憂う猫の昼下がり 前編
月曜日が帰ってきてから一週間。少女、ちえの願いが引き起こした怪奇は“銀時計事件”と称されて、ことりさんにより報告書としてまとめられた。
それから、少女について分かったことがひとつ。どうやらちえはあの父親と血が繋がっていないらしい。魔法使いである母親は、数年前に亡くなっており、同じく魔法使いである彼女の実の父親は消息不明。
その為、ちえは魔法の何たるかをよく知らぬままに成長してしまい、その結果が件の銀時計事件だ。
それではなんとも不安な話だが、今後は少女が大人になるまで、様子を見ながら物事を教えていくつもりでいるのだと、サイさんが教えてくれた。
とりあえずの所、これが私の知る限りの、銀時計事件の話である。
それにしても、折角いつも通りの日々が戻ってきたというのにどうしてだろう、私はなんだか落ち着かない。
というのも、最近小鹿さんの様子がどうもおかしいのだ。
デートだったという日以降、彼女はどこか疎疎しい。
一緒に帰ることの多かったバイト上がり、彼女はそそくさと帰ってしまうし、会話の内容も当たり障りのないもの。
誰かがデートはどうでしたか、なんて聞こうものなら俯いたまま、楽しかったですと力なく答えるだけである。
これはいよいよおかしいと心配になったものなのだが、アドバイスしてしまった手前、自ら触れるのは非常に怖い。結局私は何もせず、小鹿さんとは必要最低限の会話のみで過ごしていた――
なんだか嫌われてしまったような感覚に溜息が出る。被害妄想のようなものだとは分かっちゃいるのに、時折酷い虚無感に苛まれるから困ってしまう。
本当に溜息を吐きたいのはきっと小鹿さんの方なのに――
ぼんやり歩くバイト先までの道――今日は何もする気が起きなくて、いつもよりずっとずっと早く家を出てきてしまった。時間を潰そうにも一人で飲食店に入る勇気はなく、かと言って理彰の職場に邪魔する訳にもいかない。
結局私は当てもなく歩いて時間を潰すほかになく、駅の周りをぶらぶらとしていたのであった。
しかしいつの間にやら大きな通りからは遠ざかり、私の知らない細い道。理彰が付けてくれている見張りの者も置いてきてしまったようだ。
そうしてそんな私の前に現れたのは如何にもな……といった具合の柄の悪い男で、ちょっと来いだなんて強引に手を掴まれてしまった。
はて、この者の目的は金か体か。こんな時だというのに、全く、冗談じゃない――
「あまりじろじろ見られるのは得意ではありません」
「えらいべっぴんさんがいるモンだと思ってなァ」
「はあ……?」
一言二言の会話の後、放って置いてはくれないものかと腕を振り解こうとはしてみたが、古いドラマの再放送で観たことのあるこの状況、なかなかにいい暇つぶしになりそうだ。
最近は全く人間を食べていない上、私は自ら飛び込んできた美味しそうな獲物を放って置ける程我慢強くはない。
殺さない程度ならば自棄食いも悪くはないだろう。
据え膳食わぬは仙狸の恥と私が舌なめずりをして男に身を寄せようとしたその瞬間だ――
感じたのは人間のものではない、重苦しく禍々しい気配。一度瞬きをしてる間に目の前の男はぐらり、地面に倒れこんでいた。
「やや……?」
はてさてこれはなんだろう。
どうやら男は気絶しているようで、うんともすんとも言わなければぴくりとも動かない。
男の命にはなんら影響がないことから手加減をしていたであろうことは確かだが、誰がこんなことをしたものか――周囲を見渡せどそれらしき者は居らず、しかし気配だけはそこに存在するからおかしなものだ。
なんにしても、この男をこの場に放って置く訳にはいかない。引き摺って安全な所まで運ぼうかと男の顔を覗き込んだ私の背後には人の気配があり、振り向く間も無く手を引かれ、そいつはそのまま路地を駆け出した。
「なんなんです!?」
「巻き込まれたくなきゃ付いて来い」
一体全体何なのだ。今度は別の男に連れられて、思考がまったく追いつかない。
目の前を走る男の、地を蹴る革靴はどこか見覚えのあるもので、ぴりりと感じるこの気配もやっぱり私の知ってるもの。
貴方はまさかと口を開こうと思えば、背後から迫る轟音と衝撃、頰を掠めたガラスの破片が私の邪魔をし危機を煽る。
なんてことだろう、振り返るのも恐ろしい。聞こえる音は地面が抉れる音にゴミ箱がひっくり返る音、飛んでくるのは金属片――
「足を止めるなよ」
「分かってますよ!」
駆ける男の右手に鞄。大きな傷は……私が付けたものだ。
間違いない。声、気配、それから鞄を放り投げて取り出した拳銃とそいつに込められた魔力。この男は魔術師、境だ――
「頭、下手に動かしたら死ぬから気を付けろよ」
それから境は背後を一瞥もせずに引き金を引き、ぐるり、体を反転させて、私を庇うように前に出る。私も同じく振り返れば、すぐそこに餓鬼ともまた違う、大きな体と太い手足を持つ異形の者。
境の放った弾丸が命中したのだろう、耳を劈くような妖魔の咆吼はビルの隙間、狭い路地裏に響き渡り窓ガラスを震わせる。その断末魔は怒りか哀しみか、空を突き抜けるような、大きな声だった。
騒がしいな――そう吐き捨てた境が消えゆく妖魔を見送って、怪我はないかとこちらに向き直る。
「私は大丈夫なので!」
これ以上面倒事に巻き込まれてなるものか。そう思って顔を伏せてみたが逆効果。大丈夫かなんて覗き込まれてしまったからもう逃げられない。
「お前は……」
「あはは、助けてくれてありがとうございます…………えと、戦わないと、だめですかね……?」
愛想笑いをして後退り――まだ時間があるとはいえ、これからバイトもあるのだから勘弁して頂きたいもので、そのまま背を向け逃げ出そうとしたが腕は掴まれ身動きが取れない。
「ごめんなさい忙しいから後にして下さい!」
「そんなのいいから捕まりたくなければ来い!」
やっぱり面倒事は避けられないのか。
境と共に駆け出せば、私が今逃げようとした方向から聞こえたのはパトカーのサイレンと人の声。
「なんてこと……」
すぐにでもやっつけてしまえるような人間一人と国家権力、どちらが面倒なのかと考えればそんなものは明白だった。
都会の路地裏の奥の奥、ビルの一階、一角に、ひっそり佇む喫茶店。流れる音楽はジャジーなサウンドで、カウンターの中には眼鏡を掛けた白髪頭の男性が一人、流れる音楽に身を任せて微睡んでいる。
電気がなければ真っ暗になってしまう程に暗く狭い店内の隅、テーブルを挟んで向かい合った私と境は宛ら容疑者と警察官。繰り返される問答はドラマで観た取り調べのようだった。
「何もしてないんだな」
「だから何もしてないですってば! いいですか、私は道に迷っていた所を柄の悪い男に襲われたんです! そこであの化け物がやってきたんですよ!」
信じられない!
どうやらこの男、妖魔は私が呼び寄せたものだと思い込んでいたらしい。
まったく、疑り深いのもいい加減にして欲しいと思いのままを吐き出して、代わりにと冷めきった紅茶を飲み干せば、境はすまんと頭を下げる。
カップを置いた私と境の間、妙な沈黙が流れ、今度は境が、気まずそうにコーヒーに口を付けた。
「……悪かったな。よく考えればお前がそこまで悪い奴だとは思えない」
「物分かりのいい子ですねー。信じてもらえて助かりました」
「上から目線が癪に触るな」
「事実私の方が年上なので」
静かな店内、会話を交わして向かい合った境は、少々長めの髪を掻き分けて大きく切れ長の目で、怪訝そうに私を見ていた。
「どこからどう見ても年下だが……?」
「あのですねぇ。私は人間じゃないので、貴方よりずっとずっとお姉さんなんですよ」
分かりましたかと人差し指を立て、境を上から下までをじっくり、見定めるように眺めてみれば、彼は私が思っていたよりは若くない。長い髪と大きな目のせいか、最初こそ随分と大人びた小僧だと思っていたが、それはどうやら間違いだったらしい。
まあ、それでも小僧だということに変わりはないのだけれど、とひとつ息を吐いた私は、彼がもの言いたげに私を見つめていることに気が付いた。
「なんですか?」
「ああ、いや……実は、この間の少女と、志麻ちゃんの件で礼を言いたかったんだ。俺はまだ礼を言ってなかったからさ。ありがとう」
「はい……?」
――なんということ、耳に飛び込んできた感謝の言葉はまったく想定外のもので呆気に取られてしまい、私は碌に返事を返すことも出来なかった。
「俺達は臆病だった。彼女の幸せを壊すような、彼女にとっての悪役にはなりきれなかったんだよ」
そうしてぽかんとしている私をよそにぽつりぽつりと喋る境は随分と感傷的で、また、随分と人間らしい。
ただ――
「何を今更。明確な理由も告げずに攻撃を仕掛けるのは悪役のやることではないのですか」
なんだかとってももやもやする。鼻で笑って嘲るつもりがあった訳でもなく、飛び出したのは純粋な疑問だ。
志麻とこの男、境は一体何の目的があって私達と戦ってきたのか。
「貴方達は一体何をしようとしているのですか」
この際、はっきりさせたかったのかも知れない――
しばらく黙り込んでいた境に一歩踏み込むように問い掛ければ、彼はゆっくりと、言葉を選ぶようにして語り始めた。




