やっぱり碌なもんじゃない 前編
それは古い古い夢。人を食らう私が、それでもまだ人と仲良くなれると思い込んでいた頃の夢――
仙狸になってまだ日も浅い頃、私は街から程近い森の中で暮らしていた。昼は人々の生活を覗き見て、腹が減った時は夜に人を誘い出しては食らう、そんな生活だった。
ある時いつもの様にこっそり人間の会話を立ち聞きしていると、夜に人が消えるという話を聞いた。人々が面白おかしく話すのは、夜中に歌が聞こえたら、ふらっと人がいなくなりその人は二度と戻って来ないらしい、という噂話。
人間が消える――歌が聞こえたらなどという出鱈目な所もあるが、それは私がやったことに間違いはない。
そして多くの人間はそれをただの噂話として捉えていた……が、私が人を食らう度、人が消える度にその噂話はより身近なものへとなっていく。
友人の家族の知り合いから聞いたという人が消えた話は、
やがて友人の家族の知り合いが消えた話、
友人の家族が消えた話、
友人が消えた話へと変わり、いよいよ気味が悪い思った人間達は、ついに大規模な捜索を始めた。
普段は人が立ち入らない森へ入り、茂みを掻き分け獣道を進み、ぽっかり開けた窪地で彼らが見たものは、私が今まで食い殺した人間の死体の山と、逃げる私の後姿、だと思う。
石を投げられ矢を射られ、人間達に追いかけられることになった私だが、あの頃の私は抵抗する術も無ければ、姿を隠す術も無く、ただ駆けることしか出来ずに日に日に追い詰められていき、最後は呆気なく捕まってしまった――
罪を犯した者は罰せられるということは、人々の生活を覗き見る中でなんとなく学んでいた。
毛羽立つ縄に縛られて、恐らく私にも罰が与えられるのだろうと諦めた様に人間に付いていけば、私を待っていたのは下卑た笑みを浮かべた太った男。
そいつは私を上から下まで、舐め回す様に視線を動かし二度頷き、本来なら私は処刑されるべき罪人であること、私を妓女として雇うつもりでいること、食事には困らせないということを説明した。
食事に困らせない――そんなことを言われてしまえば私に断る理由など無く、そうして妓女のなんたるかを知らぬまま、私は男の下で働くこととなったのだ。
――それから始まったのは厳しい稽古だった。
行政の管轄外の、お世辞にも良いとは言えない妓楼であったが、それでもそこには幼い頃より伎芸を仕込まれて育った娘も多く、詩も舞も楽も、何も知らない私は少し、否、大分浮いた存在だった。
そんな出来損ないの私でも育てれば良い金蔓になると、主はそう思っていたのだろう。どんなに不出来でも追い出されることはなく、名前を付けられ、芸を仕込まれ、適度に餌を与えられ、上手に上手に飼われていた……が、絶望――それは唐突に訪れる。
ある時私が教わったのは胡でも笛でも箏でもなく、男の悦ばせ方。こんなもの何の役に立つものか、妓楼での母、私に芸を仕込んだ女性に問うと、彼女は私がまだ教わっていなかった妓女の仕事についてを話し出したのだ。
妓女は宴席で客をもてなし、閨を共にするものだ、と。
冗談じゃない、というのは私が話を聞いた時の心境だ。恥ずかしながら私はずっと独りで生きてきた為に雄と子を成したことが一度もなく、勿論人間との行為に及んだことなど一度も無い。
そんな私が客と寝るだなんてそれはとんでも無いことだ。拾ってもらったからには精一杯恩を返そうと思っていたが、売春となれば話は別。何も知らない女を騙くらかして体を売る仕事をさせるなど、全くもって信じられないと憤慨し、まだ身が清いうちに逃げ出してやるのだと、激しく抵抗したことを覚えている。
そうすると流石に主も面倒くさくなったのだろう。下の者に何かを命じたかと思えばきつく辛い仕置きが始まった。手こそ上げられなかったものの、お前は殺されるはずの女だった、拾ってもらえたことに感謝すべき、どうせ行き場のない化け物めと、呪詛の様に繰り返される言葉で私の心を縛り付けたのだ。
そうしてすっかり腐った心に灯ったのは憎しみの火。
人間なんて碌な生き物じゃない!
この時初めて私は、明確な殺意というものを覚えたが、私には逃げる手段も当てもない。情けないことに、ただ従順に振舞うことしか出来ないのだ。
全くもってやっていられないと、私はぐらぐらと煮え立つ思いを抑え付け、心の中で毒付きながら、化け物を手懐けたなどとくだらないことをのたまう男の下でひっそりと、逃げ出す機会を窺っていた。
それからしばらく大人しく、殊勝に、しおらしく、姉さん方に付いて仕事をこなしているうちについに私にも水揚げ――つまり客と初めて同衾する日がやってくる。心の準備も出来ず、その奥底では激しい憎悪の念を抱えたまま――
「――ファ、雨華」
「……わ、私ですか?」
「お前以外に誰がいる」
昨日もらったばかりの名前には、まだ慣れなくてピンとこない。
私が起きて来る気配が無いことを心配したらしい理彰が私の体をひと撫でしたところで漸くそれが私の名前なのだと気が付いた。
寝る時はいつも、猫の姿で理彰と同じベッドで寝ているから起きるのも理彰と一緒か、理彰より早く起きた私が理彰を起こすのがここ数日の流れ。
それが今日は違っていたことが気になったのだと、理彰はもう一度、私の体を撫でた。
「具合でも悪いのか?」
「いえ、少し夢見が悪かったので」
「そうか」
茶を出そう、と立ち上がる理彰の後ろ、テーブルに置かれた時計の針は六時を指している。いつもなら丁度今起きる時間だが理彰は既にスーツ姿。これは変だと首を傾げると、理彰は何かを察した様に大きく目を見開く。
「まさかずっと寝てたのか」
と、なると今は午後の六時なのか。道理でカーテンの外が暗いはずだ。そうみたいですと顔を洗い、人の姿に戻り立ち上がると、やはり少し寝過ぎたみたいで軽い眩暈を催した。
「雨華、お前具合が――」
「やだなあ。どこも悪くないですよ」
どこも悪くない。強いて言うなら放っておいた昔の記憶が少しずつ腐ってきている感覚が気持ち悪いだけ。
弱みを見せるのも癪なので、あくまで気丈に振舞って、私は理彰の手を引き寄せる。
「理彰、ご飯を食べに行きましょう!」
きゅっと口角を上げて笑ってみせると理彰は安心した様に返事をするが、その表情はすぐに曇ってしまう。
はて理彰はどうしたのかと小首を傾げて聞いてみると、理彰は目を逸らし、顔を真っ赤にしながら咳払いをする。先に服を着ろ、とそう言って私に背を向けて、そんな理彰が可笑しくてくすくすと笑えば慎みを持てと窘められた。
「一緒に寝ている時の私は裸じゃないですか。今更ですよ」
「阿呆。人の姿になったからには服を着てもらわねば困る」
「はいはい――」
それから着替えを済ませて茶を飲んで、いざ出掛けようと思った時にふと目に入ったのは棚の上に置かれた釵だった。
赤の珊瑚と、妖しい光を放つ緑色の玉、それから桃の花を模した装飾が施されたそれは、色使いこそ鮮やかだが装飾自体は控えめで美しい。これを頂いたのはいつだったか、今も美しいままの釵は私の心を縛り付けて離さず、このまま吸い込まれてしまいそうな程に輝いていた。
もう何百年も前のことだと言うのに全くもって憎らしい――
「挿していくか」
ぼうっと釵を見つめたまま、動けないでいる私の髪を、理彰は掬ってさらりと流し、私の意識を引き戻す。
「いえ、この時代には合いません」
首を横に振って断ると、理彰はそうだろうかと釵を手に取り、器用に髪を束ねて纏めて、髪を結い上げると似合っているぞと満足気。
「見てみろ。後ろで軽く纏める程度ならそこまで違和感はない。何よりこれ程美しい釵を使わないのは勿体無いではないか」
雨華はどうだろうかと、そう言った理彰が手に持つ鏡を覗けば黒と茶の髪を後ろで結い上げた私の姿が写っており、その髪型が想像以上に綺麗纏まっていたものだから、思わず感嘆の声が漏れた。
「わあ……この髪型なら問題なさそうです。器用なんですね」
「俺だって簪を使っていた時代もあるからな」
あまり馬鹿にしてもらっては困る、と、照れた様に、しかし得意気に言った理彰はコートを羽織ると私の手を引き玄関へ向かう。
その足取りは軽やかで、これは今夜の食事に期待が出来そうだと踊り出しそうになるのを堪えて向かうのは、理彰曰く、そこそこ美味しいと評判の中華飯店――




