雪解けに見た薄紅 前編
ひくり、鼻が動いて感じたのは理彰の匂い。私を包むふかふかは布団で、うっすら見えるのは天井の白だ。
眠い目を擦って気だるい身体を起こしてみると、着慣れた部屋着が目に入る。しばらくして扉の開く音が聞こえ、新聞を手に取った理彰と目が合った。
「理彰……」
もやもやと心を覆うのは罪悪感。謝ったけれど、まだ私は許されてはいない。それに、過去を知られてしまった。知ってしまったのだ。今まで通りという訳にはいかないだろう。
「あの……私――」
とにかく何か、話さねばいけないと思った。しかし体は思った以上に疲れていて、ごめんなさいとベッドから降りればぐらり、眩暈を催す私。
「あれ……」
「半月近く寝ていたのだ。今は休め」
ベッドに寝かされ布団を掛けられ、軽く腹を叩かれる。どうやら私は随分と長い時間眠っていたらしい。
見上げる理彰の顔は疲れきっており、首を動かし部屋を見回せば、空になったコンビニ弁当と仕事で使うノートパソコン、書類に紙くず、お見舞いの花と、とにかく色々なものがごちゃごちゃと卓の上に置かれていた。
きっと彼は私が目覚めるまでのほとんどをこの部屋で過ごしていたのであろう。
几帳面で神経質な理彰がここまで部屋を汚せるのはなんだか意外だった。
「……側にいてくれてありがとうございます。私、こんなに面倒な奴なのに」
「素直だな。急にどうしたのだ」
眉間に皺を寄せた理彰が顔を覗きこみ、私の頬をつんと突く。
「迷惑、かけてしまいました……」
「お前が謝ることはない」
私の顔にかかる髪を整えるように撫でる理彰の手つきは優しく、その表情もまた、柔らかい。
何事もなかったような、気にしないようにしているみたいな……不思議な感じ。それでも気になるのはこの半月、私が眠っている間の出来事だ。少々聞きづらい気もしないではないが、ねえ、と袖を引っ張って問うてみると理彰は疲れたら眠っても構わんとひとつ前置きを置いて語りだす――
あの後、倒れた私は瀕死の状態だったという。
あやかしとしての力を使い切り、衰弱しきって餓死寸前、あとはお迎えを待つばかり……と言っていたのは富陽であり、その死にかけの私を救ったのはクー子さんだ。
過激で歪んだ正義でも、彼女が持つものはやはり正義だったのである。私は彼女に救われた。そのことに変わりはない。
だが、彼女の正義は非常に厄介なものであった。
人間とあやかしの共生を望んだ彼女は、自らの望む世界に不相応な人間とあやかしを排除、もしくは改心させることを考えた。
それは殺戮であったり、脅迫じみたものであったり、穏やかとはかけ離れた行為であったが、彼女はそれを正義だと信じて止まなかった。いや、もしかしたら今も、その行為が正しいものであると信じているのかも知れない――
「それで、クー子さんは今どうしてるのです」
「監視をつけた上での自宅謹慎だ」
「それはまた――」
随分と軽い処遇ではないか。途中まで言葉を発してから、理彰の固く握り締められた拳に気が付いた。続きを飲み込み理彰の顔を見上げると、彼は悔しげに、ただ一点だけを見つめていた。
私は知っている。この処遇に納得がいっていないのはきっと理彰自身だ。彼は厳しい。クー子さんが起こした騒動と、事の重大さ、それから、自分自身の思い、いろいろとあるのだろう。だって理彰も、悪人を裁いて生きてきたのだから。
「甘い、と、思っただろう。だが、あの街が保てているのはあいつの力のお陰だ。あいつがいなくなって困る者がいる。それに、行き過ぎてはいるが、あいつの持つものは間違いなく善意なのだ」
ならば、その善意を今一度信じてみようと思ってな――
大きく、息を吐いた理彰は、そう私に微笑みかける。自分に言い聞かせるような言葉と笑みは、少々曇ってはいる、が、なぜだろう、それは気持ちの良いものだった。
「そうですか、良かったです。私、ちょっと心配していたんですよ。クー子さんも人を裁くって目的があったから、理彰はクー子さんのこと、迷っていたんじゃないかなって」
ほんのちょっとだけ痩せた理彰の頬に手を伸ばせば、やんわり腕を掴まれる。
「阿呆、俺には俺の矜持がある。自ら手を下してこその裁きだ。誰に何を言われようとそこは譲らん」
それは、柔らかい物言いだった。理彰は理彰、どうやら私の心配は杞憂というものらしい。
「理彰はかっこいいですね」
「あまりからかうな」
手を滑らせて指を絡めてみると、頬を染めた理彰は軽く、緩く手を握る。やわやわと触られるのは心地よく、そのまま引き寄せてみると大きな理彰の手はもう私の目の前だ。
私よりも少しだけ冷たい理彰の手。ごつごつと骨張った手を暖めるように握って感じたのは寂しさ。
もう私を狙う者はいない。守られることもなければ私がここにいる理由もない。
突如訪れた切なさは、私の体を駆け巡る。
近付いてくるざわざわとした感覚は、別れ、か――
「理彰、私を取り巻く問題は全て解決したのでしょうか……?」
理彰の形を確かめるように触れ、理彰の姿を目に焼き付けるように見つめれば、どうしたのだ、と顔を覗きこまれる。理彰は、鈍い。鈍いのだ。
「全て、がどこまでを指すのかわからんが、まあ、そうだな」
私の問いに答える理彰は最初に会った時よりずっとずっと優しくて、この数ヶ月がうんとうんと長かったように感じられる。
「不自由させてすまなかったな。お前はもう何も心配せずとも良い」
なんて、私の気持ちを何も分かっていないではないか。
ああ、この際、全て話してしまおうか。家を出る時は、何も言わず、もう会わないつもりだった。折角また、この家に戻ってくることが出来たのだから、これはきっと、何かの縁に違いない。
「理彰、私――」
「すまない。電話だ」
思いを打ち明けようとした。口を開いて、もう言葉は喉まで出ていたのだ。無機質な電子音に邪魔をされ、私はわかりました、としか言えなくなってしまう。縁だなんて、考えすぎか。
「雨華なら今しがた目を覚ましたところだが…………阿呆。いくらなんでも早すぎる。雨華のことも考えろ」
どうやら私のことを話しているらしい。理彰の様子からして相手は富陽、今後がどうとか、私をどうするか、とか……そんな話を聞いてしまえば私の胸にちくりと刺激。どうなるのかまったく分からなくて、不安になってしまう。
布団を被って知らない振り、目を瞑って眠った振り。なんとかして気を紛らわせたくて、でも、電話の内容が気になって、結局聞き耳をたてるのだから私も趣味が悪い。
静かな部屋で聞こえるのは理彰の声と、受話器の向こうの富陽の声。富陽が何を話しているのかなんてこれっぽっちも聞き取れないが声の調子からすると相当大事な話らしい。
「雨華、社長からの呼び出しだ。調子が悪くなければお前にも来てもらいたいそうだ」
どうするかを問う理彰は不安げで、無理だけはするなと付け足しながら、私の髪をするする、梳いた。
「大丈夫です。ちゃんと行けます」
「そうか……なら着替えだな」
差し出された服はあの日、私が家を出る時に畳んだもの。ありがとうと受け取れば、理彰は柔らかな笑みを浮かべ、着替えが済んだら教えろと部屋を出て行った。
買ってもらった洋服にまた袖を通せることへの嬉しさを噛み締めて、扉を開けて理彰へ飛びつく。
お出かけしましょと笑いかければ、理彰もまた、そうだな、と笑ってみせた。




