小鹿と猫 前編
これは恋だと自覚して、動きのないまま数週間。取り分け大きな騒ぎもないまま、理彰との関係も進展しないまま、私はアルバイトに明け暮れる生活をしていた――
理彰にアピールしていない訳じゃない。肝心要の好きだという気持ちは伝えていないが、人の姿のまま一緒に寝ようとしてみたり、それとなく手を繋いでみたり、積極的な方だと思う。
それでも全く理彰には伝わらないから、理彰は本当に鈍いのだ――
例えば家にいる時、冗談めかして理彰にそれとなく迫ってみても
「慎みを持て」
だなんて肩をやんわり押し返されてしまう。
顔を上げれば困ったように眉尻を下げた理彰の顔があり、うっすら染まった頬は、恥ずかしさの表れか。
女慣れしていないであろう理彰のこと、このまま押せばなんとかなるようにも思えるのだが、恥ずかしながら私も乙女というものである。
結局この先の行動に移すことはないまま、あっという間に数週間、という訳なのだ――
それにしても恋は厄介だ。思ったように事は進まないし、他の人など全く目に入らない。今では人の精を啜ることすらままならず、これはきっと恋患いに違いない――
「あの、ミケさん……?」
「は、はい」
アルバイト先、閉店後に頬杖をついてぼんやりと物思いに耽っていた私に声を掛けたのは小鹿さんだった。
アルバイト仲間の中で一番仲が良いといっても過言ではない彼女は、私より一日早くこの職場に入った子で、おとなしくて真面目、仕事も出来るし何より可愛い、つい食べたくなってしまうような女の子。
しかし彼女はなんというか、主体性に欠けるというか、人形のようというか、感情の振れ幅があまりないというか……なんだか作り物のような女性で、私なんかには到底理解できないであろう、悩みを抱えている様子でもあった。
「ジョンさんがもうあがっていいって言ってました。一緒に帰りませんか」
そう言って微笑む彼女はやはりどこか不自然な笑顔。
嘘のような、しかし悪意も下心もない、妙な笑顔だ。初めて顔を合わせた時からずっとそう――私はそれが不思議でたまらなかった。
人間を騙して生きてきた仙狸、それが私。元来、そのような生き物は人間の心には敏感である。
だからクー子さんのように物事を見透かす力はないが簡単な感情ぐらいは読み取れるはず。
なのに、小鹿さんときたら心を閉ざしているのか、会話をしても当たり障りのない返事ばかりで感情が全く読み取れず、会話をしているという気がしないのだ――と、ここまでいってしまうとあまり仲が良さそうには思われないのだろうが、それでも私は小鹿さんのことを気に入っていたし、小鹿さんもまた、私に悪い感情は持っていない、と思う。
何より、小鹿さんはよく努力している子だった。
少々引っ込み思案な所があることは初対面の時に感じ取っていたが、彼女はそれを気にさせないようによく話し、よく動く、そんな女性であり、他の人とあまり関わろうとしない私にも積極的に話し掛けてくれていたのだ。
それは人間だらけで理彰もおらず、何をすればいいのか分からなかった私にはとても有難いことで、気が付けば彼女とよく話し、いつも理彰が迎えに来てくれる駅まで一緒に帰ることになっていたのだ。とはいえ、そんな彼女にも少々の人間らしさは残っているもので、なんと言おうか、この所、彼女は少し挙動が不審なのだ。
そわそわと時計を気にしてみたり、ぼんやりしていたかと思えば突然顔を赤らめてみたり……元々そうだったではないかと言われればそうなのかも知れないが、それでも彼女からは男性の匂いがするし、多分これも恋というものなのだと私は思っていた。
小鹿さん――もし彼女が恋をしているのなら、是非是非私も話したいことがある。そんな小鹿さんとの帰り道、私が切り出したのは彼氏はいるのかなどという、極々ありふれた恋愛話――
「小鹿さん、彼氏いるんですかー?」
「か、彼氏……!? いませんけど、急にどうしたんですか?」
私の問い掛けに顔を真っ赤にしあたふたと両手を振り振り否定する小鹿さんの様子は、尋常ではなくおかしかった。
恐らく彼氏はいないが意中の男性はいるのだろう。ともすれば、彼女もまた私と同じく、片想いの恋をしているに違いない。
もじもじと俯く彼女はなんだか可愛らしく、どことなく顔も火照っているようだ。彼女の熱を冷ますように吹き付ける風は冷たくて、ぼんやりとしたタバコの匂いが風に乗って香っていた。
「なーんだ、勘違いしちゃいましたよ。なんか殿方の匂いがすると思ったんですけどねー」
きっと、他の人は気が付かないと思う程の微かな匂いは間違いなく男性のもので、冗談めかして笑って言えば、何が可笑しかったのか、小鹿さんに笑われてしまった。
「もう! なんで笑うんですかー」
「いえ、お友達の家の猫ちゃんにそっくりだったので、つい……」
口元に手を当てくすくすと笑う姿は良い所のお嬢さんといった具合か、しかし猫のようだなんて言われてしまうのは不本意だ。
よく言われます、なんて返事を返してまっすぐ歩く駅までの道、小鹿さんは取り繕うように、ほんのりと頬を染めて、口を開いた。
「……ああ、でも仲のいい異性はいますよ。彼氏でもなんでもないですけどね」
「じゃあその人の匂いかも知れません」
なんとなくだ。なんとなく人間のことは匂いでわかる。くるくると髪を弄びながらそう言うと、小鹿さんはどうしてなんて目を丸くした。
「勘ですよー」
「そうなんですか」
小鹿さんのものではないこの匂いは小鹿さんの父親のものというには若過ぎて、少し違和感があったから、これで確信が持てたというものだ。
にかりと笑って歩き出した私は、同じように恋をしている女の子が近くにいることが嬉しくて、楽しい――
駅もすぐそこの信号待ちの交差点、小鹿さんはどこか心ここに在らずといった様子でただただ前を向いていて、私は何か、声を掛けなければならないような気がしていた。
「小鹿さん、その人のこと好きなんですねー」
下から顔を覗き込むように一言問い掛けると小鹿さんは眉間に皺寄せ手を顎に当てると考え込むような仕草を見せる。
「好きとか、そういう恋愛感情じゃないですよ。まあ、一緒にいるのは凄く楽しいですけどね……」
そう言った彼女はしばらくしてから表情を綻ばせ、きっと恋ではないんです、と控えめに笑ってみせた。
「勿論どきどきすることはありますけど、その人は私の好みのタイプとは違うんです。私は男性に対して免疫がないですし、自意識過剰ですから、だから違うんですよ――」
とはいえ、果たしてそうだろうか。
小鹿さんの顔は真っ赤で、その彼のことを語る表情は嬉しそう。どこからどうみても乙女のそれだから微笑ましいのだ。
「ふふん。小鹿さん、やっぱりそれ恋ですよ!」
「何を……!」
違います、違いますと否定する彼女を照らす街の灯り。
真っ赤な頬は赤信号のせいだけではないはずで、彼女の表情は恋をしていることを如実に表している。
「本当は薄々気付いているんでしょう? そろそろ動かないと後悔しちゃいますよ」
それはもしかしたら自分への言葉なのかも、と口を衝いて出た言葉にはっとした。
「別に、私は今のままでいいって思ってます。このまま、仲の良い友達でいられたら、そんなに幸せなことはないですから。だから、後悔なんてとんでも――」
「それは無理なんですよ」
間違いなく、自分への言葉だ――
頑なに認めようとしない彼女は、勿体無いことをしているよう。
命短しなんとやらとはよく言ったもの。人間の命なんて短いもので、ぼんやりしていたらあっという間に終わってしまうのだ。
かつて、私が師と仰いだ人間の男、彼はあっという間に私を救い出し、あっという間に死んでしまった。彼に恋していた訳ではない。ただ、彼を救い出せていれば、私も何かが変わっていたのではないかと後悔することがあるのだからなんと未練がましいことだろう。
それから理彰のことだってそうだ。
私達は長生きだが、私が理彰と一緒に暮らせる時間は限られている。その間にどこまで理彰と近付けるのか、悠長なことは言っていられない。
「余程のことがない限り、それは無理なんですよ。だって、いずれ小鹿さんも、小鹿さんのお友達も、彼氏が出来たり、彼女が出来たり、結婚するかも知れないじゃないですか。その彼氏、彼女さんと共通の友達だったりでもしない限り、ずっと友達ってのは難しいと思うんです。皆人間だから、嫉妬だってすると思いますよ」
淡々とした言い方だったのは余裕がないから……まったく、自分のことながら呆れてしまう。
「小鹿さん、小鹿さんは、その男性に彼女が出来たとしたら、平気ですか……?」
投げ掛けた問いはなんとも意地悪なものだ。私の質問に小鹿さんは酷く傷付いたような顔をして、それから消え入りそうな声で一言、それは辛いですね、と溢した。
「それが恋なんですよ――」
これではまるで、余裕をなくして小鹿さんに当たってしまったみたいではないか。
本当に情けない――
信号が青に変わったと同時に駆け出し、真面目なことを言っちゃいましたと戯けてみせたのは、やはり、余裕がないからだった。
「作戦会議なら任せて下さいね」
虚勢を張っての笑顔はよく出来た、自然な笑顔だったと思う。そして、そんな不出来な私に微笑みかけた小鹿さんもまた、幾分か自然な笑顔だった。
――スマートフォンと睨めっこを開始して早数時間、慣れないメールは難しい。
私は今、小鹿さんに食事のお誘いのメールを打っているのだが、これがまた難しく、頭の中がごちゃごちゃとこんがらがってしまったみたいで、ベッドに横になってぱたぱたと足を動かすのは、私の集中力が切れた証拠。
「少しは落ち着け」
風呂上がりの理彰が溜息を吐くと、しばらく触っていなかったスマートフォンの画面はふっと暗くなり、画面にはすっかり困り果てた自分の顔が写っていた。
「だって! 意味分かんないんです!」
分からない分からない、分からないことが多過ぎる。
勢いで任せて下さいなんて言ってしまったが、そもそも恋愛相談なんて大昔、妓楼の酒の席で客の相談に乗ったぐらいしかない。
その時はうまくいったと評判だったが、私の助言が男性相手に通用するとは限らない。
おまけに私は色恋沙汰に関しては小娘以下、嘘は吐いていないとはいえ、小鹿さんの役に立てるとも思えないのだ。
「どうしようどうしよう! りしょー!」
「……そこでいつまでもばたばたとされては眠れん」
話してみろ、とは理彰の優しさなのか、それとも単に面倒なだけなのか。
私の事情の一切を伏せ、小鹿さんの恋愛相談の為に食事に誘いたいこと、自らに経験がないことを話せば、一際大きな溜息を吐いた理彰が、阿呆、と私の頭に手を乗せた。
「勢いでつい!」
「馬鹿者。そんな所で見栄を張ってどうする」
「ごめんなさいー!」
「お前が嘘を吐いていないことは分かる。もう謝らずともいいから、さっさとそれを寄越せ。俺がメールを打つ」
呆れたように頭を振り、右手を差し出す理彰に待ち合わせ時間と場所を教えてスマートフォンを手渡すと、数十秒もかからずに私のスマートフォンは返ってきた。
いくらなんでも早過ぎるのでメールはどうしたのかと問い掛けると、もう送ったと理彰はベッドに横になる。
「見栄を張ったのならそれに伴った結果を出せばそれでよかろう」
そう呟いた理彰は私に背を向け布団を被り、励めと一言告げて眠りに就いた。
「分かってますって……」
開いた送信済のメールボックスには理彰が打ったメールがただ一件だけ表示されている。
明日の十一時半に駅で待ち合わせ……急過ぎるメールに小鹿さんはどう考えているのだろう。
返事は、まだこない――
やはり少し急だったかと今度は自分で、十二時に待ち合わせ時間を変更する旨のメールを送ってみると、小鹿さんからの返信はすぐに来た。
「喜んで行きます、か……」
時間はかかったが自分でメールは打てた。
ひらがなだらけだし、件名に用件を書ききってしまったので本文は空っぽだったが、それでも私は満足だった。
明日は小鹿さんと食事に出掛けられる。理彰や富陽以外と外に出るのは初めてで、私はうきうきとした気分。もしかしたら、そこまで人間は嫌いじゃないのかも知れない。
「理彰!」
理彰の隣、ごろんとベッドに横になると目を覚ました理彰に、お前は少し慎みを持てと諌められてしまう。
「人間の姿のままこちらに来るのは止せ」
猫になった私を撫でる理彰は、私に好意を持たれていることも、私が理彰にべたべたとくっ付いている理由もきっと知らない。
「ねえ、理彰。もしかしたら人間ってそこまで悪いものでもないかも知れません」
「そうか」
胸の違和感は恋の痛みか、私はそれに気付かぬふりしてごろごろと、喉を鳴らして理彰に甘えていた。




