追いかけてくる雨雲の不幸
窓の外は小雨で霞んで、もうすぐ梅雨が到来することを感じさせる。
窓の内側、学校の教室は、放課後で生徒達も帰宅して空っぽ、
かと思えば、一人の女子生徒がまだ残っていた。
「あーーーー、退屈!」
そう叫んだのは、高山真紀。この学校に通う女子生徒。
事情があって、今日は放課後の教室に一人で残っていた。
そこに、教室の引き戸がガラッと開けられ、一人の男が入ってきた。
「おや、高山君。まだ残っていたのかい?」
「あっ、細田先生!」
教室にやってきたのは細田譲という、この学校の先生。
真紀の学年の現代文学を担当している。
真紀は何かと細田に懐いていて、今も捨て猫のように細谷すり寄った。
「細田先生~、あたし、今日はまだ帰れなくって、退屈してたんです~。」
「ほう、そうなのか。私は忘れ物を取りに来ただけでね。では。」
「そんなこと言って、あたしを見捨てようとしないで下さい!」
「そう言われても、君の事情に私は関係が無いからね。」
「そんなことないですよ。
もしかしたら細田先生にも関係があるかも。いや、ある!」
「その心は?」
「追いかけてくる雨雲の怪談です。」
放課後の教室に一人残っていた真紀。
そこにやってきた細田に、真紀は一つの怪談を話し始めた。
真紀曰く。
「これは、この辺りで最近言われ始めた怪談なんだけど・・・。
雨雲が人を追いかけてくることがあるんだって。
雨雲に追いかけられた人は、追いつかれると当然、雨に降られる。
だから雨雲に追いつかれないように、急いで逃げるの。
すると、雨雲に先回りされて、どうしても逃げられない。
そうしていると、やがて雨に降られて、不幸が起こるんだって。
これが、追いかけてくる雨雲の怪談。」
話を聞いた細田の足が止まる。
真紀の狙い通り、してやったり。
細田は肩をすくめて真紀に尋ねた。
「なるほど、雨雲の怪談か。
それは私にも関係があるかもしれない。
何しろ天気は誰にでも関係があるからね。
ところで、その雨雲の怪談と、高山君が放課後に居残っているのと、
どう関係があるんだい?」
「そこです。
実は最近、あたしの家の近所で何件か空き巣が入ったんです。
今日はうちの両親は都合で帰りが遅くって。
一人っきりで家にいるのは物騒だから、
親が帰るまで学校に残らせて貰いなさいって。」
「つまり、高山君の家の近所の空き巣が怪談の?」
「はい、雨雲の怪談で起こった不幸だって話なんです。」
うーむ、と細田は思案する。
すると真紀はあくせくと話を追加していった。
「空き巣はうちの近所だけじゃないんです。
他にも空き巣に入られた家がいくつかあって。
みんな、雨が降った後で被害に遭ってるんです。
これは絶対、雨雲が不幸を運んできたんですよ!
先生、親が帰ってくるまで、一緒にいてくださいよ~!」
すがりつく真紀に、細田は難しい顔をしていた。
追いかけてくる雨雲の怪談。
雨雲は狙う人を決めると、先回りして、獲物を逃さない。
その雨雲に降られた人には、不幸が起こるという。
そんな話を聞いて、細田は考え込んでいた。
そして、そっと口を開いた。
「雨雲に遭うなんて、ありふれていて誰にでも起こること。
このまま放っておいたら、被害が増えるかもしれないね。」
「と、言うことは細田先生、怪談を信じてくれたんですか?」
「ははは、私はこれを怪談だとは思ってないよ。
これは事件の話なんだと思う。」
「怪談ではなくて、事件?」
「そう。これは怪談を装った、事件だ。
それを証明するために、高山君、君にいくつか聞きたいことがある。」
「は、はい。どうぞ。」
真紀はきょとんとして佇まいを正した。
細田は頷いて口を開いた。
「まず高山君は、この追いかけてくる雨雲の話を、誰から聞いたんだい?」
「追いかけてくる雨雲の怪談ですか?
えーっと、あたしはお父さんから聞きました。
お父さんは、実際に空き巣に入られた知り合いから聞いたそうです。」
「そうか。それは比較的、最近の話だね?」
「はい。ここ一ヶ月ほど、近所の飲み仲間で急に話題になったそうです。」
すると細田は、確信めいた顔で頷いた。
「なるほど、多分わかったよ。
この追いかけてくる雨雲の怪談、その仕組みと、おそらく犯人がね。」
細田は、追いかけてくる雨雲の怪談の謎が解けたという。
「細田先生、本当ですか!?」
それに対して、高山はびっくり仰天。
何故なら高山は細田に暇潰しの相手をして欲しくて話しただけだったから。
それが、怪談の説明をしただけで、
その全貌が分かったと言われるとは思ってもみなかったから。
それは細田も分かっていたので、ちょっと得意げに話し始めた。
「まず、追いかけてくる雨雲の怪談の、雨雲についてだ。
結論から言うと、この雨雲は追いかけてきているのではない。
いや、風向きなどの影響で、
いくつかは本当に追いかけてきていたのかもしれない。
でも、ほとんどの場合は、雨雲は追いかけてきてはいない。」
「じゃあ、それなのに、どこに逃げても雨雲がついてきた理由は?」
「それは雨雲がついてきたんじゃない。
雨雲が既にあったところに、人間の方がやってきたんだ。
考えてもみたまえよ。
今はもうすぐ梅雨に入ろうという季節。
雨雲なんて一つや二つどころか、あちこちにあってもおかしくない。
むしろ、梅雨の時期に雨雲が無い場所を探す方が難しい。
この怪談が最近広まったのも、梅雨が近付いてきたからだよ。
梅雨が近付いてきたことで、雨雲が増えて、
雨雲を避けるのが大変になった。
それが、この怪談を広めることになった理由の一つ。」
「怪談を広めることになった理由?
ということは、この怪談は誰かが意図的に広めたって言うんですか?」
「ああ、そうだ。
追いかけてくる雨雲の怪談は、人を雨雲から遠ざけるよう促している。
するとどうなるか?」
「えーっと、人が逃げ回るようになる?」
「半分正解。
正しくは、追いかけてくる雨雲の怪談を知っている人は、
雨雲を避けるようになるので、雨雲付近から人が減る、だ。
まあ今回は大人の間で広まった怪談なので、
怪談を信じずに雨雲を避けない人も少なくないだろう。
それでも、多少は人の行動に影響を与えるはずだ。
少なくとも、この怪談を考えた者はそう期待しただろう。
すると、雨雲が近付いてきた場所は人が少なくなって、
しかも雨が降って視界の悪い地域ができる。
空き巣や泥棒、盗人には格好の餌食だろう。」
「あっ!じゃあ細田先生は、この怪談は泥棒が流したって言うんですか?」
「断言はできないが、それ以外にこの怪談を流して得をする人は思いつかない。
高山君の家の近所で空き巣が発生し始めた時期とも合っている。
それに不自然じゃないか?
普通、怪談というのは、子供から伝わるものだ。
特にこの現代ではね。
それが、居酒屋の飲み話が発祥の怪談なんて、
誰かの意図を感じずにはいられない。
きっと人が雨を避けている中で、盗みを働こうと考えたんだろうね。
その目論見は、今のところ上手くいっている。」
細田の推理を真相だと確信した真紀は、興奮気味に口を開いた。
「それで、細田先生は、犯人は分かったんですか!?」
「流石の私でも、そこまではわからないな。
ただ、いくつか予想はつくよ。」
「犯人の予想?例えば?」
「犯人は雨の中で空き巣をしているわけだから、
多かれ少なかれ雨に濡れている者だろう。
そして犯人は怪談を流した発祥、張本人、
その人物は頻繁に居酒屋に顔を出している者だ。
お互いの素性を知られにくく、不特定多数と会話できる場所、
居酒屋はその条件を満たしている。
さらに、怪談の体裁を取ったのは、話が伝わりやすくするためと、
警察に通報されにくくするためだろうね。
怪談の相談など、警察は取り合わないだろうから。
そして雨雲を怪談に使ったのは、即効性があるから。
何せこの方法は、梅雨が終わって夏になったら使えないからね。
そしてこれは私の推測でしかないわけだが・・・」
「うんうん。」
「犯人は怪談をもっともらしく見せるために、
自分の家にも空き巣に入る、つまり自作自演をしていると思われる。
高山君、ご両親に会ったら、聞いてみたまえ。
怪談の空き巣に入られた家で、警察に被害届を出していない家はないかと。
きっと犯人は、怪談は警察には解決できないとか言い訳して、
空き巣に入られたのに警察に被害届を出していないはずだよ。
何故なら、この怪談は空き巣に入る環境を整えるためのもので、
怪談は空き巣の痕跡を消すことはできないからね。
普通に連続空き巣事件として捜査されたら、自らの悪行がバレかねない。
だから空き巣の被害に遭った人には警察に被害届を出して欲しくなくて、
なおさら怪談の体裁を取ることにした。」
細田の説明を総合すると、こうなる。
空き巣をしようとする者がいた。
その者は空き巣をしやすいように人の目を避けたかった。
なので、雨が降っているところに近付かないよう、
追いかけてくる雨雲の怪談を流した。
そうして怪談により雨が降っている地域からは人が減り、
空き巣がしやすくなった。
さらには自らも空き巣被害を装うことで、被害者に偽装し、
怪談の体裁を取ることで、
被害者が警察に被害届を出すことをためらわせた。
これが、細田の考えた、追いかけてくる雨雲の怪談の真相だった。
追いかけてくる雨雲の怪談には、企みが隠されていた。
細田の考えに、真紀も賛成だった。
「細田先生、やっぱりすごい!
あたし、暇潰しに細田先生に、
追いかけてくる雨雲の怪談を話しただけだったのに、
それだけで細田先生は怪談を解いて事件を解決しちゃった!」
すると細田は手を振って謙遜してみせた。
「いやいや、事件はまだ解決してないよ。
犯人の候補はわかったけど、まだ誰が犯人かはわかってないからね。
でもそれは、警察の仕事だろう。
この怪談の真相は、警察に話さずとも、
空き巣の痕跡から犯人にたどり着くかもしれない。」
「でも一応、お父さんに警察に相談するよう頼んでみますね。
確かお父さんのお友達に、警察の人がいたと思うので。」
「それがいい。
それと、雨が降っている地域はまだ空き巣に入られる可能性がある。
高山君、君も危険だから、今日は雨が止むまで待ってから、
私が家まで送ろう。」
「えっ、いいんですか?」
怪談の真相がわかったことよりも、
真紀は細田に送ってもらえることの方が嬉しそうだった。
それから、約束通り、真紀は両親が帰るのを待って、
細田に家に送ってもらった。
真紀は細田から告げられた怪談の真相を父親に話し、
父親から知り合いを通じて警察に話が通された。
それから間もなくして、連続空き巣事件の犯人は逮捕された。
細田の予想通り、犯人は居酒屋によく顔を出し、
自らも空き巣の被害者を装っていて、
警察に被害届を出していない人物だった。
細田の推理は、警察の捜査の役には立っていたらしい。
そんな話を、真紀の父親の知り合いを通じて聞いた。
そうして事件は解決したのだが。
「見ろ!雨雲だ!」
「追いかけられるぞ、逃げろー!」
大人が欲のために作った嘘の怪談は今、
子供たちの間で本物の怪談として広まってしまっていた。
元気よく道を駆けていく子供達を見ながら、細田は頭を掻いた。
「まいったなぁ。まさかこんなことになるなんて。
これなら、怪談の口止めをちゃんとしておくべきだったか。」
「えへへ、でも細田先生のせいじゃないですよ。
口が軽い大人達のせいです。
あっ、向こうから雨雲が!あたし達も逃げきゃ!
ほら!細田先生!」
「おいおい、高山君、そう手を引っ張らないでくれよ。」
今は真相がわかったはずの怪談に従って、真紀は細田の手を取る。
その表情は、梅雨の合間の晴れ間のように晴れ晴れとしていた。
終わり。
梅雨はまだもう少し先ですが、
まるで雨雲に追いかけられたように雨に降られた経験から、
雨雲を使った怪談を思いつきました。
実際のところ、空き巣と天気の関係はどうなのでしょう?
空き巣は人が少ない午前中の方が入りやすいと聞いたことがあるのですが。
私は、住民が留守の場合、雨の時は空き巣に入りやすいと考えました。
もしかしたら間違っているかもしれません。
お読み頂きありがとうございました。