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真実は夜明けとともに 前編

 そっと起き上がる夜明け前。

 音を立てずに降りた床の上、人の姿になってすることは部屋の片付けだった。

 理彰に買ってもらった服は、今日は着ない。

 私の器も玩具も服も、洗って畳んで纏めて片付け、鏡の前でするのは身支度で、袖を通したのはお気に入りの服――

 真紅の生地に金の刺繍、きらびやかな漢服は昔、人に憧れて見様見真似で作り出したもの。

 大腿部から入った深い切れ目は満州人の女が着ていた服を真似たもので、元の服よりは幾分か動きやすくなっている。

 久々だがなかなかに似合っているではないか――

 こうして着てみるとやはりしっくりくるものである。

 二度頷いて鏡の前でくるり一回転すると、滑り落ちたのはあのかんざし

 高い音を立てて落ちたそれを慌てて拾い、ベッドの上の理彰に目を移せば、寝息を立てている彼の姿。

 様子を見るとまだしばらく起きそうにもなく、私はほっと胸を撫で下ろすのだ。

 そうして、しゃらり、手の中で輝く釵を見つめて思い出した理彰の一言。

「似合っています、かね……」

 似合っているぞと言われたことは、今でも嬉しく思ってる。

 鏡に映るのは釵を手ににやける私で、なんだか少し恥ずかしい。

 理彰がやってくれたように髪を持ち上げ纏めて留めて、合わせ鏡でみる頭。

 私じゃうまく出来なくて、結局色気も華もない、いつも通りの髪型に落ち着いてしまった。

 低い位置でひとつに束ねた髪はまるで猫の尾のよう。

 私が頭を動かす度に、ゆらゆらふわりと揺れている。

 まあ、これでもいいかと毛先を弄び、出掛ける前にとちらり一瞥した先、理彰はやはりまだ眠っていた。

 好都合と言えば好都合なのだが、それでもなんだか、寂しいものだ。

 卓の上に置かれた服と、スマートフォン、部屋の隅にまとめられた私の荷物はまるで置き手紙。

 さようならとでも言いたげに鎮座するそれらは私の意志の表れ――

 目覚めた理彰がそれを見た時、彼はどう思うだろうか。

 理彰は優しいから、きっと探してくれるだろう。

 心配だってするだろう。それでも、私には行かなければならない理由があるのだ。

「いってきますね」

 小さく呟いた声は理彰には聞こえない。

 ゆっくり閉じた扉とは正反対に、地を蹴る私の足は止まらない。


 漆黒の闇の中、吹き抜ける風の如く路地裏を駆ける私が纏うのは紅の衣。

 目指したのは境の待つ廃工場だ。

 夜明け前の廃工場、暗がりに溶ける境はひとり、ぽつりと立っている。

 気配から察するにこの場に志麻はいないようで、私と境は正々堂々、一対一で相対していた。

 どうしてだろう。こうしていると意志が揺らぐ。

 境には、負けるつもりできた。

 そうすれば境の弟だって戻ってくるかも知れない。

 クー子さんに、真意を聞き質せるかも知れないのだ。

 自分の身がどうなるかなど分からないが、クー子さんに会わなければいけないような、そんな気がした。

 それでも私の意志が揺らいでしまうのは恋心故か。

 彼を打ち破り、何事もなかったかのように理彰のいる家に戻ればいい。

 叱られはするだろうが、それでも一緒にいられるならそれでいいと思った。

 ただ、そうすれば境の弟はどうなるというのだ。

 境の気持ちはどうなるというのだ。

 それに、境も律儀な男である。

 私にその気がないと知れば捕らえるのを躊躇ってしまうかも知れない。

 こうして境と向かい合った状態なのに、後戻りなどもう出来ないのいうのに、でも、でも、と、私は迷っていたのだ。

 なんて情けない――

 目を閉じ迷いを振り払う。

 目を逸らすな、覚悟を決めろ――

 言い聞かせるようにしたのは深呼吸。

 開いた両目はしっかりと先を見据えていた。

 どうせ化け物なのだ。悪役になりきってやろうではないか。

「不意打ちでも良かったんだぞ……と、これまた随分と派手なお召し物で」

「買ってもらった服を汚すのは忍びないですから。それより、貴方こそ不意打ちでも良かったんですよ?」

「それはフェアじゃない」

「律儀ですね」

 向かい合う私達の会話は思ったよりも落ち着いていた。

 本来なら消えているはずの外灯の明かりは足元を橙に染め、夜明け前の一際暗い時間帯、冷たい風は髪を揺らした。

 ルールはあるのか、と境は問う。

 手には黒く光る拳銃。

 本物……とは考えられないが、そこから放たれる弾は、この身、この肉に熱く焼けるような痛みを与える凝縮された魔力である。

「どうした? 震えてるぞ」

 それは、恐怖か興奮か。恐らくは、前者だ。

 銃を手にした兵士との戦闘だって教わらなかった訳ではないが、実戦経験はそう多くはない。

 不安になるのも当然だ。

 何より時代もモノも違う。

 更には魔力などという訳の分からない力が働いているのだから、それはもう私の知っている武器ではない。

 ぴりぴりと、空気が揺れる。

「怖いのか」

「武者震いって知ってます?」

 不敵に笑う境の言葉に鼻で笑って返した返事。恐怖心を感じ取られてなるものか、笑みを浮かべて続ける言葉は素っ気無くも震えていた。

「どちらかが倒れるまで、それだけで充分です」

 いいですねと境に声を掛け、頷いたのを確認してから地面を蹴る――

 素早く取り出した鏢を投擲すれば境が放った弾に打ち落とされ、そのまま空中で霧散した。

 瞬間的に、まずいと思った。続けて放たれるであろう一発を回避する術が私にはなかったからである。

「柔いな」

「馬鹿にしないで……!」

 体を捻って武器で受けるがいとも簡単に弾かれてしまい、そいつは私の頬を掠めて飛んでいく。

 三発目は足元、動きを封じるような射撃は私に流れる血を拭う暇も与えない。

 そうして防戦一方の私は飛んで躱して逃げるのみ。

 後ろへ飛び退きながら駆け込んだ工場内、コンテナの陰に隠れれば、境は声高々にこう言った。

「前回みたいにはいかないぞ」

 工場内を照らす灯りが不気味な光を放って揺れる。

 それは心を惑わすように、或いは心を乱すように、ゆらり、ゆらりと妖しく動く。

「……そんなこと分かってます!」

 怒鳴るような自分の声。

 きん、と反響した音の大きさが、震えが、私の焦りを表している。

 しかしどうだろう。

 嫌に大きな心臓の音が聞こえる度に、どくどく、速く脈打つ度に、私の心は逸り、高揚していくのだ。

 にやり、歪めた口元の笑みはハッタリか。

「見くびってもらっちゃ困りますって」

 構えた武器は鉛色、重たく鈍い光を放ち、鋭い切っ先は血を欲す。

 やられっぱなしで済まないと、燃え盛る闘争心が私を駆り立てる。

「泣きを見ても知らないですよ!」

 とん、と軽く地を蹴って、境の前へと飛び出した。

 魔力の弾が飛んでくるが、無論、動かぬ的になる気などさらさらない。

 ひらり、躱して飛び込んだ物陰から今度は古びたデスクの上へと飛び移る。

 高く飛び上がれば私の背後、ぶら下がる電球が割れて飛散した。

「すばしっこいな」

「お褒めに預かり光栄です」

 障害物の多いこの場所は、盾となるものも足場も多い。

 山で暮らしてきた私のこと、平坦な場所よりはずっとずっと戦いやすい。

 空中、足場をなくした私を狙った射撃すら、柱を蹴れば躱すのなんて訳もないのだ。

 駆けて飛んで迂回して、それでもほら、あっという間に境のすぐ側。

 至近距離の銃撃は流石に躱せない、だが、どちらの得物も魔力の塊のようなものである。

 波長さえ合わせれば相殺だってできるはずなのだ。

 弾道を読んで鏢で受ければ、大正解とばかりに消え去る弾丸。

 攻撃を打ち消されたことにより生じた境の隙は大きく、同時に私に訪れた好機もまた、大きかった。

 一気に近付き仕掛けるのは足払い。

 体勢を崩した境の右腕を斬り上げ、体を捻った勢いのままにお見舞いしたのは横っ腹への蹴り。

 これでどうかと見下げた先の境の瞳はぎらつき、私の脳に警鐘を打ち鳴らす。

 ここから始まるのは、反撃か――

「まだこっからだよ」

 迫る境に袖を掴まれ、がくり、体が引き寄せられる。

 首筋に当てられた銃口の感触は気持ち悪く、ぞわぞわと肌は粟立った。

「ほら、観念しろ」

 しかしながら――境も迂闊なものである。

 これだけ密着していればどうなるかということぐらいわかっているはずなのに、学習能力というものがないのだろうか。

 聞き分けの良いフリをして開いた両手と落ちた武器。

 からり、鳴り響く音の中で触れた境の頬はひんやりと冷たかった。

 このまま負けてしまうのは面白くない。

 にやり、笑みを浮かべて撫でる境の顔。

 ここらで腹ごしらえをしておくのも悪くはないだろう。

「お馬鹿さんですね。いただきま――」

「お前に人間が食えるかよ」

 馬鹿な男だと笑った私に刺さる言葉とぶつかる視線。

 どこまでも見透かされてしまいそうな、そんな境の真っ直ぐな目は細められ、口元は歪にゆがんだ妖しげな笑み。

 悪役然としたその表情はまるで仮面――

「貴方こそ、このまま私を撃ち抜くことなんて出来ない癖に」

「何を……っ!?」

 境もまた私と同じ。迷っているのだ。

 それに、彼の目的は私を生け捕りにすることだ。どの道、首は撃ち抜けまい。

「躊躇いなんて手加減はいらないって言ってるんです!!」

 運否天賦――後は天に任せればいいのだ。

 そこに迷いなどいらない。捨て去るべきだ。

 宙に生み出した鏢を掴み、境の腹を斬りつける。

 素早く距離を取って身を隠したのは机の陰。

 どくりどくりと聞こえるのは、私の胸の高鳴りだ。

 もしかしたら、楽しんでいるのかも知れない。

 争いなど、碌なものではないと思っていたのに、全く、私も酷い生き物だ。

「後で泣いても知らないぞ」

 馬鹿にしないでもらいたい。

 ひとつ、ふたつ、みっつと飛鏢を作り出して息を潜める。

 衣擦れ、足音、息遣い、微かな空気の流れと、それから匂い……感覚の全てを研ぎ澄まして探る境の位置と動き。

 気付かれないギリギリの場所、境が近付き私に背を向けたその時が私の飛び出すタイミングだ――

「そこか」

 境の背後、飛び掛った私を襲う弾丸は、髪を掠めて背後のコンテナに風穴を開け、二発目、三発目の弾を打ち消すように弾けば境の表情は驚きへと変わる。

 最早余計な思考などいらない。

 身に染み付いた感覚だけを頼りに攻撃を受け流し回避し、そして一撃を確実に決める。

 右手の鏢を弾かれれば左手の爪を立てて傷を付け、腕を掴まれれば捻って外して距離を取る。

 本能に突き動かされるままに動く戦い方は実に野生的だった。

「素早い、が、動きが単純だな」

 腕に当たるのは魔力の弾。溢れた血が衣を汚し、流れる血は床を点々と染めている。

 痛くない訳がない。

 しかし至近距離で肩を撃たれようが、肉が抉られようが、そんなものは全く気にならなかった。

 結果がどうであれ、私は全てを出し切るだけなのだから――


 気付けば、血塗れの状態だった。

 どうやら力を使い過ぎたらしい。私も、境も、立っているのがやっとである。

 そして、これで最後と構えられた境の銃から伝わる緊張感は、私の血を騒がせる。

 この傷では恐らく私も次が最後の攻撃。

 振り翳した手に握ったのは紐、先端には鏢――

 縄鏢じょうひょうと呼ばれるそれを振り回せばびゅうと小気味のいい音が鳴る。

「おいおい、どこの忍者だよ」

「格好良いでしょう? さ、いきますよ」

 じりじり、どちらが仕掛けるかの睨み合いの後、最初に動いたのは私だった。

 跳び上がって柱を蹴り、境の元へと一直線。

 攻撃を避ける気などさらさらない私に、一発、二発、と撃ち込まれる弾丸はどれ程動いても急所に当たることはなく、足先、肩へと集中していた。

 動きを止める為、というのもあるが、恐らく意図的に外しているのだろう。

 もしこれが殺し合いだったなら、きっと私は殺されているのだろう。

 本当、境という男は出来る男である。

「手加減されるのは腹が立ちますね」

 自嘲気味に、吐き捨てるように笑い、振り回した縄鏢を境へ投げつける。

 これが最後。

 夜明けはもう、すぐそこに迫っていた――

 境の腕に巻き付けた縄鏢の縄と天井を向いた銃口、捕まえたと内腿に突き立てたのは袖に忍ばせた鏢で、私の視線の先、境は痛みに顔を歪ませた。

「降参、でしょうか……?」

 私も既に満身創痍。

 笑顔は歪み、全身の筋肉はひくひくと痙攣する。

 降参の二文字を境に問うて、だらり、腿を刺した腕を垂らせば、境は穏やかな笑みを浮かべ、頭を振った。

「奥の手ってのはとっておくもんだ――」

 鳴り響く銃声と金属音、腰に走る痛みで私は撃たれたことを知る。

「俺も、限界だ」

 音を立てて地面に落ちたのは、境の、正義の象徴で、倒れ込んだ私の隣、鈍く光るそれはどこか誇らしげだった。

「跳弾……」

 リボルバーは形だけ。放たれるのは魔力が凝縮された実体のない弾丸。

 境ならそれを操作することぐらい造作もないのだろう。

 これはそれを想像できなかった私の、油断が招いた敗北だ。

「引き分け、かな」

「冗談。内容的には私の負けです」

 二人隣り合わせて寝転がった冷たい地面。

 破れた服を元通りにする気力すらなく、なんだか眠くて仕方がない。

「早く手錠わっぱでもかけて連れて行ったらどうです」

 押し寄せる疲れと眠気の中、腕を伸ばして境に問うと、彼はひらひらと力なく手を振り、疲れ切った様子で問いに答えた。

「それこそ冗談だろ。それが出来ないから引き分けだって言ってるんだよ」

「早くしないと私、逃げちゃいますよ」

 悪戯っぽく笑って見せるが勿論そんな元気が残っているはずもない。

 私を襲う空腹は、力を使い果たしたことと、死が迫っていることを教えてくれているような気がした。

 そうしてしばらく間を置いて、ぽつり、境の口から出た言葉は冷静でいて大真面目、決して冗談なんかじゃないようなトーンの低い声。

「逃げても構わないさ」

 真っ直ぐ、天井を見たままで答えるその視線の先では、橙色の灯りがゆらり、ゆらゆらと揺れていた。

 辺りから聞こえ始めるのは小さな小さな鳥の声、どうやら朝が近いらしい。

「何を……」

「お前を捕らえてどうするのか、分からないのに加担するのはどうかと思ったんだ」

「ふふ……」

 そんなの今更ではないか。

 顔を高潮させ、溢れた笑いはからり、清々しいものだ。

 無理矢理に体を起こして立ち上がれば境は驚いたように目を丸くした。

「立てるのか」

「ええ、ギリギリ、なんとか」

 境、楽しかったですよ――

 一言呟き虚空を見上げる。

 私の予想ならそろそろ彼女が来るはずだった。

「境くん、お疲れ様。お手柄だわ」

 現れた女の髪が靡いて尻尾が揺れる。

 目はにこにこと細められ、唇は弧を描く。

 口調も表情も優しげなのに、彼女の纏う空気だけは初めて会った時と同じ、重苦しい空気だった。

「一体どうして……」

「雨華ちゃんも、頑張ったわね。さ、行きましょうか」

 ゆっくり、私の目を見つめたまま歩みを進め、そっと彼女に顔を包まれた。

 慈しむように触れられた頬が撫でられる度、熱を帯び、私の意識を奪っていく。

「クー子さん! 待って下さい!」

「貴方も治療しなきゃね」

 体はどんどん熱くなるばかり、まるで思考を奪われてしまったみたいだ。

 どうしてどうしてを繰り返し、気付いた時には暗闇の中、耳に入るのは優しげな、クー子さんの声だけになっていた。

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