まだまだ仙狸の夜は明けぬ 後編
冷えた空気が気持ち良い。充足感は心地の良い疲労となって現れて、私は眠気を催した。ぐっと大きく伸びをすれば、頭上にはうっすら明るい夜明けの空が広がっている。
あの後、居酒屋を出た私達は遊戯施設へと向かい、卓球、撞球、それからダーツにボウリング……とにかく一晩中はしゃいで騒いで遊び倒したのだが、人の世というものはなかなかどうして面白いではないか。
見たことのない機械に、知らない遊び、気の合う仲間と美味しい食事――私はそんな時間が楽しくて、迎えた朝と別れの時間は、やっぱり少し寂しかった。
「きっと叶います」
別れ際、私が小鹿さんに掛けた言葉は、彼女の恋は成就するという勘と祈りと励ましと、上手くは言えない私の想いを一緒くたに詰め込んでの一言で、それを聞いた小鹿さんは頑張ってきます、なんて笑って答えて手を振った。彼女の吹っ切れたような表情は、夜明けの空のように清々しい、実に爽やかな笑顔。しゃんと伸びた背筋と真っ直ぐ歩く姿は美しく、素敵な女性そのものだった――
皆を見送り理彰の迎えを待つ駅前。目の前に着けられた車は理彰のもので、ドアを開けて乗り込めば、眉間に皺を寄せた如何にも機嫌の悪そうな理彰と目が合い、彼はひとつ、小さな溜息を漏らす。
「お迎え、ありがとうございます……。ええと……」
やはり、怒っているのだろうか。礼は言ったものの理彰は相変わらず黙ったまま、私はなんだか気まずくて、ただただ窓の外を眺めることしか出来なかった。
長い信号待ちの交差点、理彰は低く、小さな声で私に問う。
「――仕事の前、どこに行っていた」
私が居なくなったという連絡は、やっぱり届いていたらしい。私を咎めるような言い方ではないが、理彰の前で嘘は吐けそうにない。
「人間の男に襲われそうになったので逃げていました」
窓の外を見つめたままに、顔は見せないように答えれば、理彰はそうかと呟いて、それからゆっくり、淡々と続ける。
「人間の男が妖魔に襲われた。男は人を殺めて全国を逃げ回っている指名手配犯だったそうだ。お前が言う人間の男とはそいつで間違いないだろう」
「それは……私がその男を襲った妖魔だと疑われているということですか?」
理彰の言い方は優しくない。それでは私が人を襲ったみたいではないか。
反射的に振り返り、視線を理彰に移せば、はたと一瞬、目が合って、そうではないと逸らされる。
「それじゃあどんなつもりが……――」
理彰が悪い訳ではないというのに思わず感情的になってしまったのは、別に責めようと思った訳でも傷付いた訳でもない。ただ、私は焦っていたのだ。
「この話は他言無用」
と境が言っていたことを思い出す。
このままでは境と会ったこと、話したこと、全てを話さなければならないような気がして、全て見透かされてしまいそうで私はそれが怖かった。
「あ……」
ごめんなさいと口を噤み、再び窓の外に目を向けた私の頭を撫でたのは大きく暖かい理彰の手。何事かと恐る恐ると振り返れば、そんなつもりではなかったと逆に謝られてしまうから始末が悪い。
本当は隠し事をしようとしている私が悪いというのに、優しくされたら辛くなってしまう。
「あの――」
「無事で良かった」
口を開いて言葉を紡ごうとすれば遮られ、あまり心配させるな、と理彰は私の髪を梳く。いつもであれば大きな溜息と共にお説教が始まるのだが、今日はどうやら違うらしい。
「食事は、楽しかったか?」
「はい、とても……」
「そうか、それは良かった」
ぽつり、ぽつりと会話を交わして、理彰は微笑み前を向く。
青になった信号と、ゆっくり発進する車――ハンドルを握る理彰の横顔はどこか物憂げでいて物言いたげ、私はそこから目が離せずに、ただただじっと見つめていた。ああ、こんなはずではなかったのに――
家に着いても会話はなく、理彰はただただ俯くばかり。私の心はごめんなさいとでも言うように、締め付けられてきゅうと鳴く。
いっそ気付いてくれていたらいいのにと、見つめた理彰は黙ったまま。どろん、化けて猫になり、飛び乗った膝の上。理彰に身を寄せ甘えて鳴けば、私の体は抱き上げられた。
「りしょ……?」
すぐ目の前に理彰の顔。どきり、大きく跳ねるのは、小さな三毛猫の小さな胸。
それから理彰は再び私を膝の上に乗せると、私の頭を撫でながら良かったと一言呟いた。
「お前の身に何かがあると、青路が言っていたのだ。助けてやれなくてすまなかったな」
そうして理彰が語るのは、昨日の昼にあったこと――私の身が危ないと聞いた時には既に全てが終わった後、丁度私が境と話を終えたぐらいの時間だろうか。
大狼さんからの連絡で現場に急行するもパトカーが数台止まっているばかりで私の姿は見当たらず、そこへタイミングよく掛かってきたのがお店からの電話だった、らしい。
「お前の無事が確認出来て良かったが、やはり安心はできなくてな。昨夜はあまり眠れなかったのだ」
そう言って困ったように笑う理彰は私を抱き上げベッドへ向かう。一眠りするぞと言われるがまま横になればどっと疲れが押し寄せた。
皆との夜はあんなに楽しかったはずなのに、理彰に優しくされるのもこんなに嬉しいのに、ちくり、私の胸は痛む。
とうに昇った朝日はカーテンに遮られて見えそうになく、部屋の中はまだまだ深い夜のようだった。
せめて今は休ませて――
尻尾を揺らして理彰に体を擦り寄せて、闇の中へ溶け込むように微睡み意識は薄れてく。




