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善を斬る 前編

 孤高であることこそが美であるとする仙狐は、ただ独りで生きてきた。人に媚を売る愛玩動物を、人に利用される家畜を、そして争いの絶えない世の中と異形の者を忌み嫌う人間を見下し、自分こそが美しく強いものであると、長い間住む土地を変え姿を変え、ずっと独りで生きていた。

 それでも、誰とも関わらなかったわけではない。人間のことが嫌いだったわけでもない。

 昼行灯の貔貅ひきゅうや堅物獬豸かいち、不老不死の人間とは親しい仲であったし、彼らは友ではないが良い知人であった。そして、人間のことは碌でもない生き物だと見下してはいたが、その人間が時折見せる優しさ、あたたかさは大好きで、なんだかんだと言いつつも、狐は彼らと、そして自分たちの安寧と繁栄を祈っていたのである。


「それは貴方のお話です?」

「ええ、そうよ」

「そうですか」

まるで他人事のように語られる彼女の話は退屈だ。

 いただきますと手を合わせ、菓子を一口齧るとそうやって楽にしていていいのよ、なんて、彼女は笑う。

「じゃあ、続き――」


 人は醜い。しかし、憎めない。

 狐は考える。どのようにすれば人の良い所だけを見ていられるか。

 狐は考える。どのようにすれば皆が一緒に暮らせるのか。

 考えても答えは一向に出ず、人間は勢力を拡大していくばかり。悩んでも解決せず、あやかし達は追い詰められていくばかり。

 そうして困り果てた狐が作り上げたのがあやかしの街。人や動物の姿に化けられない者や、人間嫌いの者、問題を起こした者、とにかく人と暮らせない者たちが安心して暮らせるようにと用意したこの街により、異形の者たちは一時の安寧を得たのである。

 しかし、狐の力も完璧ではない。無から新しく世界を創造することなど不可能だ。あやかしの街は人間が立ち入らない土地に結界を張り、それらをひとつひとつ繋ぎ合わせた粗末で不安定なもの。人間に見つかることも、あわや侵略されるか戦争かという事態に陥ることも決して少なくはなかったのだ。


「随分と野蛮な……」

「そうねえ、でもその時代はどこもかしこもきな臭くてね。ほら、植民地支配だとかなんだとか、きっと周りの国を出し抜こうと必死だったのよ」

退屈な話ではあった、が、どうにも続きが気になってしまう。ソーサーとカップを手に一息ついたクー子さんは、困った生き物でしょう、と寂しげだ。

「でもね、私は人間が好きなのよ。だって悪い人ばかりではなかったもの――」


 ある日のこと、結界付近を巡回していた狐の前に人間の男が現れた。

 年の頃は十七、八か、大きな荷物を背負った彼は服こそ汚れていたが、育ちの良さそうな、どこか浮世離れしたような、可愛らしい少年という言葉が似合う男であった。

 狐は問うた。どこから来たのか。

 男は答える。逃げてきたのだと。

 周囲には人間の気配を感じ取ってやってきた妖魔たち。牙をむき出し、目には憎悪、男を食い殺さんとするばかりの様子であったが、男は顔色一つ変えず、淡々と話す。

 世論は戦争一色だ。全くもってくだらない。自分の意見を話そうものならひどく糾弾されるのだから、もう両親の、世間の求める良い子ではいられない。だからここに来たのだと。

 全くもって可笑しな話だ、と狐は笑う。生きたままに食い殺されるかもしれないというのに、どうしてこの男はこうも胸を張って立っていられるのだろう。

 そんな狐を見つめる男の瞳があまりにも澄んでいたものだから、他の妖魔に食らわせることなど出来ず、その日はそのまま追い返してしまったのだ。

 それからというもの、男は骨董品と柔らかな笑みを手土産に毎日毎日やってくるようになる。英国製の茶器に食器、絵画に花瓶にそれから地球儀。貿易商をやっていた祖父の形見だというそれらはこっそり実家からくすねてきたものだった。男曰く、見せびらかしたかったのだ、と。


 地球儀……思えば、クー子さんの部屋には古びた地球儀があった。何に使うかも分からない、クー子さんが好みそうにもないそれは、確かに違和感のあるものだったが、もらいものだと考えれば納得がいく。それに、この茶器も。おおよそ彼女の趣味とは思えない。

 手にしたカップに持ち上げ回し、じっくり眺めれば、それはもらい物ではないわ、とクー子さん。寂しげな声が反響し、しん、と広間は静まり返る。ふと彼女の顔が気になって目を移せば、表情はなんてことはない、笑顔だった。

「遺したものは地球儀だけ、それ以外は全部彼のお家に返したわ」

「どうして……――」


 男は実に、優しい人間だった。顔の真ん中にぎょろり、大きな目がひとつあるだけの者にも物怖じせずに話しかける。全身が毛に覆われた大きな怪物にも食べ物を分け与える。争いを嫌い、誰とでも分け隔てなく接する彼は、まさに狐が理想とする人間であった。一人の人間として、男性として、ここまで出来た人間は見たことがない。あやかしたちに慕われるようになった男に、狐が惹かれていくのも無理はなく、出来ることなら彼と共に生きたいと、そう願うようになった。

 だが、所詮は人間とあやかしだ。寿命も生き方も違う。おまけにその時代の人間の世界、こと男の住んでいる国には自由など存在せず、別れは当たり前のようにやってきたのだ――

 ある日、いつものように狐の前に現れた男はひどく哀しげな顔をしていた。どうしたの、と声を掛けた狐が見たのは男の右手に握り締められたくすんだ赤。それが何を意味するか、惨たらしい現実が狐の脳に流れ込む。

 ああ、この男は兵士なのか。人間の世界のことは詳しくないが、ただ、このような男まで召集されるのだからこの国もいよいよ終わりが近いらしい、馬鹿馬鹿しいと、狐は心で毒づいた。

 ここで一緒に暮らしましょう。男の手を取り狐は笑う。

 それは出来そうにもないと、男は首を横に振る。

 この場所は人間に見つかってはいけない場所なのだと、戦わなければ守れないのだと、そう語る男は切なげではあったが、覚悟を決めた、真っ直ぐな目で狐を見つめていた。その表情は争いを嫌うただ優しいだけの、少年のような顔とは違う、信念と強さを秘めた大人の男の顔であった。

 そうしてその日もいつものように茶を飲み縁側で話をし、別れ際もまったくのいつも通り。しかし、いつもと違ったのは、さようならの一言がなかったことと、その先、男が狐の元へ現れることはなかったということ――

 男のことは無理にでも止めようと思えば止められた。助けようと思えば助けられた。狐にそれができなかったのは、やはり人間とあやかしであると、関係に線を引いていたからか。後悔すれど男は戻ってこず、泣こうにも涙が出ない。狐は男の形見に囲まれ、独り部屋で佇んでいた――


 話を終え、紅茶を見つめるクー子さんの顔に笑みはなく、寂しげな瞳は揺れるだけ。その後はどうしたのかと問うてみれば彼女はほんの少しだけ微笑んで、戦争が終わった頃から人間の世界に遊びに行くようになったのだと答えた。

「きっとどこかで彼と似た人を探していたんだわ。それに、彼の育った家に形見を返さなくちゃいけない、って、そう思ったの。私が持っているには辛過ぎるし、何より彼もそれを望んでいる気がしたから……」


 そうして地球儀だけを残し、こっそりと形見を彼の家に返しに行ったクー子さんが見たのは遺品を届けに来たという男の戦友の姿。復員してきたその足で男の家に来たその人は、焼け焦げた金属片と血塗れの端切れを片手に泣いていたという。

「残留思念っていうのかしら、死の間際の彼の姿が見えたわ。恐怖に怯えながらも前を向いて戦っていた。家族の為、友の為、ってね。そして彼は、最期まで私のことを忘れずにいてくれたの」

 さあ、これで昔話はおしまい――そう言ってからり、笑ってみせたクー子さんは少しだけ、すっきりとしたような顔で、その口から紡がれた話はどうしてだろう、私の胸にくるものがあった。

「じゃあどうしてあんなことを。人間が嫌いなんですか?」

零れた素直な疑問にクー子さんは頭を振る。陽の光が彼女の澄んだ金色の髪を銀に染め、風はさらさらと髪を靡かせた。

「嫌いじゃないわ。彼のような人間がいたのだもの。彼のお陰で人間とあやかしは分かり合えるって信じられるようになったから」

 確かに、世の中彼のような人間ばかりなら、どれ程住み良い世界になっていただろうか。クー子さんの下に現れた男のような、私に人間を教えてくれた、師のような……。

「でも、それなら、どうしてさっきは人間を殺したんです? あの男はもう罪を償ったと――」

「彼に傷つけられた人間がいる以上、見過ごしてはおけないの。それと同じく、憎しみで動いてむやみやたらと人を食い殺すあやかしも見過ごしてはおけない。誰かが傷付く世界なんてごめんだわ」

私の言葉を遮ったクー子さんは言葉も、そしてその表情も厳しく険しかった。理彰や富陽の言った通り、彼女は理想が高すぎるのだ。そして、まるで自分が一番正しいかのような振る舞いは傲慢。

「私は貴方が苦手です」

軽蔑とも違う、純粋な言葉だ。大方彼女は世界の粛清を目論む黒幕というところか。私には全く理解できそうにない。

「あら、私は雨華ちゃんのことが大好きよ。ずっと一緒にいたいって思うくらいにはね」

本当、理解できない――どうして私なのか、何が目的なのか。きつく睨んでも彼女は笑うだけ。怖いわ、なんて、馬鹿にするのも大概にしてほしい。

「何が目的なんです!?」

 声を荒げればクー子さんは涼しい顔で茶を啜り、ゆっくりゆっくり口を開く。

「そろそろこのあやかしの街も終わりが近付いてきたからお引越しをしようかと思ってるの。知ってる? こことは違う世界って本当にあるのよ」

荒唐無稽、そんな話があるものか。眉間に皺を寄せた私を余所に、クー子さんの話はまだまだ続く。


 神隠し、人がそう呼ぶものの原因にはいくつか種類がある。ひとつは事件、ひとつは事故、そして事故とも似たものでもうひとつ、別の世界に迷い込んでしまうこと。別の世界、それはあやかしの街ともうひとつ、こちらの世界との繋がりのない全くの別世界のことを指すのだそうだ。

 世界を行き来する方法はこちらでは見つかっておらず、今までは一方的に流されるばかり、境の家族もその事故……災害といった方がいいだろうか。とにかく、彼らはそれに巻き込まれたというのがクー子さんの見解だった。

「なぜそれで境の弟が生きていると……?」

「あちらからコンタクトがあったのよ。それで運よくそれを受け取ったのが私。そしてここはあちらの世界とこちらの世界を繋ぐ境界、だそうよ」

窓から見える遥か遠く、門のような建物は関所だろうか。クー子さんの見つめる先は眩しくて私にはよく見えなかった。

「それであちらの世界へ移住すると……?」

「ええ、あちらは割かし魔物に寛容だと聞いているわ。そのついでと言ってはなんだけれど、こちらの世界を綺麗に掃除してからお引越ししようと思ってね。言うなればこれは恩返しなの」

掃除。それは彼女の理想にそぐわない人間の処刑。思えば人間が襲われる事件が多発していると理彰に聞いた。だとすれば餓鬼を差し向けたのも……。

「そう、私。罪人を裁くついでにあの時取り逃がした雨華ちゃんも捕まえちゃおうと思って」

「なぜ」

「貴方が欲しかったのよ。どうしてかしらね、私に似ていると思ったから、一緒にいたい、って。日本に連れて来てしまえば寂しくなって私の元へきてくれるかしらって、そう思ったの。貴方を捕らえる為に雇った人間も、貴方に食らわせた人間も、みんな罪人。まあ、犯した罪によっては脅すだけで命までは取らなかったけれど。それと釵、ちょっと細工をして貴方がどこにいるか、すぐわかるようにしていたわ」

寂しげに揺れる瞳に涙。彼女は随分と厄介な善狐である。それは孤独と正義を拗らせた歪んだ感情。

「でも駄目ね。いつも邪魔されてしまうわ。ほら――」

「雨華から離れろ」

ころり、表情を変えて忌々しげに呟いた彼女が睨みつけた先、響き渡る轟音と私の知ってる低い声。破壊された壁から現れたのは紛れもなく――

「理彰……!!」

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