新伯爵の最初で最大の勘違い
客として現れた青年が、リーンハルト姓を持つトリブルク村の新当主だった。その爆弾とも言える情報に、あんなに賑わっていた店内が水を打ったように静まり返っている。誰しもが料理を食べる手を止めて、窓際に立つマリアンとその隣のエマヌエルを見つめていた。
(この方が、リーンハルト家の、新しい当主様……?)
言われてみれば髪や肌の艶が庶民にしては良すぎるし、スープの食べ方も綺麗だった。服も簡素ではあるもののきちんと整えられていて、質の良い生地が使ってあることは明らかだ。
その事実を反芻しつつも、あまりに突然のことに、マリアンは呆然と呟いた。
「つまりずっと空位だったトリブルク村の新しい領主様、ということですか……?」
「そう。僕が新しい伯爵家の後継者――といっても、正統な血筋じゃなくてね。だからこそ帝国が僕を見つけるのに時間がかかって、こうして長い間トリブルク村の領主を不在にすることになってしまって。とても申し訳なかった」
エマヌエル曰く。
十数年前、先々代のリーンハルト伯爵が、視察だか訪問だかで訪れた北の地方の酒場で給仕をしていた女性と一夜の過ちを犯した。それで生まれたのがエマヌエルだったが、長いこと自分の父親が南西で村を治める伯爵の地位にあった人物だということなど知らずに過ごしていた。
しかし、エマヌエルの母もリーンハルト伯爵家の人々と同じく、2年前の流行り病で倒れ、命を落としてしまう。母と2人暮らしだったゆえに天涯孤独の身となったエマヌエルは迷った末、修道院で見習いとして過ごしていた。いわゆる婚外子だった上に、まだ正式な修道士にはなっていなかった彼は修道院の公式的な名簿に載っておらず、主に各教区の名簿を元に行われた後継者探しの調査は難航した。ところが最終的にエマヌエルの髪がリーンハルト伯爵家の特徴である青色であったことと、彼の母の指輪――これも伯爵家に伝わる品で、先々代リーンハルト伯爵が渡したものだったらしい――を持っていたことから、後継者として断定されたらしい。
エマヌエルが見つかったのが2カ月前。それから今までの間、遠縁にあたる北方の貴族の家に引き取られ、休む間もなく文学や音楽などの貴族教育や、いち領主としての帝王学を基礎からみっちりと詰め込まれていたのだそうだ。どうやら彼がやつれているのは長旅のせいだけではないらしい、とマリアンは悟った。
トリブルク村の領主が長い間不在だったことに対して「申し訳ない」とエマヌエルは言っていたが、マリアンを含めた村人たちから見れば、彼も十分に被害者だった。己の出自を知らされないまま育って、たった1人の母という家族を亡くし、苦肉の策として修道院に入って清貧な生活を送ってきたのに、突然「お前はたった1人で遠く南西の地方の森の中にあるトリブルク村でリーンハルト伯爵家を継ぐのだ」などと言われても寝耳に水というものだろう。
「2年も不在にしていたものだから屋敷には今誰もいないらしいけど、代々リーンハルトに仕えている料理人やメイドがいるから、まずは彼らを探すようにと言われたんだ。別の仕事をしているかもしれないけれど、声をかけたらきっと戻って来てくれるだろうって」
「正真正銘ひとりぼっちからのスタートって、前途多難だよねぇ」と、言葉とは裏腹に暢気な様子でぼやいているエマヌエルをよそに、村人たちの思考はマリアンのことでいっぱいになっていた。ヴァルトミュラー家の掟は有名で、村では「食に困ったらお抱え料理人ヴァルトミュラーのところへ行け」とまで言われていたからである。
「そんなわけで僕は庶民だったし、修道院でも暮らしていたから料理も一応出来るんだ。でも、さすがに屋敷に住む人の数が以前と同じくらいに戻ったら僕1人じゃ厳しいし、領主としては料理ばかりしているわけにもいかない。ごはんは体の資本だし、まずは料理人さんから探そうと思って」
ここで店中の視線が一斉にマリアンに向けられる。彼らの目は各々「マリアン様、ほら、言って!」「お前の主人が見つかったぞ」「待望のリーンハルト新伯爵だ!」と口よりも雄弁に語っている。
村人たちのその様子を見たエマヌエルが「君、もしかして何か知っているの?」と尋ねたせいでもうマリアンは後に退けなくなってしまった。
(ええい、女は度胸です!)
マリアンは頭を覆っていた帽子を外して胸元に抱え、椅子に座るエマヌエルの足元に跪いた。
「リーンハルト伯爵様、あなたをお待ち申し上げておりました。私どもヴァルトミュラー家は、伯爵家に仕える料理人の一族です」
そう告げたマリアンをエマヌエルは驚いたように見つめる。緊張でぎゅ、と目をつぶりたくなるのを我慢して、マリアンは彼の視線に耐えていた。
「……本当に?」
「はい。歴代リーンハルト伯爵に誓って」
エマヌエルはその言葉に顔を綻ばせて喜んだ。
「本当!? この村に来て初めて話した君が、僕の尋ね人の1人だったなんて! まるで童話みたいに運命的だ。ねぇねぇ、君の名前は?」
その明るい声色に、マリアンはほっと胸を撫でおろした。どうやら、自分が仕える主は随分と朗らかで人の良い青年らしい。どんな新伯爵が来たとしても――たとえ熊のようにいかつい人でも、氷のように冷たい人だとしても――真摯に料理をするつもりだったが、主人が親しみやすい人であればむやみに緊張することがないのは良いことだ。
「マリアンとお呼びください。ここでは私のことをみなそう呼びます」
「マリアン! 良い名前だね。嬉しいな~、今日から毎日マリアンのごはんが食べられるなんて!」
「そんな……恐縮です」
「謙遜しないでよ! 君のごはんは本当に美味しかったんだ。実は急に貴族としての教育を詰め込まれてこの村に行けと言われて、ちょっと憂鬱だったんだけど……これからが楽しみになってきたな。なんといっても、料理上手な同性の友人との森暮らし! 楽しくないわけがないよね」
その言葉を聞いたマリアンはぴしりと固まった。会ったばかりで伯爵と料理人という立場なのに「友人」と言われたことにもドキリとしたが、問題は更に前の言葉である。村の娘たちは口元を押さえて「まぁ」と呟き、村の男たちはため息をついて頭を抱えた。
おまけに厨房で聞き耳を立てていたエアハルトは皿を取り落としかけ、すんでのところでキャッチするとそのまま口元を押さえてうずくまってしまった。その肩は砂利道を進む馬車のごとく小刻みに、そして激しく揺れている。無論、笑っているのである。
静かに大笑いしているエアハルトを視界の端に見つけたマリアンは、密かに(人の不幸を笑うなと後で叱りましょう)と決めた。そして、キラキラした瞳でこちらを見ているエマヌエルを窺うようにしてそっと口を開く。
「……あの、リーンハルト伯爵様」
「伯爵だなんてなんかもぞもぞするな。見たところ年も近いみたいだし、エマヌエルでいいよ?」
「え、エマヌエル、様」
「様も何だかしっくりこないけど……まぁいいや。なあに、マリアン?」
「エマヌエル様、その、私は『同性の友人』ではなくて。いえ、『友人』という部分にもエマヌエル様と私の身分では問題があるのですが……その前に、私の本名はマリアンネ・エーファ・ヴァルトミュラーと申しまして」
「……ん?」
「つまり、ですね。たいへん申し訳ありませんが、私は女ですので、『同性の友人』にはなれないのです……」
エマヌエルがその言葉に目を見開いた次の瞬間、村中に彼の驚きの悲鳴という大音声が響き渡ったのであった。