「ひめこ」
日本国内某所の某アパート。
相当古い建物なので、家賃も安く、まだ職の見つかっていない北田のような人にはうってつけだ。
あ、北田というのはこの話の主人公である一般男性で、フルネームを「北田 いつき」という。
さて、話を戻そう。
繰り返すが、このアパートは相当古いため──いや、これは古くなくたって大体どの家でもある話だが……。
「ヤツ」が出るのだ。
かさかさと音を立てすばしっこく逃げ回る、黒くて小さい「ヤツ」が。
あえて品種を、ぱっと見で特定できる言葉を伏せて言うと、このアパートに出るのは「Periplaneta japonica」。
ちなみにこのワードでウェブ検索をかけると、当たり前だが実物の画像が出てくるので要注意。
にしても、なぜこんなことをわざわざ言ったか。読者の皆々様は気になっていることだろう。
それは、このPeriplaneta japonicaが、これから北田の人生を変えることになるからだ。
あ、ほら。北田が帰ってきた。
今日も就活はうまくいかなかったようだ。疲弊だけが溜まったのか、北田は大きく伸びをして、居間に倒れるように突っ伏す。
「ハァ~……おさけのみたい……」
疲れすぎて、語彙力が溶けている。
一つ注釈しておくと、北田は24歳。飲酒は合法な年齢だ。
そんなわけで、北田は冷蔵庫にある缶チューハイを取りに行くために、まず顔をあげる。
──その瞬間、北田は目の当たりにしてしまった。
ついに「ヤツ」と邂逅したのだ。
「わっ、わっ、%△#?%◎&@!□!?」
北田は虫が人並みに苦手なので、もちろん「ヤツ」は大の苦手だ。
言語かどうかもわからない悲鳴をあげ、北田はたまたま近くにあった殺虫剤を手に取る。
そして、薬を噴射しようとしたその時。
「待ってくださぁい!」
どこからか、少女の声が。
再び注釈すると、北田にパートナーといったそれはいない。
ならばいったい誰が? 声がした方向を振り向く。
すると、北田はとんでもない光景を目にした。
見知らぬ少女が、そこで怯えていたのだ。
少女は涙ぐんだ声で言う。
「ひめを殺さないでくださぁい……ひめは何も悪くないでおま……」
「ひめ」を名乗るその少女は発言からして、おそらく……。
「……ま、まま、まさかきみ、さっきのゴキ──」
「ほべゃあああああああ!? ちょっとあなた! それは禁句でおま!」
……どうやらNGワードだったようだ。
でも、これでほぼ確定した。
この少女は、先ほど北田が殺そうとしていた「ヤツ」だ。
でも、どうして「ヤツ」が少女の姿に? ますます謎は深まるばかりだ。
とりあえず、北田は彼女の身元を把握するためにいろいろ質問してみることにした。
「え、えと……きみは、ひめでいいのかな」
「ひめじゃないです。ひめは、ひめこってゆうんです」
「ふ、ふーん……じゃあ、ひめこ……ちゃん?」
「ひめこでよろしゅう」
「わかった。じゃあ、改めて。ひめこは、本当にあの、あの……」
「……『G』か、って?」
「あ……うん」
「そうだず。でも、ひめはただのGなんかじゃ断じてねえでげす。何を隠そうひめは、この国に元来より棲み着く誇り高き『ヤマトG』なのでおま!」
「あ、あぁ……そうなんだ」
ここまででまあまあ情報を得られたので、北田はいったん質問をやめる。
すると、ひめこが一言。
「もう疑問はねえでげすか?」
「え、えぇ?」
ひめこのちゅるちゅるした翠色の瞳は、北田の戸惑いを隠せない顔を「もっと自分を知って」と言わんばかりに見つめる。
その可愛らしくも強い圧に負け、北田は自分がひめこに一番聞きたかったことをつい口走る。
「ひめこは、どうしてうちに来たの?」
ひめこは目を真ん丸にし、それから言った。
「虫キングが『これから北田いつきと暮らせ』っちゅーからでおま」
「いや、まったく意味わかんないし何そのアーケードカードゲームみたいなのは」
「あー。虫キングのことアーケードカードゲームみたいっちゅーと、その夏の終わりは庭の土に大量のカブトムシの幼虫が湧くんだずよ」
「それはすごく困る。何せここは借間なものでね」
「しゃくまぁ? よーわからんけど、とにかくこれからひめもここに住むんで。カブトムシの幼虫パラダイスが嫌なら受け入れることでおま」
「えぇ……」
賃貸住宅で途中から同居人ができる場合には書類や費用が必要になるため、北田はとても困惑した。
彼女は「虫」なのだ。申請に必要な職業や緊急連絡先の情報、身分証・保険証のコピー、住民票なんて持ってるはずがない。
最悪ここを立ち退くことになるかもしれないが、しばらくは無許可で住まわせるしかない。
北田は腹をくくることにした。