廃工場と炎 前編
私が腹を空かせているというのに一体全体なんなのだ。理彰にかかってきた電話は急を要するものらしく、彼の口調は切迫、表情は強張っている。恐らくこれは緊急の呼び出し、この分だとご飯もお預け――
「つまんないです……」
折角アルバイトを頑張ったのに食事は後回しで話をする暇もないなんて、本当につまらない。
理彰のコートの裾を摘んだまま、何も言わずに俯いていると、電話を終えた彼は私の頭を撫でて財布を取り出した。
「雨華、すまんがここで待っていてくれないか。好きな物を食ってくれて構わない」
そう言って私の手に握らせたお札は一枚二枚とかなりの額だが一人で待っているのも心細いというもので、素直にはいとは言えないのだ。
「連れて行ってくれないんですか……?」
理彰と共に行っても今の私では足手纏いになるのは明白なのに、こんなことを言ってしまうから理彰も困ってしまうだろう。
理彰のコートの裾、軽く掴んだ手に触れたのは温かい理彰の手、剥がそうと思えばいつだって剥がせるのにすぐにそうしないのは理彰の優しさか。
あまり困らせるな――
理彰は逡巡の後にそう小さく呟き、私の手からそっと離れていく――はずだった。
突如、私の体を駆け巡るぴりりとした感覚は間違いなく件の魔法使い。理彰もまた同じように気配を感じ取ったのか、今度は一言、すまないと謝って私を抱えて走り出した。
「理彰!」
どうしたのかと声を掛けても理彰は苦い顔をしているだけ、もう一度声を掛ければ
「いいから掴まっていろ」
と私の体を強く抱く。
言われるがまま、理彰の首に手を回し、ぎゅっとしがみ付いたら私達はあっという間にビルの上、飛ぶように空へ駆け出したのだ。
「どうやらお前を一人で置いていく訳にもいかないようだ」
「えっと……それは……?」
「ここ数日の話だ。お前が勉強に集中しているようだから言わなかったが、最近どうも夜が長くてな。時間の流れを弄り回している奴がいる」
私を連れて曇天の夜空を駆ける、理彰は苦い顔で呟く。
犯人は例の魔法使いの小娘で、先の電話はここから少し離れたところで大狼さんと交戦中だという内容だったらしい。
「じゃあ大狼さんは……」
「いや、やられてはいない。あいつが奴らを取り逃がしただけのことだ。それから……俺達の元へ迫って来ているということは奴らにこちらの居場所は既に割れているようだな。戦闘になるようなら人の多い所は避けたい」
「そうですか……」
「なに、案ずるな。守りながら戦うなど造作もない」
「あり、がとう」
ありがとう、伝えた礼に理彰は柔らかく笑った。
それにしても、やはり戦闘は避けられないのか。
理彰がいるから大丈夫なのは分かるが、私も戦わなければ格好がつかない。
守られるだけだなんて真っ平御免だし戦うだけなら前回のように一気に近付いて精を吸ってしまえば何の問題もない。むしろ、腹も膨れて一石二鳥というものだ。
しかし相手も学習くらいはするはず、そこまで馬鹿ではないだろう。特にあの小娘、あの様子だと私のことを相当嫌っているはずだ。何にせよ、私は黙って見ている訳にはいかない。
何より私は、以前彼女が餓鬼をけしかけたことを許してはいないのだ。今日こそいい機会ではないか――そう覚悟を決めて、ポケットに残っていたチョコバーに噛り付いた。
降り立ったのは街から程遠い廃墟の前、ぽっかり開けた広場だった。
遠くの空は明るいのにここだけ不気味な程に薄暗く、誰が用意したのか知らないが、妖しく光る外灯にわざとらしく積み上げられた段ボール、薄汚い空き缶の転がる廃工場は戦いの場に相応しい、絶好のロケーション。
「これはこれは……刑事ドラマに出てくる犯人のアジトみたいですね」
「雨華、隠れていても構わんのだぞ」
きょろきょろと周囲を見回す私に理彰は言うが、まさか隠れるだなんてとんでもない。
私はそこまで臆病でもないし落ちぶれてもいない、ついてきたからには仕事はきっちりこなすつもりなのだ。大きく頭を振って理彰の手を握り、冗談は止してくださいなと笑ってみせる。
「私だってやれば出来ます。それに、もし危なくなっても理彰なら私を助けてくれるでしょう?」
冗談めかしてそう聞けば、理彰は当然だと頷き私の肩に手を置いた。まあもっとも、理彰の足を引っ張る気も、理彰に助けられる気もさらさらないので今の言葉は保険のようなものだったのだが……思っていたより理彰からの返事が優しかったので少し面食らってしまった。
なんとなく、恥ずかしさからふいと理彰に背を向けてひとつ大きな深呼吸――
今回は前回のように近付けるとは限らない。二人に手の内を見せてしまった以上、別の策を考えなければならないのだ。
それならば、私はどうやって戦おうか。ぐるりぐるりと巡る思考の中、聞こえてきたのは少女の笑い声と砂利を踏む足音、振り返れば理彰の前方十数メートル、冬の夜風に髪を靡かせ、魔法使い、志麻が立っていた。
「ちゃんと狙った所まで追い込まれてくれたんだ。えらいえらい」
馬鹿にするようにくすくすと笑う志麻と、そのすぐ側、隣に立つのは魔術師、境だったか。前回は私の方が優位だったはずなのに、今はどうだろう、体には冷や汗、足は竦んで動けない。何か、嫌な予感がするのだ――
「なに、ここは人が居ないから丁度いい。それよりも、お前は早く帰らなければ親が心配するのではないか」
虚空に手を翳し、現れた槍を掴んだ理彰は一歩前に出てそれを構えると、志麻はふんと鼻で笑って天を仰ぐ。
「やだなぁおじさん。心配してくれる親がいたら私だってとっくに帰ってるって。それより見て……今日はこんなに良い曇り空! これじゃあ時間が狂ってるなんて、誰も気付きやしない! 時計も月も星も全部全部隠して止めて、私達は手に入れなきゃいけないものがあるの!」
芝居掛かった口調で話す魔法使いは両手を広げ、外灯のスポットライトを浴びてきらきらと輝き、魔術師はその外側、暗がりの中で闇に溶けるようにじっとして動かなかった。
未だに掴めぬ二人の意図に苛立ちを覚えたのか、理彰が何を探しているのだと問い掛けると、少女は眉を顰めて放って置いてと冷たく言い放つ。
「前にも答えられないって言ったでしょう? おじさんは探し物の邪魔。早くどこかへ行ってよね」
しっしと右手を動かしつつも、左手は既に戦闘の準備、魔法の発動を始めているではないか、こんなもの理彰は既にお見通しだというのに全くもって小賢しい――
燃え盛る火の玉を横っ跳びで躱して逃げれば焦げ付いた臭いが鼻をくすぐり、志麻は嫌ねと大袈裟に首を振った。
「嫌になるのはこっちですよ。本当に野蛮ですね」
長い髪の毛先が焦げて気持ちが悪い。きゅっと髪を束ね直して前を向き、彼女を睨みつけた私は蔑みの表情。それでも笑顔を崩さぬ彼女はひとつ境に指示を出すと、私目掛けて雷撃を放つ。
「馬鹿にしないで下さい」
後ろに飛び退き鏢を構え、境の内腿を狙って一撃目、境が避けた数歩先へ二撃目、立て続けに放った鏢は掠めるだけで仕留めるとまではいかず、逆に隙を与えてしまうだけ。しまったと思った時にはもう遅く、距離は一気に縮められ、私の体は宙を舞う――
理彰のように空を蹴ることはまだ私には出来ない。空中では方向転換も出来ずに体はそのまま急降下、着地点では私を呑み込まんとするばかりの勢いの炎が轟々と燃え盛っていた。
「雨華!!」
理彰の声が聞こえた私に不思議と恐怖の感情はない。それから体は浮遊感に包まれて、上を見上げれば不機嫌そうな理彰の顔。
「肝を冷やしたぞ」
「助けてくれることは分かってましたから」
「阿呆……」
でもこれで少し動きやすくなった。くすりと笑ってからかって、それで大きく息を吐いて再度向き合った先の相手は魔術師、境。
ヒットアンドアウェイと言ったか、この様子だと前回のことを踏まえた上で、彼は出来るだけ私に近付かないようにしているのだろう……それならば無理に近付かなくとも良い。
精をもらえるなら誰でもよく、男でなくとも構わないのだから志麻の精でも十分だし、出来るだけ境を狙うように動いて隙を見せた志麻を動けなくすればいいと、私の心は妙に落ち着いていた。
理彰の腕からひょいと降り、にこり、二人に微笑みかけると志麻はたじろぎ、境は怪訝そうにじっと私の顔を見る。表情を崩さず笑顔のまま、一歩足を進めると、今度は志麻が笑って私に問い掛ける。
「ねえ、突っ込むだけじゃ芸がないんじゃないの」
「そうですねー。でも仙狸まっしぐらって言うんですかねぇ。今の私はお腹がぺっこぺこなので」
所詮は小娘の挑発、まともに答えてやるつもりなどさらさらなく、わざとらしく、ふざけた様子でお腹を摩り、ちらり境を見やると、志麻の瞳に怒りの色。
嗚呼、どうしてこうも分かりやすいのか。
「理彰、殺さない程度になら食べてもいいんですよね?」
「構わん」
「ならよかったです」
隣の理彰に確認し、今一度境の元へ駆け出せば、志麻は再び私を狙って雷撃を放つ。怒気を孕んだ声にも、憎悪に満ちた表情にもゾクゾクしてしまう。
「この化け物――」
「命を取るつもりはない。悪いようにもしない。すまんが、おとなしく捕まってはもらえないだろうか」
私に直撃するはずだった魔法を打ち消したのは理彰だった。志麻が動いたことを見計らい、雷撃を打ち消し攻撃に転じ、これで理彰は志麻と、私は境と一対一。
余裕だって出てくるもので私はそのまま一気に片付けるべく、境の脚を狙って攻撃を仕掛ける。
しかしこの男、身体能力は相当に高い。私の連撃をひらり躱して右手に抱えた鞄で防ぎ、ちっとも当たってくれそうにもないのだから困ってしまうか――いや、もしかしたら志麻の気を引きつける良い機会になるかも知れない。
そう思ってからの行動は早く、鏢を持ち直して距離を詰め、境との距離は僅か数メートル。
「あまりにも退屈だったので近付いちゃいました。さあ、精を下さいな」
「馬鹿も休み休み言ってもらいたいな」
「なら休みを頂きたい所ですね」
「やはり馬鹿か」
身構えた境の前に立ち、じっと顔を見つめると固まってしまったみたいに動かない――誘惑、というとは違うものではあるが、私にも不思議な力はあるのだ。顔を見ている間だけ、縛り付けたように人間を動けなくしてしまう不思議な力。
隙のある人間にだけ使えるものだが、私はズルをしているようであまり好きではない。それでも力を使ったのは、早いところ腹を膨らませて、理彰の役に立ちたかったからだった。
「だめ! 境!」
にやり、笑って顔を近付けると頭上からは志麻の悲痛な声、乙女の前でこのようなことをするのは胸が痛いが仕方がない。
私は食事の邪魔をされて苛々しているし、何よりいつもより随分と顔を離しての吸精なのだから、どうかこれくらいは許して頂きたいものだ。
「いい子ですね――」
それからいただきますと手を合わせた私の耳に入ってきたのはがちん、金属がぶつかる音。
真横には理彰の槍が落ちており、目を見開き理彰を探す私はどしんという衝撃と共に投げ出されるように地面に転がった。
「おじさんには少し静かにしてもらうことにしたから」
私に跨り冷たく言い放つ、少女の右手に光る針。
なるほどこれは薬か何かか、顔を横に向ければ、少し離れた所で燃え上がる段ボールと、地面に横たわったまま動かない理彰の姿が目に入る。
「予めここで戦うつもりでいてね、ちょっとしたギミックも準備してみたのよ」
ごめんなさいね――なんて、少しでも志麻に申し訳ないと思った私が間違っていたのかも知れない。
敵対している身、余計な情けなどいらないのだ。
「……理彰を私の上に落として重石にするのが正解でしたね」
「何を――」
飛んで火に入るなんとやら、精であれば女のものでも構わないのだからこれはこれは好都合。
開き直った私は可愛いですねと志麻の脚を摩り、すうっと息を吸い込むと空腹だったお腹が満たされどんどん力が湧いてくる。
「ああ……」
魔法使いの精とやらもなかなかに美味、思わず感嘆の溜息が漏れてしまう程で、もう一口だけ食べてしまいたい。
「やめて……」
弱々しく抵抗する彼女を押し倒し、私はもう一度顔を近付け頭を撫でて安心して下さいと微笑みかけて、いざ楽しい食事の時間。
「では、いただきま――」
「志麻ちゃん!!」
いただきますと口を開けた私は余裕そのものだったのに、これから極上の精をいただく所だったのに、私を襲ったのは耳を劈く銃声と、焼けるような腹部の痛みだった――




