#076:交渉かっ(あるいは、たったひとつの、咎ったアイデア)
頭の中に記憶やら何やらが詰まった弾丸を装填された感覚……だんだんと「これ」に馴染んできている私がいる。
人格が代わるっていうのとはちょっと違うのかも。その時の記憶だけに、やけに鮮明にピンとが合う感じっていうか。その先の記憶はもちろん、ぼんやりどころか完全にシャットされるわけだけど、それらを超越して俯瞰している「自分」も確かにいるわけで。
今の「私」、私は……いつも今の自分に幻滅して絶望して、何者かになりたかった私。そんな思春期入りたてくらいの、不安定な自分に「移った」ことを、ひとつ上の階層くらいから覗き込んでいる自分も知覚している。
「……」
相対している装置上の里無と、改めて目が合った。少し、その無表情に侮蔑、みたいな色が加わったかのようだ。同族嫌悪、言ってみればそんなとこかも知れない。浅いわ、里無も12の私も。
浅くって、青くって、それでも輝いていて。
戻れるならば、戻りたいもんだけど。
いやいや、ノスタルジックは今いらないから! ふるふると頭を振ると、私は私にバトンをぶん投げる。
<……水窪選手!? 着手時間まで残り10秒ですよ!?>
はいはい。お題は「絶望」。絶望か。
「……『私のおとうさん。私のおとうさんは商社で働くサラリーマンです』」
突然の、まるで棒読みで作文を読むかのような私の口調に、周りは静かに、しかしさざ波のようなどよめきも起こす。
「……『おとうさんはいつも忙しい、忙しいと言っては、お休みの日にもどこにも連れていってくれません。だから私は言いました、おとうさ』」
そこまでで着手時間の限界が来たみたい。ぶつりと私のマイクが切られたようだ。
<後手:53,655pt>
だよね。こんなんじゃ全っ然「絶望」とは言えないよね。それにしては結構な評点だけど、どゆこと? 「次」に期待があるとでも? ふーん、わかってんじゃん。
<さ、『37,646ボルティック』っ!! これは厳しいどころでは無いですよ、意識を失ってもおかしくないレベル……水窪選手っ、棄権をお勧めしますがっ……!!>
実況の言うところは多分正しい。意識トバされちゃったら元も子もないか。だったら。
……だったら駆け引きっていう手はどうよ。
「えーと……保留にしてもらえますぅ?」
意識せずとも出せる甘いおねだり声が、声帯からつらつらと出て来る。
<ほ、『保留』って……>
「ですからぁ、この『37,000』がとこは次戦に繰り越してもらって、次に私が負けたら、それを2倍にして加算するっていうのはどうでしょうか」
どうでしょうかも何もない提案だ。だが、初っ端でカマすことがまず交渉では必要であることを、私は体得しているわけで。
<し、しかし、里無選手にメリットが無いのでは……>
実況の言葉にも身じろぎもせず、長い髪の隙間から、里無はこちらを窺っている。こいつは引き込めそうだ。
「会場の皆さんにお願いして、私に今、投資をしてもらう。……私は『5100万』BETしたんだけど……これプラス、その『投資』分を次戦に賭ける。……ねえ! 次が見たいでしょ? じゃなきゃ今無理やりここから降りて棄権しちゃうよ? そしたら見れないよねぇ……わたしのからだ」
この「声」にどれだけの力があるのか、それは分からない。
だが、響くんだ、何故か。おっさんには。
ウオオオオオンという低い声が響く。そう来ると分かっていた。ま、ここのギャラリーは目が肥えているから、この里無を何とかしたいとでも思っているのかも知れない。もしくは運営の仕込みなのかも知れないけど、それはそれでどうでもいい。
「みんなー、『1pt』1万円ってことで、評点ボタンを押してぇー!!」
それを振り込ませて私の「持ち金」にすること、そのくらい可能なはずだ。
<さ、里無選手の同意が取れれば良しとしますが……>
「……」
実況の言葉に、完全に表情を失った里無がゆっくりと頷く。まあ、落ちてるカネなら拾うわな。
わけの分からない狂騒を味方につけて、私はえらいドヤ顔で腕を組んで待っている。