貴方には内緒 前編
このままではいけない――思い立った午前九時、理彰は既に起きていて、茶杯を片手に新聞を読んでいた。
ゆっくりゆっくり忍び寄り、大きな背中に飛びかかれば、ひらり躱されあしらわれ、私は理彰が差し出したクッションの上に倒れ込む。流れるような一連の動作はまるで背中に目が付いているかのようで、なんだかとっても悔しかった――
「なんでですか!」
「なんだ騒々しい」
「気配を消して忍び寄ったのに!」
「お前が良からぬことを考えているのがありありと伝わってきた」
「酷い!」
「串刺しにされなかっただけでも良いと思え」
茶を飲み紙面に目を落とし、淡々と答える彼はからり、さばさば、いつも通りの理彰と言えよう。そのまま彼の隣に腰を下せば理彰は新聞を折りたたみ、何の用だと私に問うのだった。
「何か用があって声を掛けたのだろう?」
「あ、はい! あのですね――」
自ら動かなければ始まらない。皆の前で偉そうに色恋沙汰のあれこれを語っておきながら、私は何も出来ていないではないか。
そう思って理彰に持ちかけたのがデートのお誘いで
「お出掛けしましょ」
と理彰の服の裾を摘み、簡潔、率直、シンプルに、尚且つ可愛くおねだりすれば理彰は首を縦に振ってくれる……はずだったのだ。
おかしい、絶対おかしい――服の裾をちょこんと摘んで、小首を傾げて上目遣い……この仕草は男性を誘う為にあるとドラマの登場人物が言っていたのだ。間違いない。どこからどう見ても今の私は完璧だったはずだった。
なのに理彰からの返事は「駄目だ」の一言。文字にして僅か三文字。これはあんまりにもあんまりではないか!
「なんでですか!?」
「昨日のことを忘れたか。何かがあってからでは遅いのだぞ」
「守ってはくれないんですか……?」
「自ら危険に飛び込む阿呆がいるか」
「けち」
「甘えても無駄だ」
やいのやいのと押し問答。口を尖らせ擦り寄るも、なんともない顔で引き剥がされてしまうから全くもって面白くない。
理彰相手にかわい子ぶっても無駄であったと、ごろり床に横になり、私は不貞腐れたようにそっぽを向いた。思えば、理彰という男はそういう奴なのだ。
今までどれ程甘えても見向きもしてくれないし、勇気を出してぴたり、身を寄せても顔を真っ赤に染めて、はしたないと私を叱るばかりだったではないか。理彰は、真面目過ぎるのだ。
どうしてこうも面倒臭い男を好いてしまったのだろう。つまんないと仰向けになって理彰を見上げれば、彼は頭を振って立ち上がり、どこかへ行ってしまうから本当に本当につまらない。
それからしばらくして戻ってきた理彰が手にしていたのは私の茶杯で、これでも飲んで落ち着けと、差し出されたのは花茶だった。
「なんですか、お茶くらいで機嫌が取れると思ったら大間違いなんですから……」
悪態付いて茶杯を手に取り、一口飲めば広がる香り。水分は寝起きの体、五臓六腑に染み渡り、なんとも気持ちの良いことだろう。
ふう、と息つき瞬きすれば、落ち着いたか、なんて私の顔を覗き込む理彰の瞳。かちり、目が合えば私の心臓はどきりと跳ねる。
「おとなしくしていられるな?」
「……嫌ですよ。こんなものじゃ、懐柔されないんですから――」
そうして目を逸らした私を見つめていた理彰がどことなく優しげだったから、私はまた、どきどきしてしまうのだ。
調子が狂う――猫舌な私の為にと理彰が淹れてくれたお茶は温めでとても飲みやすく、機嫌をなおせと出された茶菓子はとても甘かった。
好きだと伝えてしまえれば、どれ程楽なことだろう。人にはあれ程偉そうに語っておきながらこの様だから情けなくて参ってしまう。
しかし、それでいいのかも知れない。どうせ来週には私の行く末が決まるのだ。今想いを伝えても、報われたとしても、そうじゃなくても、伝えなかったとしても、別れることになってしまえば全て同じ。ならば私は傷付かないよう、想いは心に止めておこう――
そっぽを向いて溜息溢し、自嘲気味に笑ってみても虚しさだけが心に残る。私は本当に素直じゃない。だからこそ、不安も好意も押し殺し、からり、笑ってみせるのだ。
「ありがとうございます」
歯を見せた笑顔は精一杯のもの。
それでも私の顔の横、しゅんと垂れ下がる髪はどこまでも単純だ――
「……何か、あったのか?」
ほら、元気じゃないと理彰に見抜かれてしまう。切れ長の瞳はどこまでもまっすぐに私を見つめ、彼の前で嘘は無意味なものなのだと、そう感じさせられてしまう程である。
「どうしたのだ」
「あの……その……」
理彰の再度の問いかけに、何か、答えなければと、口を開けど言葉は出てこず、視線は泳いで定まらず……ほとほと困り果てた私がもう全て話してしまおうかと、諦めかけたその時だ。理彰は私の頭を撫でて、外に行くかと立ち上がった。
「へ……?」
「気晴らしに外に行くぞ」
あれ程渋っていたのに、急にどうしたというのだろう。それに、理彰が話の骨を折ることはほとんどなく、話題を逸らすのは大変に珍しいのだ。
どうしたのかと首を傾げてみれば、理彰はもう一度、今度は私の頬を撫でてこう言った。
「話し辛いのだろう? ならば今は話さずともよい。でも、そうだな……お前が本当に困っている時は俺が力になろう、それだけは覚えておいてくれ」
先程とは違う、慈しむような瞳も、頬を包む手も、何もかもが温かい。赤く染まる頬は熱を帯び、動悸はひどくなるばかり。
小娘でもあるまいし、今更何をどきどきしているのだろう。そうは思っても、私はそれが嬉しくて、幸せだった。
「……はい!」
理彰の手を握り立ち上がり、向かう先はどこだろう。ワイドショーで見た話題のお店に遊園地、行きたい場所は沢山ある。
胸を躍らせお洒落して、何となしに開いたポシェットの外にしゃらり、光るのは釵。思えばこれを使ったのはあの日、クー子さんと出会うことになった日か。大事に、とは言い難いが、常に持ち歩いているのに使わずにいるのは少々勿体無い気がして、それを手に取り眺めていれば、貸してみろと理彰の声。
これはいつかと同じ流れ――大きな鏡に映るのは、頬を染めた私と理彰。髪を梳いては持ち上げて、慣れた手つきで纏め上げられた私の長い髪が頭の上でさらさら揺れる度に、私の心はときめいて、やはり恋は厄介であると胸が痛んだ。
「ほら、できたぞ」
「ありがとうございます! あの――――」
「ああ……よく似合っている」
可愛いですか――問い掛けた言葉に理彰は柔らかく微笑んで、鏡越しに目と目が合う。恥ずかしくてすぐに目を逸らしてしまった私を見て、理彰は何を思ったのか。何か不満だったかと、困ったように私に問うのだから面白い。
「全然! 満足も大満足ですよ。さあ、理彰。出掛けましょう!」
そう言ってぎゅっと握る理彰の手。引っ張って、連れ出したのは扉の外――
気持ちの良い空の下、並んで歩く街は賑やかだ。吹き付ける風は冷たく、繋いだ手は温かい。行く先など決めちゃあいないが、当てもなくふらふらと歩くのも悪くはないだろう。
「満足するまで付き合ってやる」とは隣を歩く理彰の言葉で「満足なんてするものか」とは理彰を見上げた私の本心だ。
「私を満足させて下さい」
そう言って悪戯っぽく笑えば理彰は眉を顰めて首を振る。
「断る」
しかし口元は楽しげに弧を描き、彼は満更でもない様子。それは私の冗談が通じている証拠であり、理彰も楽しんでいる証拠。嘘を吐けない彼のことだ、きっと私のことも嫌いではないのだろう。
心弾んで足取り軽やか、手繋ぎ歩く駅までの道――私は今、幸せだ。




