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真実は夜明けとともに 後編

 時代は清。漢民族に変わって満州族が実権を握った中国最後の統一王朝。

 結局、私を拾い上げた男は待てども待てども帰ってこなかった。死んだことなんてとうの昔に分かっていたのに、私も希望を捨て切れなかったのである。

 全く、愚かだ――それから私は男と暮らした街にしばらく身を潜めながら留まった後に、自分のルーツを辿るように西へ、西へと移動を開始した。元いた場所に戻れば、全てがなかったことになるのではないか、とそう思ったのだ。

 勘を頼りに駆けた野山、大きな街に小さな里。道中、私は色々な人と出会っては、食い殺した。

 争いばかりで嫌になる。何故負けた。何故男は死んだのだ。死ななければならなかったのだ!

 そこには慈悲も、彼が望んだ私の姿もない。あるのは老若男女、全てを等しく食い殺す捕食者としての私。人を食らう為なら男にも女にも化けた。子どもにだって化けたのだ。我慢する事など知らない。分からない。ただ、腹が減ったから食う。それだけだった。

 そうやって私は四川に戻ってからも、人が狩りをするのと同じように狩りをして、人の命を頂きながら、今までずっと、ずっと生きてきたのだ――


 ああ、体がふわふわする。どうやら私は夢を見ているみたいだ。懐かしい、吐き気がするような、夢。

 目に映るのは死体。これは私が食い殺した者。そして耳に入るのは怯えた男の声。声のする方へと目を向ければ、扉に縋りつくようにする男の姿がある。粗末な衣を着せられ、彼は涙を流して私を見ていた。

「なぜ、泣いているのです?」

近付き男の顔を包み、親指でそっと雫を拭えば、震える腕で拒まれる。声にならない声で譫言のように繰り替えすのは化け物、という言葉。

「今更ですよ」

そんなの、慣れっこだ。今更言われたところでどうということはない。呆れたよう笑ったのは、自分に対してか。だって私は人間ではないのだもの。

 男の顔をもう一度撫でれば肩を押されて突き飛ばされ、私の心はずきずきと痛む。

 本当に自分はこんなことをしたかったのか。こんな生き方をしたかったのか、考えても答えなんてでない。

 せめて早く夢から醒めないものかと壁に寄りかかり、膝を抱えた私は肩に走る痛みにふと、気が付いた。

 突き飛ばされたぐらいで怪我なんかしないはず、おかしい。この痛みはなんだろう。視線を下ろせば私の知らない深い緑の着物が目に入る。急くように立ち上がり、はらりと帯を解いて脱ぎ捨てれば、そこにあったのは――

「銃創……?」

 はっと気付いた時にはぼんやりとした意識も霧が晴れたようにすっきりとしていた。

 なんてことをと口を塞ぐ私の目の前、転がる死体は、現実だった。


 夢ではない……?

 死体は……?

 私が殺した……?


 確か境と戦った後にクー子さんが来て……そこから先の記憶がない。

 では、私は無意識のうちに人間を食い殺したというのか。

「冗談じゃない……」

へたりと床に座り込み、化け物としての己を呪う。もう人は襲わないと決めたのに、これでは本当に理彰に顔向けできないではないか。

 天を仰げど目に入るのは冷たい天井。溢れる涙が頬を伝い、ひんやりとした一筋の哀しみを残す。

 酷い、非道いとさめざめ泣く私を見て、クー子さんは何を思うのか。

 本当に、ひどい――

「あら、折角食事を用意したのに……人間一人じゃまたすぐにお腹が空いてしまうわよ」

ふわり、風と共に現れた彼女は困ったように笑い、私の着物を直してみせる。やはり、あの死体は私がやったものなのか。

 死体と、そして男へ、順番に視線を動かすと、男は大きく肩を揺らす。ひっ、と喉の奥から聞こえた声は恐怖に支配されたそれであった。

「怖い思いをさせてすみません」

 男へゆっくり近付き頭を下げ、クー子さんに彼の解放を促すと彼女はにっこり微笑んで、雨華ちゃんは優しいわねと私の頭を撫でる。

「貴方、死にかけてたのよ。今だってお腹が減ってるんじゃないかしら」

「もう、人は食べません」

「そう……残念だわ。とびきりのご馳走を用意して待っていたのに」

 それから彼女が向かったのは男の前、クー子さんは彼の頭からつま先まで、じっくり男を眺めていた。

 笑みを浮かべる口元と、細められた目。一見、穏やかそうに見える彼女の表情なのだが、瞳に光はない。それはひどく冷たい、残虐な笑みだった。

「でもこの坊や、前科もちなのよね。外には放れないでしょう」

男が罪人であると、そう言った彼女はふわふわと尾を揺らして考え込む。

 それに食って掛かったのはこの罪人。彼は罪を償ったのだから許してくれと声を荒げた。

「もう罪は償ったんだ! だから――」

「あら、それを決めるのは罪を犯した者ではないわ」

ぴしゃり、クー子さんの声がこの狭いコンクリートの部屋に反響する。

 この者がどんな罪を犯したかなんてこれっぽっちも興味ないが、被害者がいるというのならクー子さんの言うことも分からないこともない。実際、男だってもうこれ以上、何も言い返せないようだった。

「でも、雨華ちゃんが食べてくれないとなると……そうねえ……」

ううんとひとつ唸ったクー子さんは男を一瞥、それからいつも通りの、のんびりとした口調で呟き男の手を掴んだ。

「他へ回してしまいましょうか。貴方、残念ね」

「どこへ連れてく気だ……!? おい!」

 男が暴れようが喚こうが関係ない。彼女は涼しい顔で彼の手を引き部屋を出る。その様子は駄々をこねる子どもを引き摺っている姿に似ていて、なんだか少し、滑稽だった。とはいえ、私も置いていかれるのは困ってしまう。待って待ってと追い掛けて部屋を出ると長い廊下が待っていた。薄暗く、ジメジメとしていているから気持ち悪い。それにこの鉄にも似た臭いは――

「あら、雨華ちゃんは待っていてよかったのよ」

「それならそれで声を掛けて下さい」

 ずんずんと、足早に進む彼女について歩けば一層臭いがきつくなる。目の前には頑丈な扉。その先から聞こえてきたのはばりばりと硬い何かが砕ける音と、呻き声。

「悪趣味……」

理解するのに、そう時間はかからない。申し訳程度に付けられた小窓から見えたのは角を生やした大きな化け物。

 鬼、と呼ばれているものだろうか。そいつは一心不乱に何かを貪っているようで、私は全身の血の気が引いていくような、そんな感覚に支配されたのだ。

「だって、このまま帰すことなんて出来ないでしょう?」

ああ、彼女の笑みはどこまでも純粋だ。悪意など微塵も感じられないその表情は、その眼差しは、清々しい程に真っ直ぐだった。

「不届き者には罰を与えなくちゃ」

 クー子さんが扉に手をかけ、小さく何かを唱えるように口を動かす。それからゆっくり開いた扉と辺りに立ち込める濃い瘴気、男の足元はおぼつかなく、ひとつ息を吸ったところでぐらり、倒れこんでしまった。

「ああ、ちょっと貴方!」

「平気よ。どうせ彼はもうすぐ死ぬのだから」

 そう言ったクー子さんが男を軽々と持ち上げると、彼は力の入らないのであろう体を懸命に動かしながらももがいていた。その口が紡ぐ言葉は、誰に対してのものか。精一杯の謝罪だ。

「その身で、その死で償いなさい。きっと報われるわ」

 柔らかな笑顔のままに、まだ意識のある、生きている男を扉の奥へと突き飛ばしたクー子さんの白い腕には男の爪痕。抵抗しても無駄だというのに、彼はまさに、必死だったのだ。

 おぞましい。なんて惨いことをするのだろう。

「クー子さん! いくらなんでも――」

やりすぎでは、と止めに入るつもりだった。まだ男は生きているのだから、放っては置けない。

 扉の奥へ進もうとする私の前に立ち塞がったクー子さんにぴたり、耳を触られて私の体は跳ね上がる。眼前には彼女の白い顔。長いまつ毛と飴色の瞳は美しく、言葉を紡ぐ紅い唇はなんとも官能的であった。

「聞かなくていい、見なくていいの」

彼女がそう囁いて私の耳を塞ぐとどこか遠くで扉が閉じたような音が鳴り、どこかどこか遠くの方で誰かが泣き叫ぶような、そんな声が聞こえた気がした。

 なんて残酷なことを。

「貴方、自分が何をしたか――」

「さて、ひと仕事終えた所でお茶にしましょうか。私ね、ずっと貴方とお話したかったのよ」

睨みつけても彼女の表情は変わらない。クー子さんは悪びれもせず、少女のような無邪気な顔で笑うのだ。

 この様子では、怒りをぶつけてもきっと無駄だ。そもそも何が悪いかすらわかっていないのだから、説明するのも疲れてしまう。

 あくまでも善狐、彼女に悪意など、欠片もないのかも知れない。


 複雑に入り組んだ長い廊下を抜ければ太陽の光が眩しい広間に出た。先程の薄暗さとは打って変わり、こちらは温かく、穏やかで、光に満ちた空間だった。

「一体なんなんです……?」

 コンクリートとも違う壁は白の漆喰。木でできた柱と天井は日本建築。敷かれた赤い絨毯はクー子さんの住む家とは全く違うようで、石の装飾が施されたバルコニーの奥に広がる景色はまるで初夏のような緑、おかしなところがあるといえば、この時間帯に聞こえるであろう鳥のさえずりが聞こえないことぐらいであった。

「貴方の聞きたいことにならなんだって答えてあげるわ。でも、まずはお茶を飲みながらにしましょう」

言われるがままに窓のすぐ近く、アンティーク調の椅子に座れば、卓には今しがた淹れたような温かい紅茶と、焼き菓子がそっと置かれる。まだ朝だというのに、随分と気の早いことである。

 それにしてもこの建物、これは良く言えば和洋折衷、か。英国被れというにも怪しすぎる屋敷とこれらの小道具は不自然だが不釣合いとも言えぬ、妙な一体感をもっており、どこか懐かしさすら感じさせるものだ。外の景色も私の知っているあやかしの街とは全然違う。

 では一体ここは……?

「擬洋風建築、っていうの。昔の大工さんが外国の真似をして作った建物なのだけれど、これはこれで味があるでしょう?」

「はあ、そうなんですか」

 カップを片手に自慢げなクー子さんは焼き菓子をひとつ摘むと私の口元へと差し出した。興味がないワケでもないが、今私が聞きたかったのは建築様式ではないのである。

 ここは一体どこなのか、クー子さんは何をしたいのか、なんの目的があるのか、そしてなぜ私を捕らえる必要があったのか。私が求めている真実を、全て聞かなければ気が済まないというものだ。

 そうしてむっと眉を顰めれば、変なものは入っていないから安心してだなんて、彼女はそれを自らの口に放り込む。私の心など既に読んでいるだろうに、彼女はどうしてここまでマイペースなのだろう。

「ううん、我ながら上出来。さ、雨華ちゃんもどうぞ」

 どれ程睨んでも彼女は表情ひとつ変えやしないし、呑気に茶を飲んでいるのも気に入らない。

「いい加減にして下さい!」

 音を立ててカップが揺れて、紅茶がゆらゆら、波を立てる。

 まるでおちょくられているかのような態度が腹立たしく、つい勢いよく立ち上がってしまった。しかし、それでもなお、彼女は笑うのだ。

 もう、せっかちさんね――

 仕方のない子だと言わんばかりの彼女は私の肩をやんわりと押し、ゆっくり椅子に座らせる。まずは昔話をしましょうと広間の真ん中に立ったクー子さんの髪を、朝の風が揺らしていた。

「昔々の話よ。私ね、みんなが仲良くなれる世界が欲しいの――」

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