“えん”もたけなわではございますが…… 後編
火照った身体を夜風が冷やす、終電前の大通り。私は小鹿さんの肩を借り、ゆっくりゆっくり歩いていた。
やってしまった。酔い潰れた挙句にこのような形で小鹿さんを頼ることになってしまうとは、今度こそ迷惑を掛けてしまった……。これでは理彰に叱られてしまうではないか。ああ、なんて情けない。
「大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫です……でも、ちょっと息苦しいですね」
息をする度、ふわり、彼女の香りが鼻をくすぐって、一歩足を踏み出す度、揺れる脳はぐわんぐわんと私の思考をかき乱す。
人間は酔った時にその人物の本性が垣間見えるという。では、人間ではない私の場合はどうだろう。私の本性……それは差し詰め、仙狸としての本能、といった所だろうか。
そして、なんとタイミングの悪いことか、今の私はお腹が空いている。腹の底から湧き上がるのは、捕食本能、抗うのは、理性。しかし空腹には敵いっこないと、どろどろと溶けていく私の、人間としての皮。
「……小鹿さんは可愛いですねー」
私の口は、手は、私の意思とは関係なく動き、言葉を紡いで肩にまわす手に力を込める。ああ、いけない。私は今、小鹿さんを食べてしまおうとしているのだ。お腹が減って仕方がない。すぐ隣の小鹿さんの精はどんな味なのか気になって仕方がない。漂う香りから察するに、甘くほろ苦い、菓子のような味か……。
顔を近付け覗き込み、食べちゃいたいですと微笑みかければ小鹿さんは顔を赤らめ、困ったように息を吐く。
「はいはい――」
いつもならここですぐに精を頂けるのに、小鹿さんの場合はそうはいかないらしい。私の言葉をさらりと流す彼女は笑顔、背中から伝わる温もりは心地良い。彼女が軽く背中を叩けば、ふっと体は楽になり、私は理性を取り戻す――なんてことを、と。
人間らしくなっただなんてとんでもない。私は仙狸、所詮は化物。どこまでいっても、どれ程生きても私は仙狸でしかないのだ。
「あっ……えっと……流石に冗談ですよー」
「流石に冗談だってわかってます。ほら、歩いてください」
冗談ですと慌てて誤魔化せば、大人しくしてと背中を叩かれ窘められる。それでもその手、言葉……小鹿さんが優しいから、私は申し訳なくなってしまうのだった。
「すみません……ありがとうございます……」
「いいんですよ。さ、行きましょう――」
口に出した謝罪と礼は心からのもの。気にしないでと私に声を掛ける彼女の笑顔は穏やかだ。なんだ、彼女の方が私なんかよりずっとずっと大人ではないか。私を気遣うようにゆっくりと歩みを進める彼女はまるで聖人君子。朗らかで柔らかい、小娘なんかではない、素敵な女性――
思えば随分と彼女も変わったものだ。いつの間にか笑顔が増えた気がする。例の彼と恋人同士になってからは特に余裕が出来たのだろう。人を恐れなくなった、と言ってしまうのは可笑しな話だが、でも確かにそうなのだ。
「小鹿さん、人間らしくなりましたねー」
それは、ジョンさんの言葉。彼は私に人間らしくなったと言った。きっと小鹿さんもまた同じ、と私は思う。最初に会った小鹿さんは作り物のような女性であった。人畜無害、当たり障りのない会話をし、決められた言葉だけを話す機械のような、そんな存在――しかし、今は違うのだ。彼女は幸せそうに笑い、嬉しそうに話す、ごく普通の女の子――
そして彼女が別の顔を見せてくれるようになったのは、私達の仲が深まったからなんかではなく、もっと別の……そう、小鹿さん自身が変わったからに違いない。もしかしたら、件の男性との出会いも関係しているのかもしれない。それならば、実に健全、実に良い傾向である。
不思議そうに首を傾げ、目をぱちくりする彼女に、自分自身が変わったと、そうは思いませんかと問い掛ければ、彼女は小さく頭を振り嬉しそうに微笑むのだ。
「変わった、ってよく言われますよ。でも、それはミケさん含む、皆のお陰ですね」
ありがとうございますと頭を下げる彼女のなんと律儀なこと。よもやここまで感謝されるとは思っておらず、私もなんと返せばよいのか分からない。
「……感謝されるとやっぱり嬉しいです」
酔いを、体の火照りを、さますように吹く風は気持ちがいい。体も幾分か楽になったようだ。目を伏せ俯き頬を掻き、それでもやっぱり顔は熱く、私は照れているのを隠すように彼女から離れて前へ出る。
「私も小鹿さんに感謝してることがあるんです。日本に来てから、初めて仲良くしてくれた女の子は小鹿さんでした。一緒に帰ったり、ご飯を食べに行ったり、すっごく楽しいです!」
私と、初めて仲良くしてくれた人間の女の子は小鹿さんだ。人と仲良くなることが出来た。こんなに嬉しいことはあるだろうか。
「いつもありがとうございます」
小鹿さんと同じように頭を下げてから、真っ直ぐ見据えた彼女の瞳。目を合わせるのは得意ではないが、彼女なら平気だと、そう思った。
立ち止まった交差点、夜の都会は眩しく明るく派手やかだ。走り去る車が風を起こして髪を揺らす。小鹿さんへひとつ、微笑みかけてみると、彼女は私に駆け寄り手を差し出した。
「これからもよろしくお願いします。ミケちゃん」
これは、握手……だろう。やっと、友達になれた気がする。今までとは違う呼び名、そして彼女の咲き誇るような笑顔が眩しくて、私の胸はいっぱいだ。
「こちらこそ。よろしくお願いします――」
青信号と横断歩道、握りなおした手は温かい。走りましょうと駆け出せば、街に響くヒールの音。大きな通りを駆け抜ける、二人分の笑い声。私はそれが楽しくて、私の心は今までにない程に満たされていた。
じゃあ、また――理彰を見つけた駅の中。小鹿さんと手を振り別れて並ぶのは、眉間に皺寄せた彼の隣だった。
「お迎えありがとうございます」
「酔いすぎだ」
小鹿さんの隣も良いが、理彰の隣はやはり居心地がいい。酔っていて幾分か大胆になっているようできゅっと理彰の腕に絡み付いてみせると、彼は顔を赤らめ目を逸らし、離れろと私の肩を押し返した。
「私ったらこーんなに積極的なんですよー?」
「止せ、顔を近づけるな」
「もう、堅物過ぎて困りますね」
「お前が軽いのだ」
押して押されて、押し問答。指先で触れた理彰の頬は、赤みを帯びて熱を持つ。覗いた瞳はゆらゆら揺れてなんだかんだで動揺しているのだから、これは効き目があるのだろう。
「かわいいところもあるんですねー」
それからもう一押しとばかりに伸ばした手は、理彰の頬を撫でるはずだった。しかし、するり、解かれる手と離れた体、一瞬のうちに視界から消えた理彰を探せば何事もなかったかのように私の先を歩いているではないか。
待って下さいと追いかけて、再び並んだ理彰の隣。彼は大きな溜息を吐くと、私に左手を差し出し、手を繋ぐだけにしろ、と一言。
その場から逃げるように向かった地下鉄のホームでは、
「先程の娘が見ていた。店の奴に知られたらなんと茶化されるかわからん」
と決まりが悪そうに頭を掻く。なるほど、店長ならともかく、ジョンさんに知られたら確かに厄介だ。私と一緒に歩く中年男性なんて理彰か富陽ぐらいなもの。小鹿さんがついうっかり話してしまったらそれが最期、話はどんどん広まってしまう。理彰だって富陽にどれ程茶化されるかわかったものではないので、人前では控えた方がいいのだろう。
でも、それだけで話が終わってはつまらない。ちょいと手招き、ぴんと背伸び、こちらへ顔を寄せた理彰に囁いたのは
「おうちでならくっ付いてもいいんですか?」
の一言。この問いに理彰はそうではないと頭を振り、数歩離れて私を見下ろした。
「じゃあなんだっていうんですー?」
からり、笑顔のそれは、なんてことはない、いつもの調子の憎まれ口のつもりだった――
しかし見上げた先、理彰もいつもの仏頂面なのに様子はどこか、おかしくて、心はざわざわ、ざわつくばかり。
ああ、私は酒に酔っていて、理彰の変化に気付けなかったのだ。
「思慮が浅いと言っている。少しは物事を良く考えてみろ」
そう言った、理彰のその表情が、言葉が、怒りを意味していたのだと、私はやっと理解した。
「お前は仙狸、本来は人を食らう化物だ。良くも悪くも人を引き寄せる力がある。慎みを持て、付け入る隙を与えるな。お前のその行動は獲物を誘引しているのと一緒だ」
彼の、心底呆れ果てたという表情にじわり、胸に広がる不安は暗く重たく冷たい色――
しかし、それでも、私にも言い分はあるのだ。そもそも私がべたべたと接するのは理彰だけであり、そしてそれは理彰のことが好きだからである。誰彼構わずそう接している訳ではない。
「私、そんな軽く――」
「人を食らいたくなることはないか」
そうして、俯き声を荒げた私の言葉を遮るのは理彰の突き放すような一言。冷たく言い放たれたその言葉は、鋭く尖って胸に突き刺さり、どきり、心臓が一度大きく跳ねる。
「お前は人間ではない。人食いの衝動に抗えるか。抗えると、本能を抑え込むことが出来ると、そう断言出来るか」
まるで、さっきの私と小鹿さんを見ていたかのような言葉はずきずきとした痛みを生み、心臓が脈打つ度に頭に響く。
そもそもの話、私が店で働くことになった理由は、私に人間について学ばせる為。私に付いていた見張りには私を追手から守るだけではなく、私が人間に危害を加えぬように監視し、問題があれば理彰に報告する役目もあったのだろう――
理彰は語る。今の時代、人と妖が近付き過ぎると碌なことにならないと。
「昔と今では妖に対する認識が違う。勿論、それぞれの価値観もだ。少しの綻びが大きな争いとなるだろう。いいか、今の俺達が目指しているのは共存であって、共生ではない」
履き違えるなよ、と、理彰がそう言ったのと同時にホームに到着した電車。乗り込めば大勢の人の中で妙な静けさが寂しくて、最早言い訳する気にもならず、私はただただ車内案内のモニターを眺めていた。
知っていた。私は人間ではないこと。
分かっていた。私は人間にはなれないこと。
手に入れたのは人と同じ見た目の身体。中身が人間とは違うことぐらい、とうの昔に気付いていた。
精を食べるということは、人の命を奪うということ。殺さぬことを覚えたとはいえ、精を奪われた人間には多少なりとも影響が出る。だから私は出来るだけ人と同じものを食べて生きられるようにしていたというのに、衝動的に湧いてきた捕食者としての本能は酷く惨く残酷なもの。私が言った食べてしまいたい、の一言は理彰にとって冗談では済まされない程のものだったのだ――
結局気まずい空気のままに帰宅して、潜り込んだベッドはひんやりと冷たく気持ちが悪い。気付かれぬように覗き込んだ理彰の表情、相も変わらず険しくて、私の胸はきゅうと鳴く。
にゃあ、溢れた声は寂しさの表れ、小さな前足で理彰の腹を押してみるのは、何か、声を掛けてもらいたかったから。
「雨華、もう店で働かなくともよいのではないか。仕事なら本部にもある」
控えめに甘えた私の頭を撫でた理彰の手つきは優しいもの。声音だって優しいのに、言葉の意味は、少なくとも私にとっては厳しいものだった。
理彰は言う。人のことを学んだのならそれで良い、人と近付き過ぎる前に一度離れるべきなのだと。點田店長も春には異動が決まっているようで、その後任にはジョンさんが就くらしい。
「忘れるな。お前は人を食らう者だ――」
そう、私は人食い。人間とは捕食者と、被捕食者の関係――これまでの生き方も違えば寿命も違う。どれ程仲良くなった所で本当の意味で分かり合えることはないのかも知れない。
「しばらくは自宅で待機だ。良いな」
念を押すような一言に、私は何も言えなくなってしまう。全く、理彰の言う通りだ。私は悪いことをした。
元々、捕縛された時の扱いだって御伽噺で見るような囚われのお姫様とは程遠く、それはまさに罪人のそれと同じようなものだった。その後、理彰と富陽に助けられた時だってそうだ。殺されなかっただけ良かったというもの。それどころか住む所に食事、職まで用意してもらっているのだから、感謝こそすれど理彰の命に背くなどとはとんでもない。
しかし今回こそはまた別で、私は理彰の言うことを聞けそうにない。黙って背を向け目を瞑り、思い起こすのはつい一週間前の話。境との、約束だ。
「理彰――」
ごめんなさい――謝罪の意味はきっと分かっちゃいないだろう。ちくり、痛む心に蓋をして、私は朝をただ待つのみだ。




