銀の時計に少女は願う 前編
大狼さん達と合流した後に向かった旅館では、理彰の説明もそこそこに食事の時間となっていた。
お鍋に煮物にお漬物、刺身蒟蒻に白いご飯――卓上に並ぶ食事は初めて食べるものが多く、そしてそのどれもがおいしいから幸せだ。
当日に予約したにも関わらず、ここまで用意してくれたのだからなかなかに良い宿屋なのだろう。
「いやー、仕事の後の酒は美味い!」
「結局なんの情報も掴めずに一日中ドライブしてただけじゃない……うう、しんどい。それに雪が降ってるだなんて……寒い」
「土曜日は晴れてたらしいんだけどなぁ。まあ雪見酒ってのも悪くない!」
大狼さんは酒を呷り、ことりさんは山道での走行で具合が悪くなったと座布団の上に横になり、そして理彰はちびちびと酒を飲みながら、雪のちらつく窓の外を眺めていた。
「りしょ、考え事ですか?」
「ああ、いや……雨華、お前は感じるか? 先程から妙な気配がする……」
大狼と青路がこの調子では、もしかしたら俺が出ることになるやも知れん――そのように話す理彰が見つめる先、窓の外へと意識を向け、目を閉じ感覚を研ぎ澄ませば、ぼんやり感じる不思議な気配。
それは志麻とよく似た、魔法使いの気配ではあったが不安定で波がある、危ういものだった。
「これがこの騒動の……」
「弱々しい。とてもじゃないが時間をどうこう出来るようなものではないな……」
確かに理彰の言う通り、この程度の力では志麻にすら及ばず、時間をループさせることなど到底不可能だ。
なら、一体どうやってこの状況を生み出しているというのだろうか。
升に口付け酒を流し込み、再び目を瞑るとぶわり、締め切っていたはずの室内に風が吹いた――
「何をしに来た」
視界の端に見えるのは、すらり、綺麗に伸びた足。鼻をくすぐるのは香の香り。
くすくすと笑う声は少女のようであり、理彰が睨みつけた先を見やると柔らかな笑みを浮かべ、ふわふわと髪を揺らすクー子さんの姿があった。
珍しいですね――そう言ったのは酒を飲む手を止めた大狼さん。
確かに、クー子さんも理彰も、互いに関わりたがらないらしいという話を聞いていたので、これは余程珍しいことなのだろう。ことりさんに至っては目を白黒させて、こんばんはと一言挨拶するだけで精一杯のようである。
「こんばんは。久しぶりに会ったていうのに理彰は随分と冷たいのね」
残念そうにそう言ったクー子さんは、どこで手に入れたものだろうか、私達と同じ浴衣を着こなし、しゃなりしゃなりとこちらへ歩み寄ってことりさんの隣、卓の隅の方へ腰を下ろすのだ。
「みんなで温泉だなんて、羨ましいじゃない? ちょっと様子を見に来ただけよ」
「そうか」
クー子さんはことりさんを気遣うように背中を摩り、それから皆に微笑みかけるが、理彰だけは依然として厳しい表情であり、まるで何かを見定めようとしているかのように目を細めるのだから、やはり理彰はクー子さんのことが苦手なのだろう。
その後に訪れたほんの少しの沈黙が、私にはどうしようもなく長く感じた――
相も変わらず穏やかな笑みを浮かべていたクー子さんは、窓の外を見て一言、表情を崩し切なげに呟く。
「切実な願いっていうのはどうしてこうも鋭く尖っているのかしら。胸が痛くて仕方がないわ……――」
都会と違い明かりの少ない山の中、外の世界は漆黒で、窓にはどこか気まずい雰囲気の私達の姿が映し出されている。
そして彼女に何が見えたのか、おもむろに立ち上がった理彰が窓を開け放てば、先程の気配は大きくなり、聴こえてきたのはきゃっきゃとはしゃぐ少女の声だった。
「お父さん! 雪だ! 雪がきれいだよ!」
「あまり走ると危ないよ」
楽しげに笑う少女の声だけが坂を駆け上がり、父親と思われる男性の声が、そんな少女を呼び止める。
彼女の声が近付く程に、不思議が感覚は強くなり、やがてそれは坂の上、丁度この旅館の前でぴたりと止まった。
「まさか……」
理彰は大きく目を見開き、窓の外に身を乗り出す。嗚呼、なんということだろう。
この騒動の発端は、この少女――この、まだ十にも満たないであろう、この幼子なのかもしれないのだ。
窓辺に駆け寄り外を見れば、小さな少女は楽しげに笑い、坂の下にいるであろう父親に向かって手を振っている。
「お父さん! ちえがいちばんだよ!」
「ちえはすごいなぁ。ほら、もう寒いからお部屋に戻ろう」
それはありふれた親子のやりとりだろう。
しかし、それを見つめるクー子さんはなんだかとても辛そうで、あの時、昼間に会った時の志麻に似た、そんな顔をしていた。
「……話を聞かねばならんな。外に行く――」
「彰さん!」
「理彰さん!」
仕事だというのにも関わらず、理彰は珍しく動揺している。大狼さんとことりさんの声も聞かず、浴衣の上、乱暴に外套を羽織って部屋を飛び出して、向かう先は少女の元だ。
理彰を追うように駆け出した私達は、上着を羽織ることも寒さも忘れ、ひたすらに理彰を追うのだった。
理彰は速かった。視界に理彰の背中を収めた頃には、彼は既にちえと呼ばれた少女の前、彼女を見下ろすように立っており、その奥には彼女の父親が柵に腰をかけ、目を丸くして私達を見ていたのだ。
「だれ……?」
声を震わせ怯えたように問う少女は私が想像していたよりも小さく幼かった。
そして何より驚いたのはそんな彼女の後ろ、少女の父親は今にも折れてしまいそうな程に細く、痩せこけている。まるで、今にも死んでしまいそうな程に――
大狼さんが慌てて理彰を引っ張って、少女の側から遠ざける。
「怖がらせてどうするんですか」
「あ、ああ、すまない……」
そうして間に入ったのはことりさんで、彼女はしゃがんで少女に目線を合わせ、怖がらせないよう、柔らかく微笑んだ。
「驚かせてごめんね。楽しそうな声が聞こえたからお部屋から飛び出して来ちゃったの」
お父さんとお散歩かな、ことりさんが優しく問い掛ければ、幾分か緊張が解れた少女は幸せそうに笑ってみせる。
「そう、おさんぽなの。だって雪がきれいでしょう?」
純朴な少女なのだろう。私達のことを疑う素振りすら見せずに笑ってくれている。
どう考えてもこの子が何かをするとは思えなかった。
「雪、好きなの?」
しかし、ことりさんの問い掛けに対する少女の答えは、あまりにも残酷なものだ。
「さむいけど、大好き。まいにち雪あそびしてるんだよ」
毎日雪遊びをしている――間違いなく、彼女はそう言ったのだ。
大狼さんは言っていた。土曜日は晴れていたのだと、これではこの子は異変に気付いていることになってしまうではないか。
この子が異変を起こしていることになってしまうではないか。
それならば、どうしてこの子はこんなことをしたのか。
「お姉ちゃんたちは雪あそび好き?」
「うん、好きだよ。後ろのお兄ちゃんなんか雪が降ると嬉しくて駆け回っちゃうぐらい!」
「そうなの? お兄ちゃん、わんちゃんみたい!」
「わんちゃ……!? いやいや、俺は狼の方が好きだけどなあ。格好いいだろう? がおー! ってな!」
はしゃぐ少女がけらけら笑い、大狼さんの前に立つ。それに大狼さんがぎょっとしたのは一瞬だけで、それから彼は、にかりと笑って戯けてみせる。きゃっきゃと笑う少女は嬉しそうで、なんだか私まで嬉しくなってしまう。
しんしんと降り続ける雪の中、曇り空は思っているより明るくて、思っているより温かかった。
少女は集めた枝を並べ、傍らでは大狼さんとことりさんがせっせと雪玉を転がしている――
「娘がご迷惑をおかけしてすみません」
私と理彰は、困ったような、しかしどこか嬉しそうな少女の父親と並んで座り、三人の様子を眺めていた。
「こちらこそ、急に申し訳ない。寒くはないですか」
痩せ細った彼を労わるように問い掛ける理彰の口調は優しげで、幾分か冷静さを取り戻したようだった。
「寒いですが、ちえの、娘が楽しそうに遊んでいるところが見られるのなら気になりません。自分がこんな体だから最近はなかなか遊んであげられなくて」
外泊許可をもらって家族で旅館に来たんですよと、骨と皮だけの腕で頭を掻き、自嘲気味に笑う彼はうら悲しげで、私は、そして恐らく理彰も、彼の命はもう長くないことを悟った。
人間の命とはかくも儚きものだろう――
志麻も、クー子さんも、少女とこの父親の、悲しい現実に気が付いていたのだ。
私は、もう親の顔すらも思い出せないというのに無性に寂しく、悲しかった。
「せーの、できたー!」
笑い声に釣られて少女に目を移せば、見て見てと手を振る三人の姿。
側に立つふたつの雪だるまは、まるで少女と父親で、木の枝で作られた口は楽しそうに笑っていた。
日付が変わる頃には雪だるまもなかったことになってしまうのだろう――
少女と父親を宿泊先である旅館まで送り届け、大きく手を振り別れを告げて、戻った部屋は酷く静かで寂しくて、私達は片付けられぬままになっている、すっかり冷めきった食事に手を付ける。
食卓にある箸袋に書かれたクー子さんからの伝言、
「サイ君に相談してみるわ」
の一言に希望を託し――




