まだまだ仙狸の夜は明けぬ 前編
頬を染め、恥ずかしげに自らの恋を語る小鹿さんに、酔って管巻く凛子さん。芋丸さんとジョンさんは、話を聞いているのかいないのか、腹拵えと言わんばかりにうどんを啜っている。
お店の営業終了後、恋愛相談の名の下に始まった飲み会は私の想像していたものとは全く違っていた。
一体どうしてこうなったのか、話は数時間前に遡る――
寄り道をしてしまったのにも関わらず、いつもよりうんと早く到着したバイト先、小鹿さんがやってきたのは私がメールを送ってからすぐのことだった。
“じゃあバイト後にでもどうですか”
小鹿さんに送ったメールは夜遊びのお誘い。お酒を片手にゆっくり語らうのは女子会、といっただろうか。雑誌で読んだ楽しげな響きにわくわくしてしまう。
美味しいものを食べながらお話をして、朝まで語り明かすのだ。ころころ転がる話題の中で、彼女の何を知れるだろうか、それはきっととても素晴らしく有意義は時間なのではないか、私はそう思っていた――
だがしかし、そうするには問題がひとつ――それは理彰のことだ。
見張りを振り切りどこかへ消えたなどと伝わってしまっては、夜遊びなどそう簡単に許してはもらえないだろう。
それに、魔術師、境が言っていた。女狐に気を付けろ、と。クー子さんは飽くまでも善良な狐である。理彰が動かずにいるのがその何よりの証拠だが、二人の仲は良好とは言えないもの。用心するに越したことはない――
それではどうしようかと頭を捻り、唸ってみても埒は明かず、私が向かったのはカウンターの奥、キッチンだった。
「理彰に叱られたくありません!」
「おいおい、どうしたってんだよ」
助けて下さいと縋り付いた先はジョンさんで、小鹿さんが事情を知る前に、といっぺんにことを話せば彼は勘弁してくれと首を振る。
「まさあきさんを誤魔化すのは無理だ。相手が悪い、諦めろ」
「どうしても今日じゃなきゃ駄目なんです!」
一週間後には私の身柄がどうなってしまうのかが決まるというのに、悠長なことは言っていられない。境との約束があるのだから、今日でなくてはならないのだ。
そこをなんとかと強請ってせがんで頼み込み、ちらと見上げたジョンさんは、仕方ないとひとつ溜息をついてスマートフォンを取り出した。
「店の集まりってことにしてやるから、小鹿ちゃんの許可取ってこいよ」
「わあ! ありがとうございます――」
小鹿さんが優しい子で本当に良かった。二人のはずの食事会はジョンさん達も集まって、居酒屋のテーブルの上はもうお料理でいっぱい。こうして私達の夜が始まったのだ――
「あの、先日のデートなんですけど……」
畏まったように正座して口を開いた小鹿さんが語るのは、先日のデートの顛末。
街を歩いてケーキを食べて、夕食までご馳走になった小鹿さんに飛んできたのはお泊りのお誘い――それも自ら強請ったようなものだと話す彼女は頬を染め、軽率でしたと俯いた。
「私、何も知らなかったんです――」
彼女は何も知らなかった、というのは、相手の男性のことである。結局何も起きず、起こさずに一夜を明かし、迎えた翌日、男性の部屋に飛び込んできたのは慌てた様子の若い女性。これに驚いた小鹿さんは、何の話も聞かずに部屋を飛び出し、そのまま今日まで、殆ど連絡も取らずに一週間経ってしまったということらしい――
「つまり好きな男性に女の影が、ってことですかー?」
「はい。私つい逃げ出しちゃって……」
そう言って焼酎を飲みながら溜息を吐く彼女はやはり元気がなく、だがしかしその様子はずっとずっと素直で素顔の小鹿さんだった。
それにしても、その男性も男性だ。どうしてこうも気遣いというものが出来ないのか。恋人でもない若い女の子を部屋に連れ込んだ挙句にそこへ別の女が乗り込んできたとは、なんという修羅場だろうか。
泥棒猫、の一言ぐらいは飛び出してきてもおかしくはないその状況、私なら一体どうするのだろう。
理彰と私の家に女性が来たら……?
いや、それは有り得ない。私は理彰に好意を示しているとはいえ、彼がそれに気付いている気配はない。それに私達は恋人未満どころか友達ですらなく、強いて言うなら同居人か……兎に角今の私達の関係に名前をつけることなど到底できそうにないのだ。
何より私は小鹿さんではないし、考えるだけ無駄か――そうしてなんとアドバイスをしていいのか分からずに、少々乱暴に、ぐっと飲み干した甘い果実酒。グラスをテーブルに置いて、顔をあげればどうやら酔いが回っているらしく、くらり、私の体は揺れる。
何か、彼女に助言出来ればと口を開くも言葉は上手く出てこない。少々飲みすぎたかと思った頃には頭はぼんやり、視界は霞み、その間にも話題は流れて消えてゆく。ああ、こんなはずではなかったのに――
どのくらい経っただろうか、気付いた頃には小鹿さんもすっかり出来上がり、凛子さんと共に恋愛談義を繰り広げていた。
「好きな人はいるのに真意がぜんっぜんわからないの!」
嘆く凛子さんもどうやら意中の相手がいる様子。私含め、恋する女というものはどうしてこうも迷ってしまうのか。
突貫してしまえば全てはっきりするというのに、それが出来ないのは臆病だからで、全く、心というものは実に厄介だ。
「やっぱり自分でなんとかしなきゃ駄目ですよね……」
私の向かい、顔を真っ赤に染めた小鹿さんが酒を飲み干し、ひとつ呟きグラスを置く。それから慣れた様子で追加の注文を済ませると、困っちゃいますねと力なく笑って見せた。
本当、彼女が寂しそうな顔をしていると私も困ってしまう――
「私的に言えば最後はがっつり相手の懐に飛び込むくらいの気持ちでいけばいいと思いますけどねー」
なんとか彼女の力になりたい。そう思って口を開いてみたものの、だいぶ酔ってしまっているか、どうも呂律が回らない。
ぼんやり考え事をする小鹿さんと、バタバタとボールペンを取り出して箸袋にメモを取る凛子さんを横目に水を飲み干し、再び口を開いて話すのは、私の勘に基づいた、なんとも曖昧な恋愛論だ。
「そこそこ仲の良い、友達以上恋人未満の関係なら最後の一押しはやっぱりはっきりした言葉か、これでもかってくらい分かりやすい行動の方がいいと思うんです。凛子さんの方の話は聞いていないのでわかりませんが、小鹿さんの好きな人はほぼ間違いなく、小鹿さんに気があります。これでもし小鹿さんが拒まれたりしたらそれは相手の男性が悪いですね。えっとつまり、付き合う気もない女の子を勘違いさせるようなイケナイ殿方だった、ってことですねー」
それは仙狸の勘のようなもの、と言ってしまえば酷く胡散臭いものだろう。しかし、件の男性は間違いなく小鹿さんのことが好きなのだ。
下心があれば小鹿さんを家に泊めた時点で何かが起きているはずではないか、毎日飽きずに小鹿さんと会うだなんて好きでなければ出来ないはずではないか。これで駄目なら相手の男は優しいを通り越して相当に鈍いか愚図かのどちらかだ。
そうして思い浮かべてしまうのは理彰の顔で、ああ、理彰もこれぐらい分かりやすければ、私もこれぐらい素直になれれば良いのにと、私は皿の上の唐揚げを、むしゃり頬張り貪った。
我ながら良いことを言ったのでは、と満足げに追加の酒を頼んだものの、小鹿さんはどうだろう、さっきよりも思い悩んだ表情だからいよいよどうしていいのか分からない。
「安心してぶつかってきて下さい」
焦ったままに口から飛び出した言葉も無責任極まりないものだったが、どういう訳か、小鹿さんは嬉しそうに笑って見せるのだ。
「ありがとうございます」
と――
それがなんだか気恥ずかしく、私は頭を掻いてただただ頷くばかりだったのだが、そんな私達をにこにこと眺めていたのが凛子さんだった。
「ミケちゃん、楽しそう」
はて、そんなに楽しそうなものか。解せないと黙っていれば、私が今とても良い表情をしていると言って彼女は微笑んだ。
「ええ、小鹿さんとは仲が良いですから――」
ああ、多分、これは私が小鹿さんに感じているものと似たものだ。取り繕うように言葉を口に出した後、芋丸さんと談笑する彼女に目を向ける。好きな人の話をする小鹿さんはなんだかんだで幸せそうで、それは作り物ではない、本当の彼女の顔に違いない。
そして今の彼女の表情は、以前、一緒に食事に出掛けた時に見せてくれたものよりも、ずっといきいきしてる。
それならば、私もまた何か、変わってきているということだろう。理彰に恋をして変わったとか、そうではなく、人間が好きだと気付いたからだ。
昔々、私を救い出してくれた彼が死んだと知った時から、私は人を信用せず、関わらず、ずっと一人で生きてきた。
愚かな生き物だと人を見下し、憎み、そして恐れて、決して深入りせず、彼らは飽くまで私の糧なのだと割り切って生きていこうと決めたのだ。
それが今ではどうだろう。精を食らうことはあれど人を食い殺すことは止め、人と共に働き汗を流し、こうして卓を囲み笑い合うことが出来ているではないか。
それは私の進歩であり、成長である。ならば私はもっと彼らと仲良くなれる――
「ええと、皆さんとも、仲良しになりたいです」
ぐるりぐるぐる、巡る思考の流れを止めて、照れながらも伝えたものは私の本音。
勿論と頷く凛子さんの奥、ジョンさんは安心したように表情を綻ばせ、仕切り直しとグラスを持って、良い顔をするじゃないかと私に目配せをした。
再びの乾杯の音頭と、楽しげな笑い声――
閉店後でも夜は終わらず街へ繰り出し遊び倒し、そうして私達の夜は明けていくのである――




