“えん”もたけなわではございますが…… 前編
群れるのは好きじゃなかった――都会の居酒屋、卓の隅、私はちびちびと日本酒を嘗めながら皆の様子を眺めている。
人ともっと仲良くなりたい、まさかそんな風に思う日が来るとは思いもしなかった。
今日は小鹿さんの恋が成就したお祝いにと、皆で集まっての飲み会の日。卓に並ぶのはホッケにたこわさ、ホタテに唐揚げ……どれもおいしい食べ物ばかりで食べ過ぎてしまいそう。それでも私は普通の人間、溢れる食欲を抑えて抑えて、升の酒をぐっと飲み干した。人間の振りをするというのはどうしてこうも大変なのだろう。不便極まりない――
そんな私がご馳走を目の前に一人葛藤している中、主役である小鹿さんはというとジョンさん凛子さんに囲まれて質問攻めにあっている。なんでも彼女、彼に手料理をご馳走したらしく、やれ反応はどうだったとか、やれ彼はどんな人なのかと、似たようなことを何度も何度も質問されているのだから気の毒だ。
「ジョンさんも凛子さんも、その辺にしといたらどうっすか」
「なんだよ紳士振るつもりかー?」
「ホントは気になるんでしょー?」
ほら、芋丸さんが止めに入ってもこれだから酔っ払いというものは救えない。
「えっと……」
小鹿さんの顔がほのかに赤いのは酔っているからか照れているからか、もじもじとしながら言葉を濁す彼女は可愛らしい。それに、困っているように見えても幸せそうだからついつい構いたくなってしまう気持ちが私にもわかる。
さりげなく隣に席を移し、幸せそうですねと声を掛ければ、小鹿さんは耳まで真っ赤にして頷いて、それから私にサラダを取り分けた。
「皆さんのお陰です」
彼女は謙虚である。気取らず、驕らない。このような女性を確か、大和撫子と言ったか。物腰は柔らかく、それでいて彼女はよく気が利く女性だから、きっと相手の殿方も素敵な男性なのだろう。小鹿さんから香るのは小鹿さんのものと思われる甘酸っぱい香水と、その彼のものであろう、ほのかなタバコと紙の匂い。それは理彰とも富陽とも違う、大人の男性の匂いだった。
「年上の殿方はやっぱり素敵ですか?」
そんな私の問いに控えめに答える小鹿さんは笑顔。
「ええ、私にはもったいない、って思っちゃうぐらいです」
枝豆を摘み、もじもじと言葉を紡ぐ彼女は照れたように頬を擦り、それを聞いた凛子さんはなんて羨ましい、とジョッキを片手に管を巻く。
やはり、年上の男性に惹かれる女性は多いらしい。かく言う私も……と、人間と一緒にしていいものかとは悩む所だが、実際問題理彰も年上の男性には変わりない。
「やっぱりそこらの小僧よりは年上の男性ですよね」
わかりますと頷いて、たこ焼きをひとつ口へ放り込めば、私へ一斉に集まる視線。一体何がと順繰りに皆の顔を見回せば、凛子さんが身を乗り出して私に問い掛けた。
「ねえねえ、ミケちゃんは何歳なの? ミケちゃんも年上の人が好きなの?」
「あっ……」
余計なことは何も言うまいとしてきたが、どうも酒が入って口が軽くなっていたようだ。慌てて口を抑えてももう遅く、気になる気になると詰め寄られて頭は真っ白しどろもどろ。助けを求めに視線を送ったジョンさんはというと「テキトーに誤魔化せ」なんて口を動かし、顎をしゃくるだけだから無責任だ。
全く、少しくらいフォローしてくれてもいいではないか!
「ええと、何歳、に見えますかねー?」
こちらから、逆に問うての愛想笑い。その場しのぎの問いだがこれで考える時間も出来たもの。皆の解答に首を振り、使わぬ脳をフル回転。
そもそも私が書いたとされている履歴書にはなんと書いてあるのだろうか。
契約書には?
届出には?
碌に読まずに返事をしてしまったことが悔やまれる――
「俺よりも、年下……?」
「うそうそ! お酒飲んでるし、私と小鹿ちゃんと同い年ぐらいじゃない?」
「大人っぽい所があるので年上では……?」
何か設定を考えておけば良かった。皆を適当にあしらいながら飲む酒はまずいなんてもんじゃない。素性がバレるなんてことはないと思うが、これでは善良な人間を騙しているようで気分が悪いではないか。
そうしてそわそわとする身体と心を誤魔化すように頻りに酒を煽り、追加の注文をした頃だ。溜息をついてから口を開いたのがジョンさんで、彼はジョッキをテーブルに置き、そろそろ止めてやれよとやんわりと制止するのだった。
「誰にも知られたくないことのひとつやふたつあるだろう? その代わり、ミケちゃんの好きな人についてはじゃんじゃん質問してやれ」
「ジョンさんちょっと待――」
冗談じゃない冗談じゃない。ちょっとでも助かったと思った私が阿呆だった!
「わあ! やっぱりミケちゃん恋してるの!? 素敵!!」
「え、えっと……!?」
「年はいくつぐらい?」
「よ、四十……そこそこ……?」
「大人! かっこいい?」
「渋くて……かっこいい、ですよ?」
好きな人の年齢、職業、顔に体格、声についてに至るまで、矢継ぎ早に飛んでくる質問はどう考えても捌ききれない。ジョンさんは悪戯っぽく笑って私を見ているばかりで助け舟を期待するだけ無駄だろう。
ああ、顔が熱い。恥ずかしい。こんなことを話すつもりではなかったのに――
「すみません! ちょっとお手洗いに!」
もう勘弁してください。真っ赤な顔を抑えて立ち上がり、逃げようとした時だ。私の体は力が抜けてしまったかのようにふにゃり、倒れ、そこで私の意識は途切れた。
そうして気が付いた時には居酒屋の隅、壁際の薄くて固い座布団の上。私はぐったりと横たわっていた。
「よう、気が付いたか?」
起き上がり壁にもたれ掛かる私の顔を覗き込んだのはジョンさんで、悪いな、と彼は謝り水を差し出す。ひんやりしたグラスが気持ちよく、顔を寄せれば熱った頬が冷えていく――
「ちょっと話が気になってみんなを煽っちまった」
頭を掻き、苦笑いをする彼の視線の先には小鹿さんたちの姿。ご迷惑をお掛けしましたと頭を下げると気にするななんて肩を叩かれる。
「いいってことよ。酒で失敗するなんて人間ままあることだ。現にあいつらは何も気にしちゃいないだろ?」
「あ……はい」
ジョンさんが親指で指し示した背後、小鹿さんたちは楽しげに談笑をしていたから本当に良かった。
確かに、言われてみればそうかも知れないのだ。幸い私は何か酷い粗相をした訳でもないみたいだし、彼女達は既に別の話題で盛り上がっている。迷惑を掛けられたなどとはこれっぽっちも思っていないようである。
安心しました――そう言って受け取った水を飲み干し一息つけば、穏やかな微笑みを浮かべるジョンさんと目が合う。すると彼は良かったと呟いて、それから小鹿さんたちと私と、交互に見比べた。
「なんです?」
「いや、随分と人間らしくなったもんだなぁってな」
「何を――」
「知ってるか? 初めて会った時のミケちゃん、人を心底見下したような顔してたんだ。くだらない、って。今はもうそんな顔をしていない。人間へ対する意識が変わったのか、それともただ慣れちまっただけなのか。そんなのはわかんねーけど、でも、前よりはずっと良い――」
私の言葉を遮って、そう言った彼はグラスを傾け、頷き、笑い、それから私にスマートフォンを手渡した。画面には理彰の名前、どうやらメールが着ていたようだ。
「まあ、そんなこと言われてもって感じだよな。それよりも、ほれ、ミケちゃんの大好きなまさあきさんからのメールだ」
「はっ……大好きなんかじゃ……!?」
なんてこと……私の心臓が大きく跳ねた。この人は私が理彰のことを好いていると知っていてあのように皆を煽ったのか。意地が悪い、信じられない。
「酷い……!」
「まあ待て、誰も聞いちゃいないさ。お兄さんにまさあきさんとのことを話してみるといい」
「貴方みたいな小僧がお兄さん? 可笑しな冗談は止してもら――あれ」
憤りを感じるままに勢い良く立ち上がり、どきどきと脈打つ心臓を押さえつければくらり、眩暈を催した。少し休んだものの、まだ酔いは醒めていないようで、なんだかとってもぐらぐらする。
「おっと……こりゃ大変だな。おい、終電組がいたらミケちゃんを頼む――」
完全に飲み過ぎた。視界はおぼろげ意識は朦朧、ジョンさんの言っていることすらよくわからず、かろうじて聞き取れた部分に対してジョンさんはと問うてみると、彼は馬鹿言えと頭を振る。
「ミケちゃんを潰したなんて知られたら俺が怒られるだろ。金は俺が払っとくし駅までの安全も本部の奴が確保してるはずだから、後は誰かに肩を貸してもらえ」
「ええ……」
ぐらぐらと揺れる頭はこれ以上の思考を許さない。残った意識も途切れ途切れ、霞んだ視界の先には私に手を差し伸べる小鹿さんの姿があり、私はその手に縋り付いた。
「ごめんなさい……小鹿さん」
「いいんですよ。平気ですか――」
彼女の肩に手を回し、ゆらりゆらりと歩くのはなんだか少し安心する。気を付けてと掛けられた声は遠ざかり、またねと手を振る皆の姿ももう見えず――
私は小鹿さんに身を任せ、ぼんやり理彰の待つ駅までの道を歩いていた。




