極夜の空 無辺解釈(Alea iacta est.)8
8
ずっと漫才をするのもあれなので、それから俺はランニングに出た。
仕事前に体を動かしていないと怪我の可能性もある。人から外れた魔術師でなければ、人を越えた超越者でもなく、人を捨てた観測者でもない、あくまで人殺しの俺である、準備は入念に行わなければいけない。
そう、仕事。レイからの魔術師殺しの依頼、それは今日中でなければいけないらしく、俺は午後には魔術師の潜む拠点を襲撃する予定だった。
なんでそんな勇み足で、とレイに聞いたところ、
「この魔術師は最近暴れてる中でも別格で厄介でな、なにせ放埓を尽くす異形人間の九割はコイツによって生み出されて、放たれたのだ。こいつは魔術という名の異常な力を喧伝し、魔術を欲した者達、誘蛾灯に集まった蛾の如く集まった人々を恐ろしくも実験体にしている。ある程度の時期までは魔術行使が可能となるが、その果てに何が待ち受けているかを知らせずにな。それだけではなく、普通に人を誘拐して実験に使っているのも確認された。早々に仕留める必要がある」ということだった。
危険な魔術を用いることで一時的に魔術行使は可能となるが、しかし半端者にその力を扱い切れるわけもない。代償として人間は異形と化す、だったか。
しかし件の魔術師の周りには外に放たれていない、番犬として放たれた相当数の怪物もいると予想されるわけだが。
「そこは私に任せろ。私の“爆撃”は雑魚散らしにはちょうどいい。いや強い相手に弱い訳ではないが。難点は死体も残らない程に高威力だということくらいだ。お前は魔術師を狩りにいってくれ。もちろん一人で、だ。私は連中を蹴散らした後、異形化が進んでいない者の救助、治療に向かわねばならん。自分から実験に臨んだ者だろうと異形化は知らされていないはずだし、誘拐された者に関しては言うに及ばずだ」
治療まで出来んのかよ、どんだけだ。
魔術師がそこまで出来るなら今回の標的に致命傷を与えても、たいした意味ないんじゃねえのか?それこそ殺さなきゃ。
「そうでもない。痛みで集中が保たん、まともな治療など出来んよ。精々が傷口を塞ぐ程度だ。たとえば殺し合いになれた者、宗弥、お前のような人殺しならばそうした状況でも平静を保てるのだろうが、魔術師は往々にして痛みに、殺し合いに不慣れだ」
あんな派手に爆撃きめといてよく言うぜ。
「私は軍部の魔術師で、戦闘専門だ。実行部隊だ。私みたいなのは例外なのだよ。魔術師は己が魔術を極めようと、より高みに辿り着こうとする仙人のような連中ばかりだ。戦うことなど、そもそも考えている方が少ないだろう」
そんな連中だからこそ、常に変な奴は存在するってことか。
「そうなる。執念が捻じれ、間違った方向に思考が極まり、そして今回のようにそれが幾つも、まるで狙い撃ったかのように同時多発的に出てくると、ここまでの事態に繋がってしまう。魔術師はなまじ力を持ってしまっているのが辛いな」
同時多発的。
それは、はたして偶然と呼べるのだろうか。
今までにもレイは、こうした暴走を水際で食い止めてきたのだろう。
彼女以前の軍部の魔術師も、きっとそうしてきたのだろう。だからこそ世界は一定の秩序を保ち続けてきたのだろうから。
だがそうした過去の事例を超える程の騒動が起きてしまっている。
それも俺が今いるブラスクで。シベリアで、そしてロシアで。
レイはそれについて「狙い撃ったかのように」と表現したことからも分かるように何らかの、もしくは何者かによる意図からだと考えているようだった。
ヴァルデはこんなことが起きているのは、この国だけと言っていた。
ブラスクが、シベリアが、ロシアが、魔術師の標的にされている?
いったい、なんのために。
「ま、分かりっこねえんだがな。材料が少なすぎるぜ」
俺は走りながら、そう呟く。
なんとなしに今までのあれやこれを回想していたが、まあ当然の帰着ともいうべきか、分かる事なんて何もなかった。
ただ何も分からなくても確認は大事だ、それを意識に留めておくことは。
俺はブラスクの街を走る。途中ロッキーのロードワークよろしく見知らぬ店主から飲み物を受け取り(映画と違うのは俺が店主に銃を突きつけて脅したことくらいだ)、それを即座に飲み干して、ぽいっと捨てる。
こんな普通に走っていても、殆ど無心であっても思考は止まらないのだから、俺は暇嫌いにも程があるというものだ。
というか、一年ほどブラスクにいる俺だが、別にこの場所に執着も愛着もあるわけでもないし、ここがどうなろうとも、ロシアが魔術師に狙われようとも、はっきりいって知ったことではないので、ヴァルデの提案を呑んだ方がよかったかもしれない。今更だが、しかしヴァルデはそう言われればすぐさま応じてくれるはずだ。
ただ執着はなくとも居心地の良さはある。人を殺しても何とも思われないというのは、人殺しとしては気が楽なのだった。
このブラスクに法と呼べるものはない。組織内でのルールによる処罰や単純な復讐はあるが、それだって私刑の域を出ないものだ。
それ故に俺に依頼は常に舞い込んでくる。
人殺しの依頼が、毎日欠かさずに。
まあそうはいっても元々が定住地などない根無し草の俺である、そう遠くない内にブラスクを出ていくのは確定事項であり、シベリアどころかロシアからも出ていくつもりである。ヴァルデに言われるまでもない。ただそれが早いか遅いかの違いだけで。具体的には西の方に行って、適当に欧州の国を巡ってみようかと思っている。
その頃には魔術関連の知見も幾分か得られているだろうし、こことは違った楽しみがあるだろう。国が違えば、考え方も違う。それは魔術師だって例外ではないはずだから。
もっとも、その時まで俺が生きていられたらの話だが。
直近でいうなら、魔術師相手としては初陣となるこの仕事で躓かなければの話だが。
それから俺は更に三十分ほどペースを上げて走り、公園で一休みしてから帰宅の途についた。少し疲れはしたが、悪くない。コンディションが上がったのが分かる。
いつもなら食事前に更に一時間ほど筋トレをするのだが、仕事の前にそれだけの負荷は掛けられない。これ以上疲れたら戦闘に僅かばかりの差支えが出る。
家のドアノブに手を掛ける。
掛けただけだ。俺はそのまま硬直した。家の中から聞こえたその怒声に俺はたじろぎこそせずとも、慎重になるべきだと判断した。
「今日初めて出会ったばかりのお前に何が分かる!」
それは考えるまでもない、レイの声だった。声色には明らかな怒気を含んでいる。
烈陽がウルトラCでも決めない限り(それは決して少なくないが)、俺の家にはヴァルデしかいないはず。つまり怒声はヴァルデに向けられたものと思われる。
なんだか修羅場らしい。
俺はこの後、家で食事を取って休憩を取り、そしてそれからレイと合流し、仕事に赴く算段だった。しかしながらレイはブラスクの地理は詳しくない、なので近くのホテルに泊まっているとのことだったが、どうやら仕事前に軽く顔見せしにきたところ、ヴァルデと鉢合わせした、というところだろうか。
いやヴァルデのことだ、もしかしたら自分から家に招待した可能性すらある。俺を魔術の世界に招いた一因であるレイに対して、彼女は一言以上に文句があるはずだから。
家族だから。
俺の事は誰よりも思っている。大切に思ってくれている。
だから俺の身をおびやかしかねない存在であるレイを、まず間違いなくヴァルデは殺したい程に憎んでいる。それは今朝の怒りの表情から見ても明らかだった。
レイの場所を掴むのに苦労はしないだろう。
千里眼のヴァルデに分からないことなど存在しない。
俺は家の扉をゆっくりと開け、音を立てないために微妙に扉が空いた状態のまま家に上がる。
音源から察するに、どうやら居間で二人は話しているようだった。
俺は耳を近づける。怒っているらしいレイはともかく、常のごとくヴァルデは俺のことに気付いているだろうが、何か言ってくる風ではなかった。
「分かるに決まっているでしょう。私は貴女のような単眼便所女とは違って、ちゃんと両の目が付いているのです。養豚場で暮らす豚のごとき貴女に広い世界は分からないでしょうが、人間の世界というものはかくも広いものなのです。私の役割は観測であって裁断ではないのですが、それでも一個人としての意見として、貴女の考えはくだらなすぎて吐き気がします」
一応言っておくとヴァルデである。俺じゃない、ヴァルデの台詞である。口は悪いし、性格もかなりキツイ。
別に俺といる時に仮面を被っているわけではない。怒られることも珍しくないし、口調が悪い時も多い。ただ俺に対しては愛情があるのに対し、レイへのそれは純然たる敵意しかなかった。
便所女とか豚のごときとか、やばいにもほどがある。
この時点で戦闘が勃発していないのが奇跡に近かった。
家をぶっ壊すのだけは勘弁してくれよな。
「・・・」
俺を常のごとく読み取ったのか、ヴァルデは一瞬押し黙る。自分に不都合があると黙るのが彼女の癖だった。流石に言い過ぎたと考えたかもしれない。
いや俺に対しての気恥ずかしさはあっても、そんな風には思わないか。
ヴァルトルーデ・ビッケンバーグ。千里眼のヴァルデ。その嫌らしい戦い方から烈陽にすら畏怖を持って恐れられる彼女。
俺よりも面倒で、烈陽以上に苛烈なその性格は、すこぶる凶悪なものがあった。
「貴女の愚策をみるに貴女はこれが個人のものであって、かなり程度の低いものと捉えているみたいですが、そこがまずおかしい。故に視野が狭いと評するのです。何故これが大局に影響を及ぶと考えられないのか。私であればその矮小な思考に絶望し、自殺してしまいますね。宗弥様に害が及ぶ前に早く死んでくれませんかね」
「ふん、結局はそこに行き着く訳か。保護者様は優しいね、ホント。しかし私に死んでほしいなら、お前が私を殺せばいいんじゃないか?私が死んでも、宗弥の奴も特に思わないだろう。もっとも明らかに魔術師ではないお前に私を殺せるとは思えんがな。私の心を読み取れる程度で埋められる差ではないだろう」
修羅場どころか殺し合いの雰囲気すら出てきていた。レイもレイでヴァルデの物言いが頭にきているらしく、刺々しい口調に変わっている。
ヤバい感じだが、しかし俺は行動を起こさない。ヴァルデの言を読み取る限り、ここで殺し合いはないと判断した。が、
「残念ながら私にも色々制約があります。飼育された虫を殺すのは、その観測者としてあるまじき事ですから。けれど虫の反応をみるために刺激することは観測者の理念に反してはいません。まあつまり・・・クソガキに二度と舐めた口調を利かせない程度には痛めつけられるわけで」
それはレイに向けた言葉であると同時に俺に対してのそれでもあった。「宗弥様、私がこんなガキ相手に日和るわけがないでしょう」と聞こえてくる気がする。プライドかなり高いんだよな、こいつ。
と、椅子の動く音から察するにヴァルデは立ち上がったようだった。
おいおいおい、勘弁してくれ。
「貴女の自己陶酔を否定する気はありません。私はその果てで貴女がどうなろうとも、その果てに貴女がどうであろうと、最終的な観測は変わらないと判断しました。そう結論づけました。だから、貴女の行動に意味なんてないんですよ」
間違いなく本来は喋ってはいけないことまで口にしている、いよいよ感情が剥き出しになってきていた。
わかりにくいが、彼女の生まれであるドイツの訛りも言葉に乗っている。
「宗弥様は復讐なんかどうでもいい、好きにすればいいと言いました。あるいは好きにすると。貴女は復讐なんか正しいことだと錯覚するものだと、そう言った。だけど私は、それはやっぱり肯定されるべきじゃないし、正しいことだと錯覚することでもないと断言しましょう」
そしてヴァルデは会話を決定的に終わらせるその一言を告げる。
「レイナルン・アスティバイヌス。さきほども言いましたが結果は変わらないんですよ。これから、どうなろうと。だから」
「だから、人様に迷惑掛けないうちに、さっさと自殺を勧めます。復讐は否定も肯定する価値のないゴミなんですから、それを果たしても、そうでなくとも、貴女が為すこと全てに意味なんてないんですから。貴女の行動で救われる命なんて、ないんですよ」
俺には何を言っているか分からなかった。さっぱり分からなかった。というか、俺はこの一連の会話の意味すらまるで理解していない。
この会話を通じてヴァルデが俺に何を伝えようとしているのか、分からない。
きっと意味はあるのだろうけど、少なくとも今の俺には。
だけど、これ以上はまずいと判断した。何がまずいかは分からないが、直感的に俺はそう判断した。
多分それは当たっていたのだと思う。何故なら俺が扉を開いて、部屋にあくまで自然に入った瞬間、そこではレイが光を手に集中させ、放つ瞬間だったのだから。
「!?」
放つ瞬間、である。車は急には止まれない。放たれたものが突然止まることはない。レイは光弾を放つが、しかし俺が都合よく、いや明らかに都合悪く部屋に入ってきたので驚いたのだろう、おそらくはヴァルデを狙っていただろう光弾は大きく逸れた。
そして驚いた彼女は、まあ当然ながらこちらの方を向いていた。
となると、向かってくる先は一つしかないわけだった。
「殺す気か!」
俺はイナバウアーともかくやといわれるレベルで体を反って、首の皮一枚でなんとか避ける。上体逸らしなんて久々にやったぞ。ナジーム・ハメドにでもなった気分だ。
背後では爆音が聞こえる。爆風で小物が俺の前に転がる。異形人間相手の時にも思ったが、確実に即死級の威力である。
「いや俺じゃないけれど、殺す気だったんだろうけどよ・・・」
「お帰りなさいませ、宗弥様」
ヴァルデは居住まいを直し、小さく礼をした。
まるで何事も無かったように、ただお茶を嗜んでいただけとでも言いたげに。
対するレイはといえば、咄嗟にそんな割り切りできるわけもなく、険しい目つきのままだった。ただ数秒も経てば、ある程度の状況は理解できたらしく「あ・・・」と気まずそうに目を逸らした(後に聞いたところによると爆撃はあくまで威嚇程度に放とうとしたらしく、ヴァルデと直接やり合う気はなかったらしい)。
俺は背後をみやる。爆発で居間と衣装部屋が見事に繋がっていた。というか衣装部屋の服も爆発でその殆どが跡形もなくなっていた。
そして改めて周囲を見渡す。どうやら俺が来る前にもひと悶着あったらしく、小物だけではなく雑貨類があちこちに散乱している。部屋の隅にはひしゃげた鉄製の何か・・・置いてあったテレビがないことから、どうやら無残にもぺしゃんこにされたらしい。レイは肉体派にはみえないし、まずヴァルデの仕業とみていいだろう。
そんな凄惨な自宅にして隠れ家の状況をようやく理解し、そして一言。
「くだらねえ・・・」
俺は溜息交じりにそう呟いた。
元ネタ解説 ナジーム・ハメドは90年代のボクサーであり、非常に特殊なボクシングスタイルで連勝を積み重ねました。