極夜の空 無辺解釈(Alea iacta est.)2
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一九九六年、シベリア。
アルマ・アタ宣言の後、ソ連は崩壊した。その折には軍事も縮小され、軍需工場のおかげで何とか保っていたシベリア経済は大打撃を受けていた。
人口は減り、閑散とした街並みが広がる。
都市に残されたのは、状況から抜け出せない貧乏人ばかりだった。シベリア生まれの者も、こぞってモスクワやサンクトペテルブルクといった大都市に去っていった。ロシアの植民地となってから三世紀以上が経過している。純粋な血筋でのシベリア人は希少種であり、彼らの帰属意識は乏しかった。
しかしそんな都市の中でも一際賑やかで、目立つ都市があった。目立つといっても、それは悪目立ちなのだが、ともかく。
ブラスク。シベリア内でも特に軍需に頼っていたこの都市は、そうした仕事がなくなった影響で一時、閉鎖都市寸前となった。
そう、あくまで寸前である。
ロシア当局は他の雑事に追われ、ブラスクを完全な閉鎖都市に出来なかった。
そこを狙ったのがシベリアで元々活動していた名のあるマフィアやギャングである。
住民が乏しくなった影響で取り締まる側の警察の人員も縮小され、警備は緩い。港までの交通の便は中々に良い。予算の関係から取り残されたアパート群は組織の拠点として悪くなく、大量の軍需工場は修復可能な状態で、また大麻工場に作り替えることも出来る。
ブラスクは、まさに違法組織の拠点にするのに最適の立地条件だった。
そして有名所が利益を出していると、当然他のマフィアも追従してくる。彼らも彼らで空き家などに拠点を築き、僅かに残っていた住民も追い出され、マフィアのみが支配する都市が急速に出来上がっていった。
こうしてブラスクは無法者の楽園として生まれ変わった。
ロシア当局はこの事態を受けて無数の特務部隊をブラスクに送り込んだが、協定を結んでいたマフィアらの反撃を受け、あえなく撤退に終わった。有名所が入る時に介入すればここまでにはならなかっただろうが、時既に遅かった。幾つものマフィアが手を結んでまで徹底抗戦の構えをしたのは、彼らも彼らでソ連崩壊の影響で苦境にあり、安定した収入源が欲しかったからだと思われる。
ブラスク。今では世界各国からマフィアが集う世界最悪の都市と化し、麻薬と武器の売買を中心として発展を遂げているシベリア最大の都市である。
「はっ、全く嫌になるぜ。くだらねえ」
そんなブラスクのネオン街の一角で、俺はこれでもかと不機嫌を撒き散らしながら一人愚痴っていた。
適当な壁に背中を預けている俺のすぐ近くでは、若者の集団が殴る蹴るの一方的な暴行を老人に行っていた。遠からず死んでしまうだろうが、街行く人々が止める様子はない。
見て見ぬふりをしているのではない。
見ているのだが、何も思っていないのだ。
政府はブラスクに介入出来なくなっている。警察などいない。ご覧の通り正義感のある人間もいないし、あの老人を助ける人間は、どうやっても訪れないわけである。
もちろん俺も助ける気など更々ない。
弱肉強食の世界である、力のない者が蹴落とされるのは世の摂理である。
「ん・・・」
手近の自販機から購入した缶コーヒーを飲んでみる。まずい。一口で二度と買わないと決意させるに足る驚異的なまずさだった。毒でも入っているんじゃねえか、これ。
「何もかもよくねえな、こりゃ」
俺が意味もなく呟いているのは単純、先日殺した怪腕の男について、その後の処理で不手際が出たためである。
男を殺した後、俺はつてを呼んで重さ二百キロはあるその遺体をある程度は信頼できる闇医者に引き渡した(言うまでもないが重量の大半が両腕のそれである)。件の明らかな身体異常についての調査を依頼したのだ。
これまで遺体は依頼主に渡していたが、ここまでくるとそれは出来ない。
専門の人間に解剖してもらい、何がどうなっているのか聞く必要があった。
ここまではよかった。順調だった。
だが順調過ぎるきらいがあるのも確かだった。ここまでスムーズに物事が運ぶ時は、何者かの思惑が入っている可能性が高いと、俺の経験則が警鐘を鳴らしていた。
そういうわけで俺は闇医者の家に寝泊まりし、何事もないようにと警戒を始めた。
が、そこまでしても突破を許した。
ふと目を開けて遺体を確認としてみると、そこはもぬけの殻だったのだ。
闇医者による監視は続いていた。遺体の置いてある手術室に窓はなく、唯一の出入り口である扉も俺の監視範囲に含まれていた。にも、関わらずである。
遺体の周囲に仕掛けていた監視カメラも、いつからか破壊されていたようで、当然再生など出来なかった。
まさしく蒸発したとしか思えない、鮮やかな手口だった。
闇医者は次のように笑って言った。
「これは密室犯罪よりタチが悪いね。なにせ僕は遺体の目の前にずっといたんだから。僕にはそのタネは皆目見当もつかないが、それは考える必要がないだろう。考えるべきは、それを実行できるだけの力を持った人間がブラスクにいて、その人間が一連の身体異常事件について何か知っている、ということだね。スケールが大きいね、ほんと」
そんなことはどうでもいいと、確か俺は返したはずだ。そして訊いた。
怪腕の男について分かったことはあるのか、と。
答えは次のようなものだった。
丸太のように厚く、樹木のように長い両腕だが、一応は人間の通常の成分で構成されていて、そこには異常なものが何一つなかった、のだという。
いや明白な異常があるにも関わらず、生態的には異常ではないという異常はあったが。
もう少し調べれば決定的な何かを見つけられたそうだが、そうしたプランを練っていた矢先の犯行だったらしい。
犯行が実行できる組織、あるいは個人で犯行が実行できる人間に思い当たる節があるかと、俺は続いて訊いた。本当ならばコイツはここまで話す必要はないはずだが、依頼を果たせなかった、という負い目がそうさせたのだと俺は後々に察した。
「あるには、あるね。実在が疑わしいとされるが、あんな化け物がいるのだから、彼らもきっと実在しているのだろう。僕はこう思うね。悪逆を良しとし、不埒極まる我らの蛮行が、迷信の中に生きる連中を叩き起こしたのだと」
さっさと言えと、俺は促した。
当然“はずだ”なんて曖昧な表現は使うまい。会話の一字一句までは正確ではないが、面倒臭がりの俺ならば、そう言うと確信している。
「ああ、君はそういう奴だったね。だがね、生憎と僕もこういう奴なんだ。多少のことには目を瞑ってくれると、ありがたい。この僕の意見を呑んでくれるほどに君が鷹揚でもないのも分かっているが」
そうして次のように彼は語った。
「ロシア当局には二つの姿があるという噂があるのは知っているかい?うん、知らない?いや君ならたとえ知っていても、そう返すだろうことは想像に難くないけれど、僕の私見を述べさせて頂くのであれば、そういう前提の方がいいのかな」
全く彼の言うとおりだった。俺は嘘を吐いたが、無様にも見破られたわけだ。
ちなみに嘘を吐いたのには、彼の言うような意図からではない。
意味なんて無い。
どうであろうと、俺はこういう奴なのだ。
「表の姿は一般にも知られるように、まあよくある堅苦しくて面倒な連中だ。そこは多く語る必要はないだろう。本当なら僕はそれなりに意見を述べさせて頂きたいのだが、短気な君に殺されたくはない、さっさと話そう―さて噂によると、当局の裏の顔は邪悪な黒魔術に心血を注ぐ連中だという話だ。これが正しいとは僕は思わない。思わないが、完全な眉唾だとも思わない。僕らに全く気付かれず、機械に細工が出来る程の知能が異形人間にあるわけもないだろう?だから、そうした力を所有していて、尚且つ知性のある奴がブラスクにはいるんだ。おそらくは証拠を揉み消すために行動したのだろう」
一月前の俺なら一笑に付していた所だが、現在の俺には言下に否定できなかった。
六人もの異形の人間。
まともな実験の果てに、あんな怪物が生まれるわけもない。チェルノブイリの放射線を日光浴のごとく浴びても、ああはならないだろう。
俺の知らない世界が、こちら側の世界に浸食してきているのだ。
それでも俺は話を聞いてから十秒後に「そんな馬鹿な」と言った。
特に何か考えた末のものではなく、反射的な返しだった。
「うん、馬鹿馬鹿しい話だよ、本当に。僕もそう思うね。だからもしも、この件を更に調べるのであれば、君は僕の語った曖昧なそれを受け入れるべきではない。そうした方が君のためだ。何故ならそれは金になる。根拠?相手は個人ではなく、僕らの知らない何かを所持しているかもしれないんだぜ。そんな連中が金を持ってないわけがないだろう?」
なるほどと思ったが、しかし彼は続けて「まあ僕は手を引くよ。今後関わらないでね」と呆気ない口調で絶縁状を叩きつけてきた。どうやら奴はこの一件に踏み入れる気はないらしかった。
医者である。それもただの医者ではなく闇医者だ。未知の世界よりも、どこまでも現実的な暴力の世界で生きた方が稼げると考えたのだろう。
魚が海で泳ぐように、木々が大地で命を巡らすように、人間は現実で栄えるべき。
彼は言外にそう言っているようだった。
きっと気のせいだろうが。
そういうわけで俺は怪腕の男を初めとして、異形の人間たちの素性を調べ始めた。取っ掛かりとしてはベストだろう。
彼らの家族はもちろん、友人や、世話になった人々、仕事場の同僚、これまでの経緯、その他諸々、全て調べ上げた。しかし俺が不満を吐いている事からも分かるように、全くといっていいほど成果はなかった。
彼らの家族は全員が行方不明、肉親以外で関わった人々は彼らの人物の記憶を消失、出生記録はもちろん彼らの映る監視カメラのデータまでが削除、俺自身の記憶を頼りに依頼者の方から探ってみても、全員が全員、重要な記憶は全て喪失していた。
証拠は何もかもが残されていなかった。恐るべき徹底ぶりである。
ただ俺はそこまで落胆しなかった。
闇医者の奴は絶対に関わってこないだろうから大丈夫かもだが、俺は積極的にそちらの領域に踏み込もうとしている。ここまでの徹底ぶりをみるに、俺は間違いなく彼らの証拠隠滅の対象になる。殺害対象になる。
つまりは相手の方から飛び込んできてくれるわけだ。
俺は待っているだけでいいのである。
だが正直俺は待つのが好きではなく、もっといえば嫌いですらあるので、落胆はせずとも自分から仕掛けられない状況に悶々として苛々するのだった。
「あー、嫌になるぜ」
俺は飲み終わった缶を壁の窪みに詰める。ゴミ箱がないのが悪い。
今しがた俺は自分からそちらの領域に踏み込もうとしていると考えたが、しかし元はといえば彼らの方から近付いてきたが故の防衛意識の発露である。俺はあんなモンスターと関わり合う気はなかったし、今までそういうことがなかったということは、おそらく彼らの側も、こちら側の真っ当な世界と関わる気はなかったのだろう。
それが崩れ落ちた。何かきっかけがあったはずだ。
思い返せば、ここ一年で色々とあった。あり過ぎた。サハリンで起きた大地震、ウクライナとの軍事衝突、大統領のボリス・エリツィンの暗殺、そして政界にまで力が及び始めたマフィアたち。全てではないかもしれないが、これらのどれかが領域外に住む彼らと関係あるのだと、俺は推察する。
本来ならばあり得ないことがシベリア、いやロシア全域で起きている。
そうとしか思えない。
「・・・そんじゃ、ま、行きますかね」
俺はこれでも仕事が好きだ。仕事熱心な若者なのである。
今日も人殺しに向かう。
俺の周りで蔓延る正体不明の輩は気になるが、人殺しをしてほしいという依頼は後を絶たない。羽振りもいいし、断ることは在り得なかった。
フードを被り直し、気味の悪い活気で溢れる街並みを行く。
落書きだらけの壁やシャッター、ガムを噛む程度の気軽さで麻薬を嗜む人々、安っぽい箱の上に立って演説するエセ宗教家、路地裏で不気味に笑いながら喧嘩する若者たち、そして貸切りにした飲食店で何事かを話し合うマフィアたち。
まさしくブラスクといった光景だった。
そういや、と俺は思って振り返る。
若者にリンチされていた老人は今どうしているのだろう、そろそろ死んだかな、と何となしに、たいした意味もなく思ったのだ。
見ると老人は息も絶え絶えだったが、未だ生きているようだった。
その傍では・・・銀髪の少女が若者たちと口論しているようだった。
「こんな老人を嬲って何が楽しいんだ。人を殺そうとしているというのに何で笑っているんだ・・・どれだけ残虐なことをしているか分かっているのか!」
「・・・なに、こいつ。ははっ、わけわかんねえ」
ふむ。希少種だろうが、この街にも善意を持った人間がいるのは驚きだった。
まあそれでも少女に出来ることなどたかが知れている、このあと輪姦でもされて捨てられるのがオチだろう。彼女の胸に掛けられた十字のネックレスが虚しくみえる。
正義が勝つとは限らない。悪が栄えることもある。
惜しいな、と俺はふと思った。
彼女を助け出したいとは思わないが、その凛とした整った顔立ち、靡く銀髪は目を引くものがあった。身長は低いが、胸は大きい方だろう。将来はかなりの美人になる。
彼らにあのレベルの少女をやるのは惜しいと、俺はそう思った。
そう思ったら早かった。
俺は袖に隠していた拳銃を取りだし、少女と口論する先頭の男の頭を一瞬で撃ち抜いてみせる。コンマ一秒でもあれば人は殺せるというものだ。
人殺しが悪いものだとは理解している。そんなことはガキでも分かる。
だが俺にとってその理解は、それこそガキが壁に落書きをする程度のものだった。悪いことだろうと、それは引き金を引かない理由には決してなり得ない。
「ははっ」
俺は自身への称賛を惜しまない。
最高だぜ。ざまあみろ。
「~~~~~!!」
「~~~!!」
突然の仲間の死に驚いた残りの若者たちは、すぐに自分たちも殺される可能性に気付いたのだろう、半狂乱で逃げてゆく。
歩いていた街の人々は一瞬驚いた様子をみせ、その場から距離を取る。しかし状況を把握した後は、やや警戒しながらも日常を再開していた。
リンチも射殺も人殺しには変わりない。老人への暴行に興味を持たなかった人々が、この程度の人殺しに関心を持てるはずもなかった。自分たちまで標的になるほどの規模ならば、また話は違うだろうが。
「な・・・」
一方で、目の前の若者の突然の死に、銀髪の少女は呆然としているようだった。倒れた若者の頭から湯水のように流れる鮮血が靴にまで届いたらしく、険しい顔つきに豹変、足をすっと引いていた。
そして顔を上げ、周囲を見る。足を止めていたのは彼女だけ。
俺はというと、その頃には歩みを再開していた。これから仕事なのだ、くだらないことで時間を浪費するわけにはいかない。
時は金なり。タイム・イズ・マネーである。
俺は雑踏に消えながらも、銃を肩の位置まで持ち上げ、軽く振って見せる。
じゃあな、銀髪女。
「縁が会ったらまた、ってな」
後ろを見るまでもなく、彼女はこちらを見ているだろうが、足元には死体と瀕死の老人が転がっているのだ、俺に構う時間はないだろう。
「待て、そこの男!おい、織碕宗弥!」
そんな彼女の声が響いたが、もちろん待つわけがない。誰が従うか。
・・・そういえば何だか俺の名前が聞こえた気がしたが、多分気のせいだろう。
俺の名を知る奴などマフィアくらいのものなのだから。
彼女のような正義心溢れる素晴らしき偽善者が、俺の名を知っているわけがないのだ。