憂う猫の昼下がり 後編
何故志麻と境は私達と敵対するのか――
彼らの二度の襲撃はそのどちらもが私達を狙ったもの。何を奪う訳でも奪われる訳でもない、なんてことのない戦闘だったが、彼らは探し物があって私達を襲ったのだという。
境が目を伏せ、視線はコーヒーカップに落としたままで話し出すのは己の目的のことだ。
「……雨華、だったかな。志麻ちゃんと俺の探し物は、お前そのものなんだ。でも捕らえること自体が目的じゃあない。捕らえて引き渡す、それが俺達の、いや、俺のやろうとしていることだ」
一言一言、ゆっくりと話した境だが、その言っている意味は私にはよくわからない。
私を捕らえる?
引き渡す?
誰に?
眉間に皺寄せ首傾げ、ひとつ唸って考えて、それでも理解ができないから詳しく話を聞くほかあるまい。
もう少し話してもらってもいいですかと身を乗り出せば、どこから話せばいいだろうか――と、そんな出だしの境の身の上話が始まった。
「ただの昔話だよ――」
境は天涯孤独の身であった。
僅か九つ――小学生の頃に両親と、それから五つ年下の弟を失い、それからは親戚の家を転々としながら生きてきたのだ。
「土曜日、俺が学校に行っていた間だった。車で事故に遭ったらしいが、遺体なんて残ってなくてな。生きてるのか死んでるのかも分からないような……そいつは事故として扱うには不自然な点が多過ぎるもので、どのニュースでも新聞でも、報道されることはなかった――」
まるでねじ切れてしまったように大破した車に残っていたのは、弟が好きだった特撮ヒーローの玩具と母親が持ち歩いていた御守り、父親が身に付けていた眼鏡と境への土産物だったのだろう、丁寧に包装されたプレゼントの箱――
そのどれもが血に塗れ、欠け、歪み、くしゃくしゃになった状態であったという。
「それからは一人で生きれるようにって、必死だった。出来るだけ迷惑を掛けないように家事も覚えた、バイトもした、弟が大好きだった正義の味方になりたくて警官にもなった。そうやってがむしゃらに、過去を振り払うように生きていた時に、俺はとんでもない話を聞いた」
「とんでもない話、ですか」
境が聞いたとんでもない話――
それは警官達の間でまことしやかに囁かれている、ただの噂話。しかし境にとってはそうではなく、いやに現実味のあるものだったそうだ。
世の中には不可解でいて非現実的、到底説明がつかないような事件が数多くあるらしい。神隠しなどがそれに当たるようで、また、それらの事件は公になっていないものの方が多い。
そして、それを引き起こしているのは人ならざる者である――
これが噂話だ。巷に溢れるニュースの中の一部だったり、それからそのニュースの裏、誰も知らない所でひっそり処理されている事件、そこには妖魔の影がちらついているんだとかなんだとか……最初こそ境も馬鹿にしていたようなのだが、ある日の話は決して馬鹿にできないもの。
その会話に出てきたのは境のよく知る、忘れたくとも忘れられない話――
ある一家がだだっ広く真っ直ぐな、見通しの良い道路で起こした事故の話だ。それは相当な衝撃だったのにも関わらず、何かにぶつかった形跡も、ブレーキ痕もなく、酷く損傷した車だけがぽつりとあるだけ。
血にまみれた車内には人の姿は見当たらず、また、車外からの血液反応は一切ないような、そんな不可解な事故だった、らしい――
それは境の家族のことだろう。境は卓上で握り締めた拳を、苦々しい表情で見つめ、そこから訪れたのは暫しの沈黙。時計の針の音だけがこの狭い店内で、やけに大きく響いていた――
「ああ、すまない。少し感傷に浸ってた。続きだな。それは俺の家族が起こした事故の話で間違いはなかったよ。他にも遺体が見つからない不可解な事故や事件は多くてな。そこで初めて、人ならざる者の存在を意識し始めたんだ――」
それから境が始めたのは独自の調査。仕事の合間を縫って手当たり次第に資料を漁っては読み耽り、目撃者はいないかと街を駆け回る日々が続いた。だがしかし、それらは機密も秘密、トップシークレットだ。
結局なんの手掛かりも掴めぬままに行き詰まり、自暴自棄になった境の前に現れたのが、自らを魔法使いと名乗る少女、志麻と、ある女。
「志麻ちゃんのことは置いとくとして、女の方は俺のことをさも知っているかのような振る舞いでな。弟はまだ生きてる、なんて言っていたよ」
志麻は、今までただの普通の人間として暮らしていた境に魔術師としての力を与え、女は境がこれからすべきこと、進む道、そして人に危害を加える妖魔がいるということだけを教え、後は志麻に全てを任せて姿を消したそうだ――
「女はなんでも知っていた。俺の家族構成から職業、それから俺の弟の行方……どうやら、弟はこの世界にはいないらしい」
なるほど、それならあの日、妖の街で彼らと出会ったことにも納得がいく。あの時の探し物とは、私と、境の弟のことだろう。
私はふうと息を吐き、話の続きと問い掛けた。
「それで貴方達はあそこに侵入したんですね」
「ああ、驚いたよ。本当に俺達の住む世界とは別に世界があったんだからな」
「そうですね」
しかし、それにしても解せない。弟捜しの為に私を捕まえる理由である。私に恨みを持つ者が弟の情報と引き換えに私の身柄を要求しているのか、私を幽閉していた組織の者なのか――
境の話では本題である部分が全く見えてこないではないか。
「貴方のことはよく分かりましたから、そろそろ本題に入ってもいいですか。私を捕らえようとしている者の名を教――」
急くように口を開いた私だが、どうしてだろう、心がざわざわする。爪先は落ち着かぬと言わんばかりに床を叩き、跳ねた髪がヒクヒクと過敏に揺れるのだ。
何か、この先の話を聞いてはいけないような気して、これ以上は言葉が出ない。境はそんな私の様子を見てかカウンターの奥、店主であろう男性に声を掛け、ひとつ注文をした。
「すまない、今日のケーキもらえるか?」
「何のつもりです?」
「甘いものでも食おう。俺も話すには少々勇気のいる話なんだ――」
程なくして運ばれてきたのはチョコレートケーキだった。初老の店主が笑いかけ、ごゆっくり、とシルバーを置いていく。
バイト前でもあるというのに、時間はあるがそうそうゆっくりもしていられない。いただきますと手を合わせ、ケーキを口へ放り込むとチョコレートの苦味。
大人の味ですね、と感想を述べると意外や意外と境は目を丸くした。
「なんです?」
「礼儀正しい妖魔なんだなぁと思ってな」
「何も礼儀正しいのは私だけじゃないですよ。食前食後の挨拶は基本中の基本です。ましてやこんなにおいしいケーキをご馳走になっているこの状況下、無礼を働ける程私は腐っちゃいません」
慇懃無礼、と境が呟いたような気もしたが、今はこのケーキを食べることに集中していたい。ほんのりと広がるのは酒の香りか、それはファミレスで食べるものとは全く違う、中々においしいケーキだった。
「そろそろいいか。そのまま、食いながらで構わないから話を聞け。それと――」
そう言った境が取り出したのはボールペン。紙ナプキンにさらさらと書かれたのは“この話は他言無用だ”の一言だ。
「わかったか?」
「は、はい……」
訳も分からずに頷いて、尚も文字を書き綴る境の右手に視線を落とせば、“狐”の一文字が目に入る。
“女狐に気を付けろ”
女狐、それが私の知っている彼女のことだとするのなら、それはなんということだろう――
境達に私を捕らえるよう、指示を出したのはクー子さんだった。理由は境も志麻も知らない、告げられていないのだ。
ただ、その時の境達は私のことを人を食い殺す化け物、家族の仇であり、弟の行方を知っている、捕らえなければならない存在だと、固く信じていた、信じ込んでいた、らしい。
「でも、思い込みだったよ。俺も志麻ちゃんも、大事なことはなにひとつとして聞いていないんだからな」
話す境の手元では、さらさらペンが走っていく。記す言葉は境の知る限りの真実だ。
クー子さんが何をしようとしているかは分からないが、とにかく私のことを欲しがっていた。私を連れて来れば弟は見つかると、境達の前から姿を消すその時に、彼女は言ったらしい。
なんておかしな話だろう。これでは境の弟が人質のようではないか。
「じゃあこれから私を引っ捕らえるつもりで?」
ケーキを食べ終え頬杖ついて、ひとつ睨めば、境はまさかと頭を振る。
「いや、今日は話をするだけだ。きちんと話してみたいとは思っていたんだよ。心配性の志麻ちゃんに会いに行くことは止められてたけどな。だからたまたまでも会えてよかった」
「そうですか、まったくあの小娘らしい」
それは心配、という名の嫉妬、だろう。気付かぬ境は相当鈍い。いや、明確な好意を示さない志麻も志麻か。なんだか小鹿さんのことを思い出してしまう――
カップに残った紅茶を啜り、不意に見上げた柱時計、時間は三時のちょっと前。どうやら長居し過ぎたらしい。
「ええと、すみません。話は聞くだけ聞いたので私はこれで失礼します」
ここからバイト先まで、どれ程掛かるか知らないが、早めに出ても損は無い。
急いで立ち上がり財布から小銭を取り出して、足りますかとテーブルに置けば、俺が出すから構わない、と境。
「円を持っているのだな」
「妖魔が霞でも食って山の中で暮らしてるとでも思ってるんです? 着る物にも食べる物にも住む所にもお金が掛かるんですから、私だってバイトぐらいしますよ」
使い慣れないスマートフォンを取り出して、バイト先までの道を調べていると、こりゃ驚いたと本日幾度目かの驚きの表情を見せた境が私を見ているのだから落ち着かない。
スマートフォンぐらい私にも使えるのだから、あまりじろじろ見ないで下さいと背を向けて、開いた地図を見てもどこがどこだか分からない。首を傾げて画面を傾け、端末相手に悪戦苦闘、四苦八苦――
「……店長、ちょっと大通りまで送ってくる」
「いってらっしゃい」
ほとほと困り果てた私を見兼ねたか、境は大通りまで送ってやると歩き出す。手を引かれて困惑する私をよそ目に、後ろからはありがとうございました、なんて店主の声。
結局断り切れずに二人で歩く路地裏は、飲食店の換気扇が多いのか、なんだか妙な匂いでいっぱいだった。
歩く境の横顔を見上げ、なんとまあお人好しなことかとひとつ溜息を吐く。私が家族の仇である可能性もあるというのに、境を食ってしまうかも知れないというのに、どうしてこうも優しくできようか――
「逃げなくていいのか? このまま引っ捕らえて引き渡すことも出来るんだぞ」
私を見下ろす境が不思議そうに問えば、腹の底から笑いがこみ上げてきた。
ああ、そういうことか。口に手を添え肩を震わせ笑えば、何がおかしいと境が眉間に皺を寄せていた。
「お互い様ですよ」
境は、信用出来る男なのだ。そのような卑怯な真似はしないだろう、と。そして境もまた信用とまではいかないが、私のことを疑ったりはしていない。
それなら私もひとつ好機を与えてやろうではないか。続けた言葉は、きっと理彰に叱られてしまうような、そんなものだった。
「貴方が私に全てを話してくれたので、私はそれを信じます。だから、そうですね……次で最後にしましょう。捕まるのは御免なので勿論抵抗はしますが、それでも私はもう逃げません。貴方が私を捕らえられたら貴方の勝ちです。貴方もいい加減に真実を知りたいのでしょう?」
これではまるで果たし合い。理彰はきっと止めるだろうけど、これが一番いい方法に決まってる。
ひたすら逃げに徹することも出来るだろうに、とは境の口から溢れた言葉。全くもってその通りだが、それではあまりにも境が報われないではないか。
「いいですか、別に貴方に絆された訳じゃありません。もう貴方達と関わるのは嫌だからここらで希望を打ち砕いてやろうと思っているだけです。さて、貴方さえ良ければ、の話ですがどうでしょう?」
境はクー子さんを信用していないし、弟のこと、家族のことを諦めかけているのだ。進退窮まる、というのなら私が引導を渡してやろう。
意地悪く笑って境の顔を見やり、どうしますかと再度の問い掛けは、一言で遮られる。
「ああ、乗るさ」
正々堂々、というのは悪くない――そう言った境は笑っていた。
狭い路地もここまでで、目の前はもう大通り。無事に私を送り届け、踵を返す境に私は声を掛けた。
「あの、我儘かも知れませんが、一週間程、待っていて下さい。私も私でやらなければならないことがあるので」
「妖魔ってのも忙しいんだな」
「ええ、お友達の恋を応援しなきゃいけないんです――」
さて、私も一仕事。今日の仕事は小鹿さんと一緒。声を掛けるなら今日しかなく、あの時見栄を張ってしまったからにはやはり、彼女の力になりたいのだ。
そうして取り出したスマートフォンには小鹿さんからのメール。相談があります、だなんてタイミングが良くて嬉しい限り。私は境の方へ向き直り、それじゃあまたと手を振った。
「今日は助けてくれてありがとうございました。それとケーキ、ご馳走様です。一週間後に決着をつけましょう――」
私は、人間という生き物に絆されてしまったのだ。境の言う通り、どこまでも逃げてしまえば楽なのに、それができないのはやはり人間が好きだから――
今まで多くの人間を食らってきた罪滅ぼし、という訳でもないが、私は人の力になりたかった。




