生チョコタルト
高橋悠斗:パティシエ
甘いものが好きで、正確な数字に基づいてできるパティシエが性に合っている。
高校時代はミステリー小説にのめり込み、ちょっとした推理力を手に入れた。
その癖は、大人になっても治らなかった。
石野葵:警察官
悠斗の幼馴染で基本はチャラい
悠斗を助ける真面目なところがある。
今日も朝早くからスイーツと向き合っている。
向き合うといっても師匠が来る前に材料を測って置くだけだ。
大体、測り終わったあたりで師匠が出勤をしてくる。
そして、スイーツを作りながら毎日毎日奥さんの話と、指輪の自慢をする。
なんでも奥さんの手作りの指輪をはめているらしい。
焼くだけになれば師匠は新作スイーツの開発。
俺は焼き加減を見つつ、店を開ける準備をする。
これが毎日のルーティーンだ。
ある日、今日は珍しく1人で朝の作業をこなしていた。
理由は、今日、師匠の奥さんの誕生日だからだ。
師匠は毎年、奥さんの誕生日ケーキを手作りしている。
朝にケーキを作って置くのがお決まりだった。
それよりも今日の注文は…。
今日は生チョコタルトの注文が入っている。
チョコレートは、ほんのわずかな温度の差で、艶も口どけも変わる。
チョコレートは数字に正直だ。
31度
31.5度テンパリング用のボウルを回しながら、悠斗は温度計の目盛りを追う。
数字は裏切らないーー
それは悠斗のポリシーだった。
高校時代、ミステリー小説ばかり読んでいた頃も同じだった。犯行動機の解明が少しでも遅れれば、真実から遠ざかる。
これだから数字は面白い。
「きゃー」
新人の叫び声は、チョコレートの香りを切り裂いた。
あとは冷やすだけになったタルトを冷蔵庫に入れて奥の部屋へ向かった。小さな窓から中の様子を見ると倒れている師匠がいた。
その時少し違和感を覚えた。
それよりも師匠の安否確認が優先だ。
新人に警察を呼ぶように指示し、俺は合鍵のある場所に向かった。
いつもある場所ーーレジ横の植物の下ーーにはない。
「……あった」
更衣室のロッカーの上の小箱に、普段誰も触らないような場所に合鍵が置かれていた。
違和感を覚えつつも、まずは師匠の安否を確認するしかない。
奥の部屋に師匠がいる時は、いつも扉の前に何かを置くのが師匠の最近の癖だ。
外から鍵を開けれたとしても、中に入るのは難しい状態だった。師匠は滑って頭を打ち、倒れているように見えた。
俺は焦って扉に体当たりをした。
幸い軽い椅子だったから何回かすれば扉を開けられた。
「師匠!!」
――冷たかった。「おかしい。
なんで…なんで師匠が。」
師匠は奥さんとは仲が良く、おしどり夫婦だった。
そして師匠は、俺がどれだけ下手くそでミスをしたとしても、
「失敗は誰にでもあるさ」っと豪快に笑い飛ばしてくれる人だ。
そんな俺の恩人がーーなんでなんだ。
悔しさでいっぱいだった。
そして、警察が到着して、事情聴取をされた。
疑われてているのは明白だった。
ただ俺では絶対にない。
まだ師匠が死んだ実感がなかった。
本当は考えたくなかったのかもしれない。
だから俺は、可能性の話に逃げた。
あり得るのは新人か、自殺かーー
そんな思考がぐるぐる回っていた。
「遅れた…」
こいつは石野葵。
俺の旧友だ。
警察で公務員のくせして、てきとうなやつだ。
とりあえず事情を説明した。
「これは疑われるな。」
こいつは本当にてきとうだ。
「残念だが、犯人は俺ではない。」
「じゃあ誰なんだ?」
「可能性的には、新人か、全く関係のない人間か。はたまた自殺か。
でも、自殺はあり得ないな」
「え?なぜ断言できる?」
「ケーキ作ってる途中だったんだぞ。
死ぬ気のやつが、あんな中途半端なことするか?」
「そうかもしれない…。
なんか不審な点があるのか?」
俺は少し考えた。
俺は不審に感じたものを説明した。
「不審な点は2つ。
1つ目は、師匠の体勢。
やけに左手を庇っているように見えた。
そして今日に限って師匠が指輪をしていない。
おかしいだろ?」
「それだけでは確証がないだろ。」
「まだ説明は終わってない。
もう1つはチョコレートだ。」
「チョコレート?」
実は警察が到着する前に現場のテンパリング中の落ちたチョコレートに触れていた。
ドロドロだった。温度計の記録も70度前後を示していた。
通常なら50〜60度で溶かすはずだ。経験者であれば、ここまで温度を上げてダマにすることはありえない。作業手順と温度の矛盾。
オーナーがこんな初歩的なミスをするわけないーーはず。
いやそれだけで決めつけるのは良くないな。
「これは、俺の経験の話だ。
専門学校を卒業してるやつ、修行をしたことあるやつならこんなめっちゃくちゃなことはしない。」
「めっちゃくちゃ?なんのことだ?」
「チョコレートを溶かす温度だよ。
普通はチョコレートを溶かす温度を50〜60度に設定しておく。
でも俺が温度計を見た時の温度は70度前後だった。
暑すぎるとチョコレートはドロドロになってしまうんだ。
俺が倒れているオーナーを見つけた時、下に落ちているチョコレートはダマになっていて今も固まっていない。」
「だからなんだよ。」
「テンパリングのことも分かってないのはあの新人だけ。
少なくとも、あの新人が一番不自然だろう。」
「チョコのことは理解はした。
だが、なぜ指輪がなくなっているのが新人のせいになるのだ?」
「あの新人、師匠に奥さんがいるのを知ってて、誘惑したり、師匠の写真をめちゃくちゃにしたり。」
「嫉妬か。」
「あれは敵意があると思うぞ。」
「指輪の件はまだ納得できなくもない。
だが、チョコレートのやつは素人の泥棒が入ってきて殺した後に、何か不都合が起きてドロドロになった線も捨て切れないだろ。」
確かにそれはそうだ。
「そう…かもしれない。」
「お前は昔から、探偵ごっこ好きだったからな。
ミステリー大好き変態人間。」
「一言余計なんだよ。」
ただここで俺の無実が証明できないと困る。
どうしようか。
「まあでも、嫌がらせについては問う必要があるかな。」
ニヤニヤしやがって。
こいつのこう言うところは本当に憎めない。
「じゃあ、あとは、お前の薄気味悪い話術でなんとかしてくれ。」
「薄気味悪いって酷くない?
まあ話を聞くのも仕事のうちだからな。
行ってくるよ。」
葵は新人の方に歩いていき一瞥して、新人にため息混じりに肩を回した。「じゃあちょっとお話聞かせてね。」
葵が肩に手を置くと、新人の体がわずかに跳ねた。チョコレートの匂いに、焦げた感情が混じる。甘いはずなのに、胸の奥がざらついた。
二人が奥へ消えたあと、俺は現場に残った。倒れた師匠。乱れた椅子。床に残った、乾ききらないチョコレート。
数字は嘘をつかない。感情と違って、迷わない。
一時間後、葵が戻ってきた。いつもの軽さはなく、視線だけが静かだった。
「……あたりだ」
それだけで十分だった。
「そうか」
それ以上、聞く気はなかった。
新人は、この店に入ってからずっと師匠の左手の指輪を見ていた。見ていないふりをしながら、ずっと。
今日は誕生日。祝われる側に、自分はいない。
新人は、目を逸らしたまま黙っていた。そして、はっきりと「君はスタッフだ」と線を引かれたこと。
咄嗟に、押してしまったこと。
拒絶された瞬間、感情が先に動いた。考える前に、手が出た。結果は、床に残っている。
雑で、取り返しがつかない仕事。感情で作った菓子みたいに。
「なあ、悠斗」
葵がぽつりと言う。
「数字って、冷たいな」
「正直なだけだよ」
俺は調理室に戻り、冷蔵庫を開けた。生チョコタルトは、ちょうどいい艶を保っている。温度も、完璧だ。
今日も俺は、スイーツと向き合う。密室よりも甘く、嘘よりも苦い現実を横に置きながらーー




