小鹿と猫 後編
都会はやっぱり人が多い。
一時間程前まで理彰の職場で書類整理の手伝いをしていた私は、楽しんでおいでだなんてみんなに送り出されて駅の中、今は小鹿さんとの待ち合わせ場所で行き交う人々をじっと観察していた。
忙しそうに早足で過ぎ去るスーツの男性、電話を片手にそわそわと落ち着きのない男の子、頻りに前髪を気にする女の子に、私の知ってる、この国のものではない言語を話す集団……待ち合わせ場所の駅の中は人と雑音で溢れていて、なんだかとっても頭が痛い。
待ちくたびれてしまいそうなのに、それでも私がここに居るのは、小鹿さんとのご飯を食べに行く約束をとてもとても楽しみにしていたからだった――
「ミケさん!」
「あ、小鹿さん! こんにちは!」
「こんにちは」
人混みの中、改札方面から現れた小鹿さんは長い髪を揺らして駆け寄り、待たせちゃってごめんなさいと頭を下げた。
「……ああ、いえ、私も今来たばかりなので」
気にしないでください、と口から出た言葉はなんてありきたり。
本当は長いこと待っていたんだけど、と心の中で自嘲気味に呟いて、ふと小鹿さんに感じたのは違和感。
よくよく彼女を見てみると、いつもは高い位置で結われてる髪は下ろしたまま、それは職場で見ている小鹿さんとは違う姿で、足元にはブラウンのブーティ、ワインレッドのフレアスカートにキャメルのコートは大人の女性らしく、髪型服装で変わるものかとつい感心してしまった。
「少し張り切り過ぎてしまいました。それで、ええと、今日は作戦会議、ですか」
「ええ、勿論です」
恥ずかしそうにはにかむ彼女に行きましょうかと微笑み告げて、向かう先は小籠包の美味しいお店。
それは小鹿さんに私のことを少しだけでも、知って欲しくて選んだお店だった。
並んで歩く街は晴れ、今日はいくらか暖かい。
真夜中の唐突なお誘いは、強引でいて不自然なもの、おまけに小鹿さんの恋愛相談に託けて誘い出したようなものだったから、私は隣の小鹿さんが気になって仕方がない。
「私、お店予約したんですよ。小鹿さんは中華料理は好きですか?」
気分を害してはいないだろうかと心配になり、口を開けば、少し考えた小鹿さんは辛いものは得意ではないと苦笑い。
今日行くお店はまさに辛いものが多い四川料理のお店だが、小鹿さんは平気だろうか。不安が顔に出てしまい、今日は小籠包が美味しいお店なのでと取り繕って笑うも時既に遅しというやつだ。
「そうなんですか。私、点心大好きなんですよ」
だなんて小鹿さんに気を遣わせてしまう始末だからなんともお粗末極まりない。
そうしてどことなく気まずいまま入ったビル、目当てのお店では、半個室に二人向かい合ったまま、沈黙が流れていた。
「お洒落なお店ですね」
料理の注文後、きょろきょろと店内を見回した小鹿さんは感心しきった顔で言う。
確かに、卓も花瓶も床も柱も、目に見えるものは全てぴかぴか、ホールからほんの少し見える厨房すらも綺麗だからそこは私も感心するほかなく、それから私もお店のお掃除頑張らないと、と笑う小鹿さんは本当に真面目だった。
「――あの、このお店はよく来るんですか?」
ちょうど料理が届いたタイミング、小鹿さんが私に問うと、一瞬だけ言葉が詰まってしまったように出てこなくなってしまった。
「……同居人に連れて来てもらうことがあるんですよ。値段もそこまで高くないからって教えてもらいました」
同居人――小鹿さんの質問への答えとして使った言葉は、少し距離のあるもの。私が小鹿さんに理彰のことを話す時はいつも、同居人という言葉を使っている。
それは、理彰との関係をなんと言っていいか分からない私が捻り出した、当たり障りのない答えだったのだが、どうしてだろう、その他人行儀そのものな響きを口に出す度に胸が痛んだ。
「どうしました?」
「なんでもないですよ。とりあえずご飯食べちゃいましょう! 熱々が一番です」
不思議そうな顔をする小鹿さんに、笑顔で返し、いただきますと注文した小籠包を口に含めばスープが溢れて肩が跳ねる。
「熱い……」
「ああ! ミケさん平気ですか?」
「平気ですから、さあ小鹿さんも!」
強がりを言ったが、本当はあまり平気ではない。
猫舌とはよく言うものだと、ひりひりする口を水で冷やして滲んだ涙を指で拭い、小鹿さんも食べて下さいと蒸篭を差し出すと、彼女はれんげの上でふうふうと冷やしてから最初の一口を食べた――
「あ……美味しい!」
「良かった。私、同居人以外の人と出掛けるのは久しぶりなんです。だから昨日は楽しみで眠れませんでした」
点心を頬張りながらそう話せば、小鹿さんは小首を傾げて私に問う。
「前から気になってたんですけど、ミケさんはルームシェアをしているんですか?」
ルームシェア、最近流行っているとテレビで聞いたことがある。確か家賃や光熱費を折半して暮らすことだったと思うが……私と理彰は果たしてルームシェアなのだろうか――
「まー、そんな感じですかねー。どっちかというと養われてますけどー」
しばし悩んだ末に答えると、小鹿さんは何かを察したか、何か引っかかる所があるのか、おずおずと口を開く。
「それは――」
「ちなみに彼氏じゃないですよー」
彼氏ですか、と聞かれるのは分かっていた。
食い気味に返した返事は、穏やかではあるが無意識のうちに焦りや苛立ちを込めてしまっていたようだった。
「彼氏じゃないですよ。同居人です。それ以上でもそれ以下でもありません」
そう、理彰は同居人だ。
事実、彼は家族でも、友達でも、ましてや恋人なんかではない。
ぐっと気持ちを抑えつけて、言い聞かせるように呟けば、小鹿さんが私の顔を覗き込む。心配してくれているのなら、彼女はとても良い人間ではないか。
「あの、ミケさん、大丈夫ですか……?」
「小鹿さん、私ね、日本人じゃないんです――」
それから少しだけ、話を聞いて欲しくなって話し始めたのは自分の、ちょっとした身の上話。
もしかしたらこの子ならもう少しだけ仲良くなれるかも知れないと、そう思ったのだ。
「私元々は中国の田舎の生まれなんですよ。山奥で育って、本当に世間知らずなんですけど色々あって世間知らずなまま日本に来ることになっちゃって……それで今は同胞でもある同居人の所でお世話になってるんです」
「そうだったんですね……」
「だから全然、分からないんですよ。メールの打ち方も、日本人の考えていることも。昨日のメールはちょっとだけ同居人に手伝ってもらいました」
そうして話している間、小鹿さんは何を言う訳でもなく、うんうんと相槌を打ち、話を聞いてくれた。
深いことを聞かないその姿勢は、なんとなく有難く、嬉しかった――が、流石に人間ではないなどという、突拍子もない話は出来るはずもない。
サイさんにも、富陽にも、理彰にも止められているのだもの。
私が約束を守らない訳にはいかない。
ただ、それでも、自分がこの地の者ではないことだけは誰か、理彰達以外の人間に知って欲しかったんだと思う。
「話したらすっきりしました。今日は作戦会議のつもりだったんですけどね、ごめんなさい」
茶を飲みぺこりと謝れば、小鹿さんは頭を振って微笑んだ。彼女が首を振るとゆらり綺麗な黒髪が、さらさら肩で揺れていた。
「いえ、そんなことないですよ」
ミケさんのことを知れて嬉しいです、なんて、嬉しいことを言ってくれるから、ついつい私も笑ってしまう。
彼女は真っ直ぐで誠実な、透き通った心を持っている良い人間なのだと勘が告げる。しかし彼女は無に近い。作り物のような表情は、脆くか弱く危うい、彼女の内面を表しているようで、どうしても放っては置けない気がした。
「あの、こじ――」
「ミケさん」
本来の目的は、作戦会議――
小鹿さんの恋愛相談に託けたようだが、人間の恋というものを私は知りたかった。
私の言葉を遮り名を呼んだ小鹿さんは表情こそ笑っているが、どんよりとした陰気臭い、最初に会った時と似たような雰囲気で、どうしましたと聞いてみると、自らの現状、悩みを訥々と語り出す。
小鹿さんが恋をしたのは、職業も、年齢も、名前すら知らない男性だった。
自宅前の自販機に毎晩缶コーヒーを買いに来る、タバコが似合う中年男性。小鹿さんはそんな彼を眺めるのが日課になっていたのだという。
最初こそ、毎晩何をしているのかと気になっていた彼女だが、変化は突然訪れた。
「手招きされたんです。こっちにおいでって」
いかにも怪しげな男性だが、どうにも悪い人とは思えない。小鹿さんが勇気を出して会ってみることにした所、思いの外男性が良くしてくれたので、それから小鹿さんの日課は毎晩その男性とお話することに変わった、というのが彼女の話だった。
「最初こそ、恋だなんてそんな大層な感情ではなかったんです」
引っ込み思案な小鹿さんは、男性と会うようになってからも暫くは碌に話も出来ずにいたのだと苦笑する。
そうして夜に会って、ただ男性の話に相槌を打つだけの不思議な関係だったが、最近その男性と二人で出掛けるという約束を交わしたらしい。
今まで意識していなかった訳ではないのだが、その約束以降はどうしても意識してしまうことが増え、それから昨日の晩の事だ。
指摘されて漸く自分の気持ちに気がついたんです、と小鹿さんは目を伏せた。
「そうだったんですね。すっきりしました。私、勘が鋭いんですよ。だから、小鹿さんが恋をしてるってすぐに分かりました。その人が年上だってことも、すぐに。だからなんでも相談してもらえると嬉しいです」
どうにも見ていられなかったんだと思う――
口から出た言葉に驚いたのは自分自身だった。
「すごいですね。占い師さんみたいです」
目を丸くして、感心しきった表情の小鹿さんは、両手を合わせて感嘆の声を漏らす。なんとも無邪気で可愛らしいが、すらすらと吐いた言葉に私は、責任を持てるだろうか。
「先を見通せる目は持ってないから、意味はないんですけどね」
もし私に、クー子さんのような千里眼が備わっていたのなら、もう少し力になれるのだろうか。
出来る限りの笑顔は小鹿さんの目にどう映るだろうか。
不安を流すようにお冷を飲み干し、それから今一度、小鹿さんの方を向けば、彼女はぎこちなく礼を言う。
「いえ、ミケさんはすごいんです。えっと、それと、昨日はありがとうございました」
「私、お礼なんて……!」
「いえ、私は現実……ええと、自分の想いから目を逸らしていただけだったって気付けました。でも、駄目ですね。意識したら急にお話しできなくなっちゃいました」
どうしたらいいんでしょう、そう言った小鹿さんは今にも泣き出しそうな表情なのに、私は偉そうにアドバイス出来る立場ではないから困ってしまう。
「うーん、そうですねえ……」
ひとつ唸って考えるも、答えは全く出そうにない。
こんな時私なら、どうするだろうか――
「色仕掛けとか、強行策でも取って自分のモノにしちゃえば楽なんですけどねえ……」
そう答えた私は、なんだかんだで男性は性欲には勝てないのではないかと頭の中では思っていた。
今まで食い殺してきた人間の理性なんて簡単に崩れてしまう程に脆かったし、人間を誘い出すことは簡単だったもの。
でも――
「そこらの小僧共ならともかく、堅物おじさんには通用しないんですよねー……」
理彰には通用しないどころの話じゃなく、はしたないだなんて窘められてしまうから始末が悪い。
それから、なんというか、恥ずかしいではないか。
既成事実を作ってしまえば、とは最近観たドラマでヒロインの友達が言っていた言葉で、私にもそんなことが出来ないのだから小鹿さんにはもっと無理だろう。
髪を弄びながら途切れ途切れに呟く言葉は最早独り言で、私の思考はぐるぐる回る。どうすれば小鹿さんは、どうすれば私は、どうすればどうすれば……――
「んー! わかんないです!」
考えることが苦手な私だから、これ以上考えてもきっと、何も良い案など浮かばない。
デザートを食べましょうとばっと手を挙げれば、様子を見ていた小鹿さんはくすりと笑い、私は不覚にもどきっとしてしまった。
彼女は件の男性の前ではもっときっと、こんな感じの自然な顔で笑うのだろう。素直な小鹿さんだもの。
きっと彼女には小細工なんて必要ない。
「小鹿さん、上手に話せないなら、そのまま流れに任せていいと思いますよ」
目を見て話すのは恥ずかしい。品書きで顔を隠し、デザートを選ぶ振りをしながら話したのは、行雲流水の如くなどという、私なりの恋愛論だった。
「世の中にはひっどいにぶちんさんもいるので、それだけじゃなーんにも気付いてもらえないかもですけど、アピールにはなります。
だから、いっそ開き直って恥ずかしくて目を合わせられないんです、って態度でもいいと思います。だってそれって自然だし、なんか可愛いじゃないですか」
それに、小鹿さんが何も話さずとも毎日会いに来てくれるような男性だもの。私のアドバイスは間違っていないはずなのだ。理彰のような堅物相手なら諦めろと言うほかなかったが、そうでないのなら問題ない。まあ、要するに――
「おじさまの手練手管に任せておけばいいんですよ」
少し顔を近づけて、そう囁けば真っ赤に染まる小鹿さんの顔。
ついついからかうのが楽しくて、自分から攻めてみてはどうでしょうかと提案すれば、今度こそ小鹿さんは固まったように動かなくなってしまい、私は慌てて離れて茶を飲んで、冗談ですよと手を振った。
「少し調子に乗りすぎました」
「いえ! 私も少しは積極的にならないと、って思ってましたから」
「こんなこと言っといて変な話ですけど、でも、小鹿さんは小鹿さんらしく、でいいと思います」
「ふふ……ありがとうございます。ちょっとだけ勇気が出ました――」
「お礼なんていりませんよー。でも、恋が実ったらその報告だけは聞きたいかもしれませんね」
くすくすと悪戯っぽく言った私の話を聞く彼女の頬はほんのり赤く、薄紅の唇を持ち上げ、口元に手を添えて、ただ控えめに笑っていた。
「なーんかお腹いっぱいで眠くなっちゃいますねー……」
と言って急かすように店を出た私の腹は満たされてはいない。
あくまで人間、常識外れの大食らいなどということは知られたくなく、このままでは小鹿さんを食べてしまいそうだったので、仕方がなかったのだ。
ぐっと伸びをして空を見上げれば今日は晴天、気温も暖かくどこか春らしい天気で気持ちがいい。
隣を見れば、小鹿さんもまた私と同じように大きく大きく伸びをしていた。
「今日はありがとうございました。それじゃあ、ミケさん、また一緒に出掛けましょうね」
「はい――」
まだ別れるには早い時間、昼下がりの街は賑やかだった。
小鹿さんに手を振り別れた後、私が向かったのは理彰の元。
仕事の休憩時間だという理彰は私を迎えてどうだったかと問いかけた。
「とても楽しかったですよ。小鹿さんも良い子でしたし、恋愛のアドバイスだって出来ました。でもあれはきっと、なんというか、落花生流の情、みたいな感じですね」
「らっかせい……? 雨華、それは落花流水の――」
ぼんやりとした頭で問いに答えて、そこから先は力が抜けてしまったように動けない。あまり眠っていなかったからか、全く頭が回らずに、ただ理彰の腕の温かさだけが心地良かった。




