出会いのきのこスープ
トリブルク村で最も美しい若者は誰か?
この問いに少女たちはみなこう答えるだろう。「マリアン様です」と。
それでは、トリブルク村で最も腕の良い料理人は誰か?
この問いに村人たちはやはりこう答えるだろう。「マリアンに決まっている」と。
マリアンネ・エーファ・ヴァルトミュラー。それが件の若者の本名である。
名前の通り、マリアンは紛れもない女性である。それなのにどうして「マリアン」という男性名で呼ばれているのか。
「マリアン様、今日も村のどの男にだって負けないくらい素敵よね……」
「真っ白なシェフコートに空色のスカーフ! 清潔感あふれる服装がまた良いんだよね~」
「街に修業にお行きになると聞いた時はあんなに可憐なのに本当に大丈夫なのかとみな心配していたけれど……まさかあんなにかっこよくなって帰っていらっしゃるなんて。びっくりだわ!」
マリアンの働く店の窓を覗く複数の影。その正体である娘たちの恰好は、繊細なレースで縁どられた白ブラウスにクロスグリ色のベスト、それからこの森の樹々のような深緑のエプロンスカートで統一されている。特徴的なのは、藁で出来た黄色いシルクハット。これがこのトリブルク村の女性の伝統衣装である。
一方、刃物の手入れをしているマリアンの恰好は彼女たちの噂の通り。しかも女性の料理人は、この村と言わずこの国のどこにおいても珍しい。確かに家庭料理は主に女性が作っているが、大人数分の料理をするとなれば、かなりの力が必要になるため男でないと難しいからである。
さらにマリアンの容貌も人目を惹いた。少女たちは長く伸ばした髪を結い上げて帽子に隠しているが、マリアンは肩ほどの長さで切り揃えた金髪を料理の邪魔にならないように後ろで1つに結んでいる。前髪の隙間から覗く瞳は、藤のような、すみれのような、淡い紫色。
個々の色はさほど珍しくないものの、金の髪に紫の目という組み合わせは珍しく、この村に伝わる童話にちなんだ「妖精のような佇まい」だと評された。
「……あ! ふふ、可愛いお客さまたちだ」
視線に気付いたマリアンがさっと窓の方を振り返って話しかけようとすると、少女たちは「きゃあ!」と黄色い声をあげてどこかに行ってしまう。逃げていくたくさんのシルクハットを視線で追いかけた彼女は悲しげに眉を下げ、ため息をついた。
「あぁ、また逃げられてしまいました……私が村に帰ってきてからずっとです。何か怖がらせるようなことでもしてしまったのでしょうか。昔はあんなに仲良くしてくれたのに……」
「……おいマリアン、お前、それ本気で言ってるのか?」
「エアハルト。私が今までに嘘をついたことがありますか?」
質問を質問で返された青年、エアハルト・ヴィンターは採れたて野菜のチェックをしながら暫し考えを巡らせた。そして渋い顔で静かに「……ない」と呟く。
このレストラン――というほど大きくもない料理屋「サン・スーシィ(隣国の言葉で『憂いなし』)」は、しかしそこそこ繁盛している。トリブルク村は観光を売りにしており、各地から観光客が毎日たくさん訪れるからだ。
加えて、柔和な麗人のマリアンと、口は悪いが美青年のエアハルトがいるとなれば、噂好きのご婦人方の客足も伸びるというものである。
「サン・スーシィ」は元々エアハルトの父親が開いた店だったが、彼は腰を悪くして引退、そして今はエアハルトが2代目として店長を務めている。エアハルトはマリアンの幼馴染であり、親友であり、そして雇い主でもあるのだ。
一方でマリアンはというと、ずっと「サン・スーシィ」で働いているわけではなかった。ヴァルトミュラー家において最初に生まれた子ども――男女関係なく、いちばん上の子ども――は代々、帝国の辺境という重要な地であるこのトリブルク村の領主、リーンハルト伯爵家に料理人として仕えることになっていたのだ。しかしながら、2年前の流行り病でリーンハルト家は全滅。今は後継を探しているところで、隣村を治める子爵が代わりを務めていた。後継者が見つかり、領主邸に人が戻れば、すぐにでもそちらに移らなくてはならない。「サン・スーシィ」での雇用契約は、条件付きなのである。
とはいえ、後継者探しは難航しているらしい。隣国と70kmも離れていないこの土地は、代々リーンハルト家が守ってきた。我こそを後継にと名乗り出るものは少なくないが、その重要性から能力の知れない者を領主に据えるわけにも、リーンハルト家の遺産を相続させるわけにもいかなかった。それではと、先々代の落とし胤だというリーンハルト家の血筋の者を探しているらしいが、そちらも状況は思わしくないようだ。
「リーンハルトの次期伯爵様、まだ見つからないのでしょうか……」
「庭師のじいさんが時々様子を見に行ってるが、人が使わないから屋敷は埃が溜まる一方なんだとよ。国もいるかいないか分からないようなヤツをいつまで探してるつもりなんだろうな」
「こら、お目にかかったことがないとはいえ、私のご主人様を悪く言うのはいくらエアハルトでも許しませんよ。……早く後継者が来てほしいと思うのは、そうですが」
研いだ果物ナイフの具合を確認しながらどこか遠いところを見ているマリアンに、エアハルトはむっとした顔で尋ねた。
「『サン・スーシィ』で働くのは不満か? こんなところより、会ったこともねぇ伯爵サマに仕える方が良いってのかよ」
「そんなことは言っていないじゃないですか。ここでの毎日はとても勉強になりますし、観光にいらっしゃる皆さんのお話を聞くのも楽しいです。……ただ、16になったらリーンハルト伯爵家の料理人になるというのは、幼い頃から聞かされ続けてきた話でしたから……」
マリアンは今年18になる。16になった2年前にリーンハルト家が病で壊滅してしまったため、屋敷で料理人として働いたことは一度もない。しかし、もし次のリーンハルト伯爵がやって来るのであれば、そちらに仕えるのが自分の役目であるとも感じていた。
「じゃあもし、次に来るのがリーンハルトの血を引いていない、全然知らない貴族だったら?」
「うーん。その時はちょっと考えなくてはいけませんね、私たち一家に伝わっているのは、『第一子がリーンハルト家の料理人になれ』ということだけですし」
「……だったら、ずっとうちで働けるのにな……」
ナイフを戸棚にしまったマリアンは、扉を閉める音とエアハルトの呟きが重なってしまい、彼の声をよく聞き取れなかった。
「え? エアハルト、今なんと?」
「いーや、何でもねぇよ。マリアンは案外頑固だなって思っただけ」
「……エアハルト、どうもあなたは他人をおちょくるクセが抜けないらしいですね。私だから良いものの、片思いの娘さんにでも同じことをやってみなさい。見るまでもなく一発玉砕ですよ」
それを聞いたエアハルトは、みるみるうちに渋面になった。
「……マリアンのばーか」
「geöffnet」の札を下げに外に出て行った鈍感マリアンの背中に向かって、エアハルトはそう愚痴をこぼすのだった。
***
「よし! 今日も一日、頑張りましょう!」
一方、無事に扉へ札を掛けたマリアンは、鼻歌混じりに鉢植えへ水をやっていた。鮮やかな花々は、トリブルク村伝統のおもちゃのような木組みの建物に彩りを添えている。
「風が少し冷たくなってきました……冬も近いですねぇ」
一通り作業を終えたマリアンが厨房に戻ろうとすると、くいくいと袖を引っ張られた。
「え?」
「あの、すみません。ここって料理屋さんで合ってます?」
振り返れば、旅装の青年が困り顔で立っていた。薄く青みがかった髪の半分をゆるく後頭部で結び、残りはそのまま流している。あまりに陽に当たっていないらしく、肌は雪花石膏のように白く透き通っていた。肩幅の広さと声の低さがなければ、マリアンも背の高い女性だと判断していたかもしれないほど中性的だ。
マリアンが彼を眺めた一瞬の間に、ぐぅ、という腹の音が聞こえた。無論、恥ずかしそうに頬を掻いている目の前の青年のものである。
「ええ、料理店『サン・スーシィ』です。よろしければお立ち寄りになりませんか?」
「ぜひ! 本当に助かりました。長いこと移動続きで、すっかり腹ぺこなんです」
本日のお客さま第1号の青年はそう言ってもう一度ぐぅ、と鳴った腹をさすった。
青年を伴って扉を開けば、カランと軽やかな鈴の音が鳴る。
「エアハルト! 1名様です」
「えっ、もう!? ……りょうかーい」
まだ10時を少し過ぎたところで、いつもならマリアンとエアハルトは2人暇をしている時分である。入り口からは見えない厨房ですっかりだらけていたエアハルトは、客だと聞いて服装を整え、調理の準備を始めていた。
窓際の席に着いた青年は、メニューを暫く眺めて再び先ほどのように困った顔をした。うーん、と首を傾げる仕草が可愛らしい。
「実はここに来たのは初めてで、この辺りの料理をよく知らないんです。おすすめはありますか?」
「おや、そうなのですね! 歓迎します。ええと……そうですね……お客さま、好きな食材などは?」
そう尋ねたマリアンに、青年は身を乗り出すようにして答えた。
「きのこ! ……です!!」
マリアンはそれを聞いてみるみるうちに満面の笑みになる。
「承知しました、少々お待ちください!」
そのままスキップするように厨房に滑り込んだ彼女は、エアハルトに向かって「私がやります!」と短く告げた。
「……ってことは、きのこ料理か!?」
「ええ! ピンポイントできのこが好きだというお客さまは初めてです……張り切ってやらなくては!」
マリアンの目つきが完全に変わっている。さながら、獲物を狙う狩人のようだ。
そう、彼女、マリアンネ・エーファ・ヴァルトミュラーは、きのこをこよなく愛し、きのこに愛された(?)、きのこ料理を大得意とする料理人だった。
帝国有数の深い森の中にあるこのトリブルク村の人々は、山の恵みの恩恵を受け、それを美味しい料理にするのを日々の楽しみにしている。
しかしその中でもトップクラスの風変りが、このマリアンだった。幼い頃からとにかくきのこというきのこに目がなく、きのこ採りの名人と呼ばれる老婦人について行っては見分け方を教えてもらうという生活を繰り返していたため、同年代の少年少女の中で最も早く1人できのこ採りに行けるようになり、今となっては村の誰よりも正確にきのこの同定が出来るという、ある種「きのこ狂い」といっても良いほどの執念を持っていた。
「この季節となればやはり……『杏茸』ですね!」
杏茸。それはこの帝国において、春の白アスパラと並ぶ季節の風物詩である。夏から秋にかけて採れるこのきのこは、とにかく美味。その名の通り、杏のような甘い香りと、歯ごたえが魅力のきのこだ。肉類との相性も抜群で、驚くべきことに、時にはアイスやシャーベットとして供されることもある。
「まずはこのぴかぴかの杏茸を洗います! エアハルトも手伝ってください」
「あ!? ……ったく、しょうがねぇな」
きのこは洗わないのが普通だが、山の中で採ったこの杏茸には泥もついているため、軽く綺麗にしてから一口大に切る。そして朝から村の肉屋に届けてもらった新鮮なベーコンと玉ねぎを切り、強火で炒めてから杏茸を加える。水を入れて、塩を振り赤ワインを混ぜて今度は弱火で煮る。
「さて、鍋を煮込んでいる間にきのこの残りで別の料理を作りますよ!」
遥か北東で帝国と接する別の国から仕入れたエダムチーズを切り、杏茸やマヨネーズ、塩、砂糖などとあえてチーズサラダにした。そのまま腹ぺこ青年のテーブルに持っていけば、料理を映した彼の瞳がとろけ、ついでにもう一度腹の音が鳴る。
厨房に戻れば、スイッチの入ったマリアンに振り回されたエアハルトの不機嫌が最高潮に達していた。
「おいマリアン、鍋代われ!」
「もちろんです! さて、そろそろ良い具合ですね」
更に水とコーンスターチを混ぜ、鍋に加えて沸騰するのを待つ。それから再び塩で最終的な味を整えた。
「できました! グルメさんのための杏茸のスープです!!」
チーズサラダを既に平らげた青年は、マリアンが湯気をあげる皿を持ってくるのに気づいて顔を明るくした。
「待ってました! わ、美味しそう~!!」
「召し上がれ」
マリアンが声をかけると同時に、青年のスプーンが皿に伸びる。スープをひと匙すくい口元に運んだ青年は、鼻腔をくすぐる杏のような香りと口の中に広がるコクのある風味に「ん~!」と声をあげた。
「最高に美味しい! 『空腹は最高の料理人』とは言うけど、それだけじゃない。こんなに美味しい杏茸のスープ、初めて食べたよ。君は本当に腕の良い料理人なんだね!」
褒められたマリアンは、謙遜しながらも「ありがとうございます」と礼を述べた。正直、自分の作ったきのこ料理をこんなに嬉しそうに食べてもらえて、既に気持ちがいっぱいだった。
あっという間にスープを平らげてしまった青年は、思いもよらぬことをマリアンに尋ねた。
「ところで料理人さん、リーンハルト邸ってどこにあるか分かる?」
「リーンハルト邸、ですか? ええ、もちろん。ですが、今、あそこには誰も……」
「あぁ良かった! 途中まで馬車に乗って来たんですが、故障してしまって。あいにく乗り換えの馬車も見つからず、そう遠くはないというので歩いてここまで来たんです。まったく、赴任初日だというのについてないですよねぇ」
「……赴任初日?」
マリアンが首を傾げると、青年は服装を正した。既に昼時に差し掛かって客が増えてきた店内の注目は、突然かしこまった彼に集まる。なんだなんだ、プロポーズでもやるのかと他人事らしくみんなわいわい騒いでいた。
そんな中、青年は静かにとんでもないことをマリアンに告げる。
「申し遅れたね。僕はエマヌエル・フォン・リーンハルト……リーンハルト伯爵家の、新しい当主です」