第9話 息。
「衛兵を呼んでくれ!不審者が僕の部屋にいる!」
今しがた、今日の美術展のグランプリを受賞したその人を、婚約者の待っている部屋に案内したばかりの支配人は、ぎょっとして振り返った。
廊下に人が出てきている。
「テオフィル様?…お部屋にいらっしゃるのは、婚約者殿では?」
震える声でそう聞いた。
「いや。違う」
慌てて彼のために用意された部屋に入ると、先ほど自分が案内したお嬢さんがうわごとのように…
「なんでよ?テオフィル?私よ?」
「……」
「あはは!あなたの田舎者の婚約者は今頃、酔っ払いに乱暴されてるわ!あなたは私と結婚するのよ?あなたを、あなたの才能を一番理解しているのは私よ!あなたは間違ってるのよ!気が付いて!あなたが選ぶのは私よ!」
振り返りもしないテオフィル様に向かって、その女がどんどんと声を張り上げていく。黒髪をかきむしりながら…とんでもないことを口走っている。
野次馬が見守る中、わらわらと警備のために控えていた衛兵が部屋に入ってきて、その女を拘束する。そのうちの一人がその女の話を聞いて、慌てて駆け出して行った。
「触らないで!あんたたち、タダじゃおかないから!!私を誰だと思っているの!」
騒ぎを聞きつけて、テオフィル様のご両親も駆けつけてきた。
「エヴェは?」
「ああ…祝賀会が長引きそうだったから、兄上に先に報告に行ってくると…どうしようテオ…もう1時間ぐらい前だ…。」
「馬車を、用意してもらっていいですか?」
テオフィル様がひどく低い声で私にそう言った。
***
用意された馬車に乗り込んで、御者に行き先を告げる。
エヴェの兄上の家には、エヴェと一緒に夏休みに何度かお邪魔した。
窓から明かりの漏れる、小さな一戸建てに着く。
テオフィルは自分の心臓が、聞いたこともない音を立てているのを聞いた。
ノックして開けたドアの向こうに、エヴェがソファーに座って、義姉様に腕に包帯を巻いてもらっているところだった。
「…エヴェ…」
膝から崩れ落ちそうになって、こらえる。怒りで血の気が引いていく。
「あれ?テオ?もう祝賀会終わったの?」
なんてことないように、エヴェが僕が来たことを驚いている。
いつものように髪を一本に縛って、白のシャツにカーキーのスラックス姿。
義姉様があらあら、と笑って、席を外してくれた。
「祝賀会が終わるころ着替えて戻ろうかと思ってたんだよ。急いで来たから普段着だったから。ごめんね?テオ。迎えに来てくれたのか?」
「……」
「あ、これか?」
先ほど巻いてもらっていた包帯に目をやって、エヴェが、
「ここに来る途中、酔っ払いに絡まれちゃって、片づけてたら遅くなった。今、兄上が連れて行ったから心配ないぞ?義姉上が包帯巻いてくれたけどたいしたことない。打撲だけだし」
「…エヴェ…」
にっこり笑って両手を広げて僕を抱きしめる準備をするエヴェ。
僕が駆け寄ると…いつものように抱きしめられる。キスが落ちてくる。
「あれ?テオ?いつもよりドキドキしてる。大丈夫か?先生呼ぶ?」
「…エヴェ…」
「ん?ほら、テオ、ゆっくり息をして。吸って、吐いて…」
緑色の僕の大好きな瞳が、心配そうに潤む。
僕はエヴェの匂いを吸い込む。
「…エヴェ、一緒に家に帰ろう?」
「うん。勉強はもういいのか?」
「ああ」
僕はエヴェに抱かれながら…息を、吸って、吐いて……そうやって生きていく。
「僕の絵、見た?」
「見たよ。ちょうど摘花後のりんご畑だったな。あれは毎年見てるけど綺麗だよな。足元一面に花が落とされて、お花畑みたいになるもんな」
「エヴェ…」
「ん?」
「好きだ」
「うん。だって私たち、結婚するんだもん」
子供の頃と同じ、少し照れ臭そうにエヴェが笑う。
枝に残された花は、やがて実を付ける。
今度はたわわに実ったりんご畑に立つエヴェリーナを描こう。
…僕はエヴェの胸に顔を埋めながら、そんなことを思った。




