生臭い秘密
足の裏を他人の足でさすられているような気味の悪さがして、井上彩は束の間の眠りから目を覚ました。
目を開けた途端その感覚は消え、彩はそいつの正体を確かめる術をすっかりなくしてしまった。前の席の大澤さんが気だるそうに腕からプリントをぶら下げている。
二つ席の離れた男子とゲーム談義に話を咲かせているらしく、前を向いたまま彩がプリントを取るのを待っている。洗濯物を取るとき、横着して洗濯ばさみに触れずに洗濯物を引っ張るように、彩は素早くそれを取って痺れを切らした大澤さんが後ろに振り向くのを免れる。
彩は一番後ろの席なので、後ろの人に回す必要はなかった。それなのに、彼女の手から取ったプリントは一枚ではなかった。念の為に同じプリントかどうか手元にある二枚のプリントを見比べてみたが、わずかな期待もすぐに打ち砕かれる。
彩には至急、担任の教師に余ったプリントを渡しに行くという役割が出来てしまった。
途端に足がすくむ。自分が通ることで、クラスの話し声がピタッと止んだらどうしよう。そう思うと、彩は亀の甲羅のように体がコチコチに固まってしまうのだった。
自分の内側ばかり見ていたせいだ。彩は隣の席の本田君が足早に先生のところまで行ったのに気づかなかった。
「プリント余ってる人―? 本田君に渡してあげて」
手が震えた。お腹に力を入れて声を出してみるが、大澤さんにさえ届いていないようだった。彩の周りの空気だけがわずかに振動しているようだった。
有難くないことに、担任教師は手を叩いてクラス中の注意を引き付けた。静かになればなるほど、彩の頭は深くなっていく。どうか、誰も気づかないで。彩は息を止めてこのまま時間が過ぎるのを願う。
その時、大澤さんが彩の心臓を突いた。
「あ、この列一枚多いかも」
くるっと振り向き少し間があった後、「やっぱここじゃん」と言って、彩の頭と机のわずかな隙間からプリントを抜き取り、プリントは無事に本田君の手に渡った。
先生の話が別の話に移った後も、暫くの間彩の心臓はバクバクしていた。もう大丈夫かな、と思って慎重に体を起こすと、大澤さんが真顔で彩を見ていた。教室の隅の方に転がった彩の心臓が大澤さんの足で止められる。彩はそのままはりつけになったように動けなくなった。
「大丈夫?」
頷くまでに時間がかかりすぎてしまい、彩は大澤さんが前を向くまでの間に頷くことができなかった。
それから彩は三年間、無口のまま学生生活を送った。彩は五年生になっていた。人見知りは変わらなかったが、以前より校内を歩くのが平気になった。自分の体が大きくなったというのもあり、六年生に対して威圧感を感じることがなくなったのだ。自然とおどおどした態度も取れ、声に張りも生まれた。
クラスの顔ぶれも変わったが、これまでと同じように彩はクラスメートから距離を開けられていた。無口なぶん、たまの発言がネガティブなものだと、手がかりの少なさからそれだけで彩の人柄が決めつけられてしまい、損をすることが多かった。
七夕の短冊に願い事を書く授業の際、隣の席の佐藤さんが歌手になれますようにと書いていたのが見えたので、なれるわけないのに、と言っただけで彩は嫌な奴のレッテルを張られてしまった。
思ったことが口に出てしまったことに彩自身も驚いたが、言われた本人はもっと驚いていた。周りの席の連中にも彩の独り言は聞こえていたようで、そいつらに鼻で笑われたことが追い討ちをかけるように彼女のプライドを傷つけていた。
恥をかかされた佐藤さんは、仕返しとばかりに彩の短冊を覗き見たが、エジプト文字でも見ているような顔をした。同じやり口は諦め、佐藤さんは自分の仲間たちに彩の悪口を触れ回る事でなんとか自分を保っていた。
彩の短冊には、『モンスターを手懐けたい』と書かれていた。
連絡ノートに学校での様子を報告されていた両親は彩を心配し、夏休みに田舎に連れて行くことにした。彩は家では堰を切ったように話すので、それが両親を余計に心配させた。
「何で家ではこんなに喋るのに学校では喋らないのかね」
両親の間でこんな会話があったのを彩は知っている。
だけど彩は、娘の心情を汲み取りきれない両親を恨むことはなかった。汲み取りにくくしているのは自分なのだと彩は分かっていた。
彩は両親の前ではいつでも気丈に振舞った。それでも涙が零れ落ちそうな時は、誰にも気づかれないように声を押し殺して泣いた。
彩は田舎での生活を心待ちにしていた。誰にも干渉されることのない自由な空間が、彩に思いを募らせる。
誰とも口を利かない一学期を終え、夏休みに突入した。
「おばあちゃんの言うこと、よく聞いてね。何かあったらすぐに電話するんだよ」
祖母の家まで母親が彩を送るかどうか随分父親との間で揉めたようだが、結局彩一人で行くことになった。
乗り継ぎも車掌さんに聞き、着いたら電話をすると彩が言ったら父親も折れてそれ以上何も言わなくなった。
彩は一人で電車に乗ったことがなかった。それでも小学生相手だと親切に教えてくれて、乗り継ぎで苦戦することはなかった。二本目の電車で母親が作ってくれたお弁当を広げると、目の前の老夫婦が目尻を下げて話しかけてきた。
素っ気無い態度を取っても、老夫婦はクラスメートのように彩を邪険に扱うことはしなかった。
窓から見える景色が彩の行きたい世界に変わってきた。ブロッコリーを食べながら、彩は祖母の実家の匂いを想像して顔をほころばせた。
その顔を見て、「おいしいかい、よかったねえ」と言って老夫婦も目の皺を広げていた。
彩は自分のことを知らない人しかいないところに行きたかった。彩は幼いながら、自分が他の皆とは違うことに気づいていた。自分の中のモンスターを手懐けられる連中は、学校帰りに友達同士でプリクラを撮ったりクレープを食べに行ったりするような子ではないと、幼いながらに分かっていた。
母のメモに目を落とす。次の駅で一旦降りて乗換えをするようだ。手についた米粒を一つ一つ丁寧に口に運び、弁当箱をしまってリュックサックに押し込むと出口の前に立った。
ドアが開き、降りる直前老夫婦の方を向くと、名残惜しそうにこちらを見ていた。
「さようなら」
彩の方から挨拶をした。ほんのひとときだったが、旅の醍醐味を味わえた。
相手が十歳だと、駅員さんでなくても親身になってくれる。彩は心ある人の支えのおかげで、三度の乗換えをスムーズにこなせた。
「ただいま」
電車のホームで祖母を見た瞬間、彩はそう言っていた。この挨拶が一番しっくりくるな、と暫く悦に浸っていた。
「ああ? 彩かね?」
「そうだよ、忘れちゃったの?」
「そがなわけないじゃろう、あんまりべっぴんさんになったもんで気づかんかったんよ」
一回り小さくなった祖母が差し出した手を、彩は強く握り返した。つり革にはない生身の人間のぬくもりを感じる。
今すれ違った母親に抱っこされた赤ちゃんが、普段ゆりかごの中にいるのだとしたら、きっと同じ心境に違いないと彩は一方的に親近感を寄せて後ろを振り返った。
祖母も彩につられて振り返る。
「可愛いねえ。彩もついこないだまであがなんじゃったんよう」
寝顔が遠のいていく。外側に顔を向けており、すれ違ったとき、確かに赤ちゃんは眠っていた。
「おばあちゃん、おんぶして」
彩の酷な要求も、意気に感じた祖母は少しだけ丸くなった背中をすんなり明け渡してくれた。
彩はそこにジャンプ台があるように、足をバネにして定員が一名に満たないような背中に飛びついた。
「ふんぐっ」
堪えるような声が漏れたが、頼りない背中はへしゃげることなく、ずんと浮いた。
祖母は地雷がないか確かめるように慎重に歩を進めていく。
「重い?」
心配になった彩は祖母の首に顔をうずめて聞いた。
「ああ、ちゃんと重いよ。彩がこんなに重くなってて、ばあちゃんは嬉しいし幸せよう」
彩はひっついたまま祖母の匂いを嗅ぐのが昔から好きだった。祖母の白髪に止まったとんぼを見ているうちに、彩はいつの間にか眠ってしまった。
目を開けるといつもと違う天井があった。
やがて祖母の家に来た事を思い出し、次に祖母の背中から記憶がないことを思い出した。畳の匂いと感触を確かめながら、ゆっくりと起き上がる。
すぐそこの縁側には彩の好物のスイカが置いてある。そこまで這ってスイカにかぶりついた。
果汁が彩の虫歯を刺激し、少しだけ顔をしかめる。舌で器用に種をほじくり、庭に飛ばす。部屋にはシャリシャリという音だけが響きわたる。手がベトベトする。そういえば体もベトついている気がする。
彩は夢遊病者のように風呂場を求めて歩き出した。
廊下の先に祖母の姿が見えた。
「目が覚めたかい?」
近くまで行くと、祖母はバケツの中で雑巾を絞っているのだと分かった。
「うん、おばあちゃん、風呂、入りたい」
「そうじゃろう思うて、沸かしてあるけん、入っておいで」
彩は頷いて風呂場に直行した。途中でどこからか鳩時計が鳴るので在り処を見つけて時間を確認したら、五時を指していた。
まさか祖母が寺の坊主のようなライフスタイルを送っているとは思わなかったので、彩は少し驚いた。
一人暮らしだというのに、風呂場も掃除が行き届いていた。彩が入るまでに、祖母が気を利かせて掃除しておいてくれたのかもしれない。
彩はシャワーを簡単に済ませるとお湯に浸かって十数えた。百まで数える意気込みだったが、予想以上の熱湯風呂に、これなら十がやっとだと彩はとっさに判断した。
風呂から上がり髪を乾かすのも兼ねて扇風機の前でぼーっとする。この時間がたまらなく好きだ。母親が見たら口を挟まれる状況も、祖母は笑って許してくれたことが、彩の気をよくした。
「ずっとここにいられたらいいのに」
気づいたら彩はそう口にしていた。
「そがなこと言うたらお母さんとお父さんが悲しむよ」
祖母はそう言いながらも満更でもなさそうだった。
「おばあちゃんとごはん収穫しに行こうか?」
そう言われて連れてこられた場所は、まぶしい世界だった。ぎっしりと立派な粒が詰まっているとうもろこしが、太陽の光に全身を委ねているようだった。
迷路を味わうように一人で走り回っていると、とうもろこし畑の外に出てしまった。
川の向こうで、男の子が座って何かしている。彩は何故か気になって、元来た道を戻らずに、川を横断した。
「何してるの?」
おしとやかとは言いがたい音を立てながら川から上がってきた彩を見ても、少年は顔色一つ変えない。
近くで見ると、少年に見えた男の子は青年と呼んだほうがふさわしかった。
「見れば分かるだろ」
少しハスキーがかった声だった。上から見ると彩よりも睫毛が長く、美しかった。学校では見たことないような美青年である。
「俺じゃなくてさ、スケッチブック」
彩は自分が青年を見ていたのを気づかれたことが恥ずかしくなり、意地でもスケッチブックの方を見なかった。しかし、思わず見てしまうようなことを言われた。
「これ、君だろう?」
気になってスケッチブックを見ると、彼は一枚めくってとある絵を見せた。夕焼けの下に、老婆が女の子をおんぶしている様子が描かれており、まさしく昨日の祖母と彩に違いなかった。
「見てたの?」
彩が返事を期待した驚き方をしたにも関わらず、青年はページを元に戻して、彩の目には入らなかった一本一本の枝に命を吹き込んでいく。
その枝に、外に出たいとぐずる、元気の有り余る子供心が宿ったような葉が付けくわえられる。その様子に、彩もぐいぐい惹き込まれていった。
「ねえ、ここにいてもいい?」
「別にいいけど、帰らなくていいの?」
「うん」
二人は日が落ちるまでずっとそこから動かなかった。
青年は夕日が差し込んで神々しくなった時を見計らっていたかのように一気に色を付け、後から時間をかけて細かいところを修正していた。
「ねえ、明日も来てもいい?」
「明日は俺、ここにこないよ」
「どうして?」
「もう完成したから。明日は別の場所で描く」
「どこで描くの?」
「明日描きたくなったところで」
彩が次の言葉を探そうと俯いていると、青年が、
「俺の家くる?」
と聞いてきた。彩は首を横に振って祖母の家まで走って帰った。
青年はどんな顔をしているのか、怖くて振り返れなかった。まだ心臓がバクバクしていた。
急にいなくなって怒られるかと思ったが、家に戻っても祖母は何事もなかったかのようにテーブルに焼きたてのとうもろこしを並べて待っていた。
ニコニコしながら食事を採っていたので、彩は思い切って聞いてみた。
「おばあちゃん、彩がいなくなって、ちょっとは心配した?」
「いいや、彩がちゃんと青春しとったけえ、ばあちゃん全然心配しとらんよ?」
青春。彩は暫くの間考え込んでしまった。クラスの奴らにもまだ訪れていない、あの青春だろうか。
まさか。クラスの人気者を差し置いて、得体の知れないモンスターを抱える自分のところに真っ先にやってくるはずないだろう。
彩は祖母の言葉に気をとられ、手も洗わずにとうもろこしに手を伸ばしたが、祖母は何も言わずに相変わらずニコニコしていた。
「もしかしたら、明日も遅くなるかも」
素っ気無くそう報告して、またあの熱いお風呂に入るのか、と彩はぼんやりした頭で思った。
じんわり口の中で広がる甘味が、このままずっと続けばいいのに、と彩は飲み込むのをもったいぶって、いつまでもとうもろこしを口の中で転がしていた。
朝一で支度をして、鼻歌を歌いながら床拭きをしている祖母を横切って出かけた。
実家より空気がおいしく感じられるのは、単に都会と田舎だけの違いではないだろう。昨日青年の隣に座っていた場所まで行ったが、青年は宣言通りそこにはいなかった。分かっていながら、つい肩を落としてしまう。
彩は、青年の家どころか名前まで知らないことを思い知った。顔より先に、絵を思い出すくらいだ。
どこか寂しげな雰囲気を漂わせつつ、家族を背負う一家の大黒柱のような責任感をみなぎらせた枝。しかし、目の前に広がるとうもろこし畑は、枝葉の存在をかき消すほどの存在感をとうもろこしが放っている。
彩はふと、青年を探しに行こうと思った。昨日半日の間ずっと青年の絵を見ていた彩なら、青年が描きたがっているところに辿り着ける気がした。そう思うと、足に羽が生えたような錯覚に陥った。
彩が好きなひまわり畑はすぐそこだ。まずはそこからあたってみよう。
畑までの道のりも、青年の居場所を紐解く鍵が隠されていると思うと、気が抜けなかった。途中で通った神社の境内にも、いつもは素通りするだけの古びた民家にも、一つ一つ心を傾けた。
だけど違う。ここじゃない。
彩は、青年が微笑むのをいつまでも待った。
そこを見つけられぬまま、ひまわり畑まで来た。もしここにいたら、彩は青春だと言った祖母のでまかせを信じたっていいと思った。
彩は祖母の実家に来る度に、ここに連れて来てもらっていた。
必ず写真を撮ってもらい、自分の身に何かがあれば遺影にするつもりだった。その遺影が、青年によって今まで以上に特別な意味が込められるかもしれない。
それは甘酸っぱいものかもしれないし、悲しい響きが込められたものかもしれない。しかし、青年の描く絵のように、みずみずしい命の輝きを放った写真になることは間違いないだろう。
彩は震える手を握り締めてひまわり畑に足を踏み入れた。大きな顔をしたひまわりたちは皆同じ方向を向いており、全体を見渡すと息を呑むほどに感動的な景色にも関わらず、言いようのない気味の悪さを感じて、目のやり場に困る。
彩は人影が見えるたびに息も止まり、ひまわりに止まっていた蜂が躍動するたびに体が動かなくなるのだった。そんな時は決まって深呼吸をして、体の中をリセットする。そうすると、彩はまた再び前進できるのだ。
彩が青年を発見したのは、もう帰ろうとひまわり畑を出たときだった。
諦めかけた彩の目に見覚えのあるスケッチブックが彩の目に飛び込んできた。青年もすぐに彩に気づいた。それだけでなく、信じがたいことに手を上げて彩の視線に応えてくれた。
彩は頭が真っ白になってしまい、このとき自分がどう反応したのか後から思い出すことが出来なかった。ひまわりに吸い付く蜂のように、気づいたら彩はまた青年の隣に座っていた。
スケッチブックを覗き込むと、元気の有り余ったひまわりたちが行儀よく並んでおり、その中で伏目がちな少女が写っていた。
彩はあえてその正体を聞かないことにした。そのまま暗くなるまで青年に話しかけなかった。
青年も彩が傍にいるのを嫌がる素振りも見せず、空気のように扱っていた。
「家、来る?」
昨日と同じように、青年が聞いてきたのは、彩の腹の虫が鳴り始めた頃だった。
彩は頷いた。
「楽しかった?」
彩はまた頷いて、重い口を開いた。
「ずっと見られて、迷惑じゃなかった?」
「迷惑? 見て欲しいから書いてるのに?」
「・・・・・・私に?」
彩の愚かな質問には青年は答えなかった。振り絞った勇気の使い道を、彩は間違えてしまった。
古びたアパートに連れて来られたとき、彩は青年が一人暮らしなのだと悟った。
「朝飯みたいなものしか出せなくてごめん」
そう言って青年はトーストを二枚焼いた。彩は夕食にトーストを食べるのは初めてだったが、青年の家のルールに何の疑いもなく倣う。
こんがり焼きあがったトーストに、ピーナッツバターをふんだんにのせる姿には、彩も少し驚かされた。
「やってみ」
と青年に言われて彩も豪快にピーナッツバターをトーストに盛ってかじりつくと、甘味が脳天で鐘を鳴らす。
テレビに映っているのは、トークバラエティ番組だった。グラビアアイドルが喋っている時に、青年の手が止まった。
「好きなの?」
女性特有の嗅覚が反応した。
「うん、俺、この人の考え方が特別好きでね」
彩にとってその告白は意外だった。小学生ながら、彩はどこかこういう仕事をする人種を軽蔑している節があった。
「でも、所詮男の人に媚を売るお仕事じゃん」
「君とはまだ対等に話せそうにないね」
彩は青年に子供扱いされたことにショックを受けた。急に突き放されたような気分になった。このまま話が終わったら、モヤモヤして夜も眠れないだろう。
「なんか、やだなって思っただけ。男の為に生きてるみたいな人が」
「そんなに同性の支持を得ている人間が偉いんだ?」
静かに、しかしながら重たい鉛のような感触のする言葉が、振り子のように返ってきた。むきになっているのは彩だけではなかったようだ。
青年はいずれも目線をテレビに釘付けにしたまま、言葉を吐き捨てる。
「彼女のこと、何も知りもしないのにわかったような口を利くな」
あなただって、実際に会ったこともないような、テレビの中の人のことは知らないのと一緒じゃない。彼女だって、あなたがこんな風にピーナッツバターをトーストに塗ることなんて知らないし、それを知ってるのは私なのに。
嫉妬心めいたものが彩の胸に揺らぐ。色々と言って目を覚ませたいのをぐっと堪えて、彩は行儀よく青年がトーストを食べ終えるのをじっと待った。
「じゃあ、教えてよ、あの女のこと」
青年はようやく彩を見た。何かを値踏みするような目だ。
「教えてって、スリーサイズを?」
「とぼけないで」
どうにかしてこの人を同じ土俵までひきずり下ろしたい。
知らんふりしてきたモンスターが疼き始める。この人はまだ、彩を相手にしていない。大人しかったモンスターが暴れだす。
気づいたら部屋中にトイレットペーパーが撒き散らされていた。
「これ、私がやったの?」
「ああ、ボーリングの玉のように次から次に転がしていたよ」
青年は一部始終見ていたはずなのに、動揺している素振りもなく淡々と答えた。
「違うの、これをしたのは私じゃない」
「私じゃないって嘘をつくのは、いい事をした時だけだよ」
「やめて、そんな綺麗ごと。寒気がする」
彩の息が上がる。
「これを言ったのは彼女だよ。俺はハッとするような美しい言葉だと思ったけどね」
「そう。他にはどんな戯言を?」
彩は自分が抑えられなくなっていた。
「彼女はもともと体毛が薄く、処理する手間がかからないらしいんだ。だから、永久脱毛が必要な人に比べて自分は何十万も得してるんだってケロリとした顔で言ってのけたんだよね。その日から、俺は斬新な発想をする彼女から目が離せなくなった」
「なるほど。もともと完全体が当たり前ではなく、欠けている状態が当たり前なんだっていう考え方は確かに斬新で、心を軽くさせるわね」
彩は背伸びをして青年の心に手を伸ばす。彩の心がぐらりと揺れたのに気づいたのか、青年も言葉に熱を込める。
「それに彼女は実に崇高な精神を持っているんだ。彼女の雑誌を読み漁っているうちに分かったことなんだけど、彼女が脱ぐようになったのは、世の中の性犯罪を防ぎたいと思ったのが動機なんだ。その衝動を抑えられなくなったら、自分の裸を見て欲しいって常々読者に訴えてる」
これからの日本について語るような口調で、青年は小学生の彩を相手に彼女がいかに素晴らしい人間であるかを熱弁した。
「衝動を掃除機みたいに吸い込んでくれる場所を提供してくれるなんて、優しい人なのね」
「ああ、そのおかげで君も無事でいる」
青年の真意に気づかない彩は、弱音を吐いて彼の気を引きたくなった。
「私には、そんな人がいない」
彩は青年が立候補してくれるのを期待したが、いつまで経ってもその気配はない。
「そろそろ寝ようか」
青年はテレビを消して敷きっぱなしの布団に潜り込んだ。彩は祖母の顔が恋しくなった。
「私、帰らなきゃ」
「気をつけて」
本当に心配なら、泊めていくか送ってくれるでしょうよ。青年に近づけば近づくほど、彩は胸に針が刺さるような感覚がした。
谷底で若い男の死体が見つかった。その噂は、瞬く間に広がり、彩が知るのにそう時間はかからなかった。
彩が青年の家を飛び出てから三日後のことだった。老朽化で、橋がくずれ落ちるという事故が発生したのだ。
死亡したのは二十代無職の青年。今の時点では住所不定身元不明とのことだったが、彩はすぐに青年だと分かった。
遺体発見時の奇妙な格好が話題になり、なんでも仰向けでスケッチブックを抱きかかえていたという。
彩は一人で家を飛び出し、息を切らして青年のアパートに向かった。そこにはしみったれた生活感がまだ残っていた。
彩はベッドの下から、沢山の絵の中から最初に恋した一枚を取り出した。
青年はもうすでにここにいないのに、絵はしっかりと残っているのが不思議な気がする。
青年の命が果て、匂いが、感触が、色が、声が伝わってきそうな絵だけが残っているのは、皮肉にも思える。青年の死に対して一向に涙が出てこないくせして、青年が死んでも地球が相変わらず回っていることが、彩にはなんだか悔しく感じて泣けた。
「その子の絵だけじゃないんよ? 道路も、学校も、彩の家だって。ぜーんぶ、昔生きてた人と今生きてる人が残してくれたものなんよ?」
家に帰って彩は祖母に秘密を打ち明けた。すると祖母は彩を抱きしめてそう言った。
自分は死んでるのに、生きている間に作ったものは残ってるって、なんだかいいなあと、彩は祖母の腕の中で呟いた。言いながら、ようやく青年がもうこの世にはいないという実感が湧いてきた。
「おばあちゃん、私のひと夏の恋は、私とおばあちゃんだけの秘密ね?」
彩は堪えきれなくなった。しかし、そこで顔を覗かせたのはモンスターではなく、彩自身だった。
いつも彩を押しのけて出てくるモンスターは、どういうわけか出てこない。彩は初めて、声を上げて泣いた。
祖母は彩の髪を撫でながら、テレビから流れるニュースに目を細める。
そこには、青年の正体が明かされており、過去の逮捕歴が映し出されていた。