これぞまさしく 後編
昨日はあれ程頑張ったのに、疲れひとつ残っていない。サイさん様々だと迎えた朝、隣では理彰がぐっすりと眠っていた。
「りしょー……」
まだ眠い目を擦って出掛ける支度を済ませ理彰の腹の上に座って体を揺する。
そうすると流石に苦しかったのか、理彰は唸って身を起こし、眉間に皺寄せ私を睨んだ。
「……雨華、何をしている」
「やだなあ、昨日お出掛けするって言ってたじゃないですか。目を覚ます気配がないから起こしてあげたんですよ」
さあ起きて下さい、もう一度体を揺すれば何かを一瞥した理彰は呆れたように首を振り、すっぽりと布団を被って潜り込んでしまって私の顔すら見てくれない。
まさかまさか約束を反故にするつもりではないだろうか。
理彰に限ってそのようなことは有り得ないのだが、以前買い物に連れて行ってもらった時は心底嫌そうな顔をしていたのでこれはもしかするかも知れない。
慌てて布団を引き剥がし、お願いしますよと頭を下げれば、大きな大きな溜息を吐いた理彰がベッドサイドの時計を指差した。
「お前は大分気が早い」
「ありゃ?」
理彰の骨張った指が示す時計の時刻はまだ午前六時、店どころか普段の出勤時間にすらなっていないではないか。
昨日は夜遅かっただけに、これは申し訳ないことをした。そう思って素直に謝り理彰から離れようとした時だった。私が引き剥がした布団を再び被ろうとしたのだろう。理彰が布団を引っ張ったのと同時に、私の視界はぐるりと回った。
「ひ……」
一体どうしてこうなったのか。びたんと叩きつけられたベッドの上、私は人の姿のまま、理彰の隣に倒れ込んでいたのである。
「理彰ったら……」
目の前にいる理彰は端正な顔立ちで、髪は寝癖がついて跳ねている。
まるでだらしのない姿は見慣れたいつものものなのに、今まで理彰の何を意識して見てきたということがない為か、私にとっては理彰のその姿がとても新鮮なものに感じられた。
「ですけど流石にこれは――」
不可抗力とはいえ、破廉恥極まりない。
猫の姿でならどれだけ近付こうが平気なのに、どうしてだろう、この体ではどきどきしてしまう。
突然の出来事に未だ動悸の治らない胸を抑えて身を捩り、なんとか抜け出して理彰を見れば、私の気も知らずに寝息を立てているではないか。
今まで散々理彰を煽っておきながら全くもって身勝手な話だとは思うが、私はそれが腹立たしい。ここはひとつ仕返しでもして理彰をからかってやりたい所だが、寝起きの理彰は大変に機嫌が悪い。
今の理彰に悪戯など、恐ろしくてとてもではないが出来そうになく、私はただおとなしく、静かに、一人で鞠をついて遊ぶのであった。
時間は飛んで午前十時を少し回ったところ。私と理彰は電車に揺られ、一駅先の街にいた。
人の多さも騒がしさも全くいつも通りの街は、やっぱりとっても歩きづらい。それでも随分と慣れたもので、今では理彰に掴まらずとも、すいすい歩けるようになった。
「この間と同じお店に行くんですか?」
隣を歩く理彰に問えば、勿論そうだと理彰は頷く。
「職場も近いからな。俺もお前もそのまま出社できるから丁度よい」
歩く速度は私に合わせて少し遅めで、視線は時折私へ向いていた。
迷子にならないように気を遣ってくれているのだろう、私はそれが嬉しかった。
前回行った商業施設の場所はしっかり頭に叩き込んである。足が向くままに大きな交差点を渡ろうとしたところを、そっちではないと理彰に呼び止められる。
「すまない、こちらが先だ」
理彰が向かう先は目的地とは反対側。
一体何をと後を追えば、そこあったのは携帯電話のお店。最新型の機種が並ぶ店内の、至る所に置いてある料金表は複雑で、私には何を言っているのかさっぱりわからない。
「連絡が取れないのは不安だ。お前にもこれを持ち歩いてもらう」
パンフレット眺めて首を傾げた私を見た理彰は、そう言って最新型のスマートフォンを手に取った。
「理彰、それは“きじんのうれい”ってやつですよ」
「……使い方は合っているからまあよかろう。しかし雨華、これはお前に必要なものだ」
それから理彰は初心者向けの機種はないかと店員に問い掛けたのだが、私としては持ち物が増えることが煩わしく、どこかれ構わず呼び出されるような、まるで何かに縛られている感覚のあるそれを持ち歩くのは抵抗があった。
そもそも、小さなポシェットにハンカチ、ティッシュにメモ帳と、必要最低限のものは詰めて歩いているのだから、これ以上何が必要だというのだろうか。
再度、そんなものはいらないですよと理彰に言ってはみたものの、理彰は全く聞く耳を持たず、それどころか話をホイホイと進めて契約の書類まで書き始めている始末。
雨華――ぼんやり様子を眺めるだけだった私は理彰に呼ばれてはっとする。
「雨華。店長、點田からの連絡は俺が取り持っていたが、今度は自分でやらねばならん。従業員同士のやり取りだってあるだろう」
理彰はさらさらと、少し崩してはいるが綺麗な字を書きながら、声音は優しく諭すように、私に語りかけた。その表情は真剣でいて穏やか、そして理彰の言うことは、全くもってその通りだった――
あくまで私の目標は自立。最終的には理彰から離れて暮らす訳だし、それには覚えなければならないことも、自分でやらなければいけないことも沢山あるのだ。それが私の、ここにいる理由。
そうですね、と俯きがちに返事をした私は、今まで感じたことのない、妙な気持ちになっていた。それは大きな不安みたいな、虚無感みたいな――
「そう落ち込むな。これはこれでなかなか便利なのだぞ? 調べものからスケジュール管理までなんでも出来る」
書類を書き終えた理彰がこちらを見たかと思えば、どうしたのだと顔を覗き込む。
余程私が時化た顔付きだったのだろう。理彰は困った顔をして、再び書類に目を戻した。
「ああ、いえ! ごめんなさい、少しぼんやりしていました。理彰、ありがとうございます」
「いやに素直だな」
「やだなあ、気のせいですよ」
「そうか……」
私の取り繕った笑顔なんて、理彰はとっくに見抜いていたのだろう。
現にその後の理彰は気持ちの悪い程優しかった。服を選ぶのにも、前は会計の時以外、お店の中に入ってこようともしなかったのが今日は違った。
一緒に選んでくれたし、食事の時も積極的に話し掛けてくれた。それでも私の心は晴れず、逆に申し訳なくなってしまう程で、無理に笑って手を取って、平気ですと見せた強がりは、しょぼくれた姿を見せたくないという、ほんの少しの見栄だった。
新しいモッズコートを羽織って歩く職場までの道は、足取り重くどんよりしている。相も変わらず理彰の視線は私に向けられたまま、それはまるで痛々しい傷でも見るような表情をしていた。
「雨華」
「なんですか」
立ち止まった理彰に呼び止められ、私もまた立ち止まって後ろを向くと、理彰は買ったばかりのスマートフォンを私に差し出して、電話の掛け方だけを教えるのだった。
「よいか。これは俺とお前を繋ぐ大事なものだ。俺はお前を預かっている身、お前の具合が悪くなった時、急に用事ができた時、お前が危ない目に遭った時、連絡が出来なければ困るのだ」
「仕事だから……?」
「ああ、仕事はやり遂げなければならないからな」
やり遂げなければならない――
それはいつか終わりが来ることを意味している言葉で、落ち着いたらいずれ、私は自立しなければならないということだ。
でも、すっきりした。私が思っていたより簡単なことじゃないか。
私は居心地の良い理彰の側から離れるのが怖かったのだろう。アルバイトを始めて、どんどん変わっていく環境に不安を感じていたのだ。
しかし、離れ難いとはいっても幸いまだしばらく理彰の元にいることになりそうだし、時間はたっぷりある。ゆっくり考えても問題はなさそうで、
「そうですか」
と笑顔で答えた私の心は穏やか、いつもの私に元通り……のはずだった――
「困ったことがあったらいつでも呼べ。すぐに行く。それと……これは仕事だからではない。単純にお前が心配だからなのだぞ」
なのに、次の瞬間にはがらり、まるで世界がまるっと変わってしまったかのような衝撃に見舞われたのだ。
わかるな、なんて念を押すように微笑む理彰に目が釘付けになり、私は歩き方を忘れてしまったみたいに足が動かなくなる。
いつもよりも随分と早い鼓動を落ち着かせようと胸に手を当て、まさかまさかと自分自身に問い掛けた。
「雨華、どうしたのだ?」
嗚呼、嗚呼、この感覚、よく分からないけれど知っている。
どこか懐かしくて、大きくて熱い不思議な気持ち。これはまさに、間違いなく、絶対に――
「いえ、なんでもないです!」
頭はぐるぐると困惑しているのに、心はとっても軽いから、もしかしたら楽しかったのかも知れない。もしかしたら嬉しかったのかも知れない。
普通の女の子みたいにどきどきしていることが信じられない。
そこらの小娘ではあるまいし、今更何を驚くことがあるのだろうと思うのだが……しかし、この気持ちはまさしく、これこそまさしく恋なのだ――




