違います」
「まあ。見てみたいですわ」
穏やかな会話だった。
露台を一周し、階段を下りる。
そのときだった。
イネスの足が、不意に止まった。
「あっ」
ドレスの裾が、後ろへ引かれている。
振り返る余裕はなかった。
身体だけが前へ傾き、手すりへ伸ばした手も空を切る。
二段ほど滑り落ち、石の上へ片膝をついた。
「っ……」
右足首に鋭い痛みが走った。
「公女殿下!」
令嬢たちが駆け寄る。
「申し訳ございません!」
近くにいたクラリッサが、自分の靴元を見て口元へ手を当てた。
「私、裾を踏んでいたなんて全然気づかなくて……」
顔を上げたときには、クラリッサはもう、ひどく心配そうな表情をしていた。
「大丈夫です」
イネスは立ち上がろうとした。
右足へ体重をかけた途端、顔が歪む。
「痛っ……」
「イネス殿!」
大きな声が響いた。
全員が振り返る。
庭の向こうから、オスカーがこちらへ駆けてきていた。
「どこを痛めた?」
「少し足を」
「見せてみろ」
その場へしゃがみ込み、右足首を見る。
すでに少し腫れ始めていた。
「これで歩くのは駄目だな」
「医務室まででしたら」
「駄目だ」
オスカーはためらいなく、イネスの背と膝の裏へ腕を回した。
「殿下?」
身体が浮く。
「自分で歩けます」
「今、歩けなかっただろ」
「ですが」
「医者が歩いていいと言うまで駄目だ」
イネスを抱えたまま、侍従へ声を飛ばす。
「医師を頼む!」
「はい!」
そのまま医務室へ向かう。
歩き方は意外なほど慎重で、傷めた足が揺れないようにしていた。
イネスは何も言えなくなった。
◇
幸い、骨に異常はなかった。
軽い捻挫で、数日休めばよいらしい。
「ほらな。歩かなくて正解だっただろ」
「……はい」
オスカーは満足そうに頷いた。
「しばらく大人しくしてろ」
「ですが」
「何だ?」
「馬のところへ行かなければ」
「馬?」
「西から連れてきた子が、まだこちらの餌をほとんど食べないのです」
オスカーは少し考えてから、扉の外へ顔を向けた。
「ヴィクトル」
すぐにヴィクトルが入ってくる。
「はい」
「代わりに馬を見てきてくれ」
「承知しました」
「こいつなら何とかする」
オスカーはあっさり言った。
「だから、公女殿下は足を治すことだけ考えてくれ」
「ありがとうございます」
「礼なら治ってからでいい」
オスカーは笑った。
◇
その日の夕方、ヴィクトルは王宮を出て、実家へ戻っていた。
彼の生家は、代々王家に仕えてきた伯爵家だった。
表向きは国境の交易や領地を管理する古い貴族家だが、歴代の当主は王家の命を受け、国外の情報を集めてきた。
そして、この家では長男だからという理由だけで家を継ぐことはできない。
最も能力のある子が、次の当主になる。
書斎には、現当主である父のグスタフと、兄のハインリヒがいた。
「『リリア様はお元気です』」
グスタフが一通の手紙を読み上げた。
「以上だ」
ハインリヒが鼻で笑う。
「相変わらずですね」
手紙の送り主は、二人の妹ミーナだった。
ミーナは何年も前から、東に国境を接するルヴェイン王国で侍女として働いていた。
仕えているのは、リリア・エルフォードという公爵令嬢。
ルヴェイン王国の王太子セオドアの婚約者で、いずれ王太子妃となる女性だった。
本来ならミーナは、そのそばから宮廷の情報を北へ送る役目を負っている。
だが、人を騙すことも、秘密を探ることも昔から不得意だった。
「お前はどう思う」
グスタフがヴィクトルを見る。
「向いていません」
「情報収集にか」
「はい」
「お前なら?」
「別の仕事をさせます」
ヴィクトルは視線を机の上の手紙へ落とした。
ハインリヒの口元が歪む。
「殿下の側近ともなると、何でも正しいつもりか?」
ヴィクトルは手紙から目を上げなかった。
「ハインリヒ」
父の声が飛ぶ。
「お前も他人を笑っている場合ではない」
「……はい」
「この家は、長男だから継げる家ではない。忘れるな」
ハインリヒの表情が消えた。
「近く、アストリッド殿下がルヴェインへ使節として向かわれる。お前も随員として行け」
ハインリヒが顔を上げる。
「私が?」
「向こうの宮廷を、自分の目で見てこい」
短い沈黙のあと、ハインリヒは深く頭を下げた。
「必ず、成果を持ち帰ります」
書斎を出たところで、ヴィクトルは兄に呼び止められた。
「お前」
足を止める。
「当主になるつもりか」
「興味がありません」
即答だった。
ハインリヒの顔が険しくなる。
「……それが一番気に入らない」
ヴィクトルは振り返らず、そのまま廊下を歩いていった。
◇
翌朝、ヴィクトルは厩舎へ向かった。
黒い牝馬は、やはり北の飼葉へほとんど口をつけていなかった。
「西から持ってきた飼葉は残っていますか」
「まだ少しございます」
厩務員が答える。
「混ぜてください」
「どのくらいでしょう」
「最初は西のものを多めに」
ヴィクトルは飼葉桶を覗いた。
「食べるようになったら、少しずつ減らしてください」
「こちらの飼葉へ慣らしていくのですね」
「はい」
翌日は、西の飼葉を少し減らした。
その翌日は、さらに減らした。
何日か経つころには、牝馬は北の飼葉だけでも桶へ顔を入れるようになっていた。
◇
足が治ったイネスが最初に向かったのは、厩舎だった。
黒い牝馬は、飼葉桶へ顔を入れ、夢中になって干し草を食べている。
「食べてる……」
思わず声が漏れた。
「もうこちらの飼葉だけでも食べます」
振り返ると、ヴィクトルがいた。
「ヴィクトル様」
「はい」
「ありがとうございました」
「西から持ってきた飼葉を混ぜただけです」
「それでもです」
イネスは牝馬の首を撫でた。
「最初は匂いを嗅ぐだけで、まったく食べようとしなかったのに」
「最初の二日は故国のものを多くしました。その後、少しずつ減らしました」
「だから気づかなかったのね」
牝馬は二人の会話など気にも留めず、干し草を噛んでいる。
イネスはその様子を眺めて、ふっと笑った。
「この子のほうが、私よりよほど上手に北へ馴染んでしまいましたね」
「公女殿下も、十分馴染んでおられるように見えます」
イネスは牝馬の首を撫でたまま、少しだけ笑った。
「そう見えるのなら、安心しました」
ヴィクトルは飼葉桶へ視線を落とした。
「覚えることが多いでしょう」
「……ええ」
今度の返事には、少し間があった。
「思っていたより、ずっと」
ヴィクトルはそれ以上尋ねなかった。
黒い牝馬が干し草を噛む音が続く。
「毎日、何か一つは間違えるのです」
先に口を開いたのは、イネスだった。
「何を着るのか。いつ立つのか。どう振る舞うのか。勉強してきたつもりだったのですけれど」
「国が違いますから」
「ええ」
イネスは小さく息を吐いた。
「わかっているのです。でも……少し、疲れました」
口にしてから、自分でも驚いたように目を伏せた。
「申し訳ありません、こんなことを言ってしまって」
「お気になさらず」
イネスはヴィクトルを見た。
牝馬が顔を上げ、イネスの肩へ鼻先を押しつけた。
「この子を見ていると、故郷を思い出します」
その声は、先ほどより静かだった。
「向こうの厩舎にも、よく似た匂いがするのです。ここより少し湿っていて、海の匂いが混じりますけれど」
ヴィクトルは口を挟まなかった。
「弟もよく来ました。馬に乗るのはあまり上手ではないのに、私について来たがって」
懐かしそうに笑う。
「父が元気だったころは、三人で遠乗りにも行きました」
「大公殿下のご容体は」
イネスの表情が少し変わった。
「……ご存じなのですね」
「はい」
「どこまで?」
「ご病気であること。弟君がまだお若いこと。公女殿下が、もともと大公位を継ぐ予定だったことも」
イネスは少し驚いたようにヴィクトルを見たが、やがて息を吐いた。
「それなら、最初から説明しなくても済みますね」
「はい」
「父は、私がこちらへ来る少し前から悪くなりました。母はずっと父についています。弟はまだ、国を背負わせるには幼い」
牝馬のたてがみをゆっくり撫でる。
「本当なら、私が父のあとを継ぐはずでした」
ヴィクトルは口を挟まなかった。
「小さいころから、そのつもりで育てられてきたのです」
今度は、ヴィクトルが口を開いた。
「帰れるなら、帰りたいですか」
少し間が空いた。
「......父のそばにいたい。母を支えたい。弟にも、もう少し時間をあげたい」
ヴィクトルが静かに尋ねる。
「では、なぜ残るのですか」
イネスは苦笑した。
「それも、ご存じでしょう?」
「婚姻が決まった理由は」
「私がどう考えているかは知らない、と?」
「はい」
イネスはしばらく彼を見ていたが、やがて諦めたように息を吐いた。
「ヴェルガード帝国への備えです」
イネスは目線を少し下げた。
「あの国が一つになった以上、私たちだけでは何かあったときに耐えられない。北にとっても同じでしょう」
「はい」
「だから、二国が強く結びつかなければならない。どちらかが攻められれば、もう一方が助ける。その約束を確かなものにするための婚姻です」
そこでヴィクトルが尋ねた。
「必要なのは、婚姻ですか」
イネスが彼を見る。
「……どういう意味です?」
「今おっしゃったのは、互いに助ける約束です」
それ以上は続けなかった。
イネスはしばらく黙っていた。
黒い牝馬が干し草を噛む音だけが続く。
「……相互防衛そのものを、約束する?」
ヴィクトルは続きを待った。
「どちらかが帝国から侵攻を受けたら、もう一方が軍や物資を出す。直接援軍を送れなくても、反対側から軍を動かせば牽制になる」
「それで十分でしょうか」
「……いいえ」
イネスはすぐに答えた。
「婚姻には、もう一つ意味があります」
「何でしょう」
「人です」
イネスは牝馬の首を撫でた。
「私が北へ嫁げば、王家に故国を他人事にできない人間が一人できる。父や弟にとっても、北は私がいる国になる」
そこで言葉を止める。
しばらく考え込んでから、ゆっくり顔を上げた。
「でも、それは私でなくてもいいのかもしれません」
ヴィクトルは続きを待った。
「人を送り合えばいいのではないかしら」
「どのような人を?」
「官吏や軍人、貴族でもいい。一定期間、相手の国で暮らしてもらうのです。北を知る西の人間と、西を知る北の人間を増やしていく」
「軍事だけで?」
「いいえ。それでは長く続かないわ」
考えが形になってきたのか、イネスの声にも力が戻っていった。
「交易も続ける。帝国の軍が動けば、情報も共有する。緊急時にすぐ連絡できる人間も、双方に置いた方がいい」
「一人で十分でしょうか」
「いいえ。病気になることだってあります。複数いた方がいいでしょう」
ヴィクトルが小さく頷く。
「北から送る者には、帝国との国境や陸路を知る人がいい。アルメリアからは、港や海軍を知る人間を」
そこまで言って、イネスはふと黙った。
「……ずいぶん話してしまいましたね」
「はい」
「そこは否定してくださらないのね」
「事実ですので」
イネスが笑った。
「やっぱり、少し嫌な方だわ」
「よく言われます」
今度はイネスも声を立てて笑った。
やがて笑いが収まると、牝馬の鼻筋を撫でながら尋ねた。
「……オスカー様は、よろしいのでしょうか」
「何がですか」
「婚姻をしない方法を、こんなふうに考えて」
ヴィクトルは少しだけ視線を上げた。
「殿下のお考えに反することを、私が進めることはありません」
イネスが目を瞬く。
「では……」
「それ以上は、直接お尋ねください」
◇
数日後、新しい同盟案についての話し合いが行われた。
国王と王妃、オスカー、イネス、ヴィクトルが席につく。
ヴィクトルがまとめた案は、これまでの婚姻同盟よりも具体的だった。
一方が帝国から侵攻を受けた場合、もう一方は軍事的な支援を行う。直接兵を送ることが難しい場合でも、物資を送り、自国側から軍を動かして帝国を牽制する。
軍や艦隊に大きな動きがあれば、すぐに情報を共有する。双方に常設の連絡役を置き、緊急時にも連絡が途切れないようにする。
これまでの交易も続ける。
さらに、人材を定期的に送り合い、互いの国を実際に知る人間を増やしていく。
国王は資料へ目を通した。
「婚姻を条約に置き換えるだけではないのだな」
「はい」
ヴィクトルが答える。
「イネス大公女殿下からのご提案です」
国王がイネスを見る。
「あなたが?」
「はい」
「婚姻一つに頼らず、両国の関係を保つ方法を考えました」
「維持どころか」
国王はもう一度資料を見る。
「これなら、王太子と大公女の個人的な関係がどうなろうと、同盟そのものは残る」
「そう考えております」
いくつかの質問が飛んだ。
イネスは一つずつ答えた。
話が一段落すると、国王は資料を閉じた。
「先方が受け入れるなら、悪くない」
イネスは静かに頭を下げた。
◇
西から返事が届いたのは、それから間もなくのことだった。
相互防衛を含む新たな同盟を受け入れる。
交易を維持し、帝国の軍や艦隊に大きな動きがあれば、すぐに情報を共有する。
一方が侵攻を受けた場合には、もう一方が軍や物資をもって支援する。直接援軍を送ることが難しい場合でも、反対側から軍を動かし、敵の兵力を分散させる。
双方に常設の連絡役を置き、人材も定期的に送り合う。
そして、イネスの帰国を認める。
婚約は、両国の合意によって解消されることになった。
◇
その発表は、王宮で開かれた夜会の席で行われた。
大広間には、王都に滞在している主だった貴族たちが集まっていた。
音楽が止み、国王が立ち上がる。
「皆に知らせておくことがある」
ざわめきが消えた。
「王太子オスカーと、アルメリア大公国第一公女イネス殿下との婚約は、両国の合意のもと解消することとなった」
一瞬の静寂のあと、広間のあちこちで小さなざわめきが起こった。
「まあ……」
「本当に?」
「やはり難しかったのかしら」
扇の向こうで囁く声がする。
イネスにも聞こえた。
クラリッサの周囲にも、何人かの令嬢が集まっていた。
誰かが小声で何かを囁く。
クラリッサは困ったように微笑んでいたが、その頬にはわずかに色が戻っていた。
国王が続ける。
「ただし、これは両国の関係を解消するものではない」
広間が静まった。
「二国は新たに、相互防衛を含む同盟を結ぶ。交易と情報共有をこれまで以上に強化し、人材を互いの国へ送り合うことも決定した」
今度のざわめきは、先ほどとは違った。
婚約を解消するというのに、同盟そのものはむしろ強くなる。
国王がオスカーを見る。
オスカーが一歩前へ出た。
「この案を考えたのは、アルメリア大公国第一公女、イネス殿下だ」
イネスが顔を上げる。
「イネス殿は北の王太子妃にはならない」
広間中の視線が集まった。
「故国へ戻り、もともとそのために育てられてきた者として、自分の国を支えていくことになる」
オスカーは、いつものようによく通る声で続けた。
「私も、この国の王太子としてそれを支持する」
先ほどまで囁き合っていた者たちも黙った。
イネスは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「それから!」
オスカーの声が急に明るくなる。
何人かが驚いて顔を上げた。
「人材交流の第一陣も決めた!」
ヴィクトルだけが、少し離れたところでいつも通り立っている。
「クラリッサ!」
「……はい?」
突然名前を呼ばれたクラリッサが、笑顔のまま顔を上げた。
「お前に頼む!」
広間の視線が、一斉に彼女へ向いた。
「私に、でございますか?」
「ああ。アルメリアへ行ってくれ!」
クラリッサの笑みが、一瞬止まった。
「……私が?」
「イネス殿と一緒に出発すればいい」
「ですが、殿下……」
「お前、イネス殿が北へ来てから、ずいぶん面倒を見てくれただろ?」
「それは……」
「北の習慣もいろいろ教えてくれたそうじゃないか」
オスカーは嬉しそうだった。
「外国から来た人間が、何を知らなくて困るのかもよくわかってる。最初に行く人間としてはぴったりだ」
「殿下、私は――」
「それに、お前とは昔からの付き合いだしな!」
オスカーが豪快に笑った。
「子供のころなんか、いつも俺の後ろをついてきてただろ」
クラリッサの表情が固まった。
「俺にとっちゃ、妹みたいなもんだ。安心して任せられる!」
広間が静まり返った。
誰かが息を呑む音まで聞こえた。
クラリッサが、何も言えずにオスカーを見る。
「頼んだぞ!」
「……」
クラリッサは唇を開いた。
「しかし、そのような大役を私が――」
「王太子殿下直々のご指名です」
ヴィクトルが静かに口を挟んだ。
クラリッサが彼を見る。
「両国交流における最初の派遣です」
「……ええ」
「その役目を、殿下から直々に任せられた」
ヴィクトルの声には、少しも感情がない。
「大変光栄なことかと」
「それは……もちろん」
「殿下からこれほどの信頼を寄せられて、辞退なさるはずもございませんね」
クラリッサの口元が引きつった。
広間中の視線が集まっている。
ここで断れば、王太子からの信頼も、国のための名誉ある役目も拒んだことになる。
「……謹んで、お受けいたします」
「そうか!」
オスカーが嬉しそうに笑った。
「頼んだぞ!」
イネスがクラリッサを見る。
「私も心強いです」
「公女殿下……」
「北では、クラリッサ様にたくさん教えていただきましたもの」
イネスは穏やかに微笑んだ。
「今度は、アルメリアのことは何でも私にお尋ねください」
「……ありがとうございます」
「国が違えば、知らないことがあるのは当然ですもの」
クラリッサの笑顔が、引きつった。
◇
帰国の日、イネスは深い藍色の旅装を身につけていた。
長い黒髪も、北へ来てからしていた宮廷風の髪型ではなく、故国の形にまとめられている。
そばでは、あの黒い牝馬が機嫌よく地面を蹴っていた。
アストリッドも見送りに来ている。
手首には、あの銀細工の腕輪が光っていた。
「気をつけて帰りなさい」
そう言って、自身の腕輪をイネスに渡した。
「ありがとうございます」
「私は、もうすぐルヴェインへ行くわ」
アストリッドは近く、東に国境を接するルヴェイン王国を訪れることになっていた。
「では、お互い忙しくなりますね」
「そうね」
「またお会いできる日を楽しみにしていますわ」
「ええ、また会いましょう。約束よ」
少し離れたところでは、旅装姿のクラリッサが侍女たちと荷物を確認していた。
普段と変わらず美しく整えられている。
ただ、笑顔だけが少し固い。
やがて出発の時間が近づき、オスカーがイネスのところへやってきた。
「忘れ物はないか?」
「お気遣いありがとうございます」
少し間が空いた。
「殿下」
「何だ?」
「ひとつだけ、聞いてもよろしいでしょうか」
「ああ」
「どうして、私を帰そうと思われたのですか」
オスカーの笑みが少しだけ静かになった。
「私は本気であなたの妻になるつもりでした」
「ああ、知ってる」
「それなのに、なぜ」
オスカーは少し考えた。
「国を捨てられない女を、無理やり北の王太子妃にしてどうする」
イネスの目が揺れた。
「それに」
オスカーは、いつものように笑った。
「国を簡単に捨てられるような女なら、俺の妻にはしたくない」
「……勝手ですね」
「王太子だからな!」
イネスは耐えきれず笑った。
笑いながら、目元をそっと拭う。
「殿下」
「何だ?」
「ありがとうございました」
オスカーは、西へ続く道を見る。
「アルメリアを、頼んだぞ」
イネスは少し驚いた。
そして、ゆっくり頭を下げる。
「はい」
顔を上げたときには、もう迷いはなかった。
「必ず」
オスカーは満足そうに頷いた。
「じゃあ、元気でな!」
「殿下も」
イネスが馬車へ向かう。
途中で、ヴィクトルの前に立った。
「ヴィクトル様」
ヴィクトルが一歩前へ出る。
「このたびは、ありがとうございました」
一礼する。
「どうぞ、お気をつけて」
「はい」
それ以上、二人の間に言葉はなかった。
イネスが馬車へ乗り込む。
「元気でな!」
オスカーが大きく手を振る。
窓からイネスも手を振り返した。
馬車がゆっくり動き出す。
黒い牝馬も、そのそばを軽やかに歩いていった。
ヴィクトルは一行が門の向こうへ消えるのを見届けると、手にしていた書類へ視線を落とした。
数日後には、アストリッド王女のルヴェイン王国への出発が控えている。
その随員名簿の中には、兄ハインリヒの名もあった。
指先で名簿を閉じる。
次の仕事が始まる。
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