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給仕する仙狸 後編

「お、おはようございます! 今日からバイトなんですけど、少し緊張しちゃって!」

間延びした話し方はよくない、理彰に言われた通りにはきはきと挨拶をしたつもりだが、果たしてこれで合っているだろうか。

 ちらり、女性の顔を見やると薄く頰を染めた彼女はおどおどと会釈する。

「そうなんですか。私も昨日からの新人です。えっと……小鹿こじか、って呼んでください」

自信なさげに下を向く彼女は陰気臭くてなんとなく取っ付きにくいが長く美しい黒髪に白い肌が映える綺麗な女の子。

 そんな彼女の唇はぎこちなく微笑みどこか緊張している様子。なかなか可愛い娘ではないかと私も微笑み返してみると、今度は先程よりも幾分か自然な表情で、彼女は笑った。

「小鹿さん、ですか。可愛らしい名前ですね」

小鹿、だなんておどおどしている彼女にぴったりではないか。

 馬鹿にしているだなんてそんな意味はなく、単純に思いついたことを口にすれば彼女は困ったように頰を掻き、名前じゃなくてあだ名なんですけどねと愛想笑いを浮かべた。

「ああ……そうだったんですね! 勘違いしちゃいました」

「いえ、小鹿でよかったって思ってますよ」

 そう言いつつもどこか浮かない顔の彼女を見て思い出したのは店長の點田さんが言っていたこのお店の決まり。

 大した決まりではないのだがこのお店では従業員同士、あだ名で呼び合うこととなっているらしい。勿論電話応対の際は姓を名乗るのだが、それでもお店の中では基本的にはあだ名で、とのことだった。

 それにしてもこの不思議な決まり、従業員同士名前を知られてはまずいことがあるからなのかと考えたのだが実際はそうでもないようで、理彰曰く、“點田の気まぐれ”だそう。

 その點田店長も、外では好きに呼び合えばいいと言っているし、従業員の人達もあだ名の方がしっくりきているようで、結局外でもあだ名で呼び合う人の方が多いんだとか――

「ええと……じゃあ、入りましょうか」

「あっ、はい」

 少しゆっくりしすぎたのか、ぼんやり考え事をしている暇はなかったみたいで、小鹿と名乗った子の後ろについてお店に入れば丁度出かける所の店長と鉢合わせた。

「おはようございます。店長、新しいバイトの子を連れてきました」

「お! 小鹿ちゃんおはよう。早くて感心感心! 本部の方から少し人数増やしてもいいって言われたから小鹿ちゃん以外にもバイト雇ったんだよね」

小鹿さんは私をちらりと見て微笑み、それから店長に軽く会釈すると店長は私に手を振り笑う。

 私のことは上手く誤魔化してくれるらしいけれど、それでも何かのきっかけで私が人間ではないことが知られたら大変だ。だって理彰がなんと言うかわからないもの。

 どぎまぎとしながら店長の一言半句も聞き漏らすまいと注意を払っていると一瞬だけ店長の視線は私へと向き、頑張ってね、とでも言うように目配せした。

「おはようございます! 今日からお世話になります!」

求人誌を見て応募してきた風に装えというのは理彰からのお達し、飽くまでも人間を装って挨拶を済ませると、店長はよしよしと満足気に頷いて鞄を片手に出掛けてくるよと手を挙げた。

「ああ、そうだ。この子はバイト自体初めてみたいだから今日はホール三人ね! 全部、凛子りんこちゃんに任せてあるから安心して!」

それじゃあとひらひら手を振って、鞄を片手に慌ただしく出て行った店長の背中を見送った私と小鹿さん。それから私達の様子を見に来たのは明るい茶色の髪をくるりと巻いた女の子だった。

「えー! 店長もう行っちゃったんですか!?」

モデルのようなすらりとした体型に明るめのチークとルージュ、年は小鹿さんと同じくらいなのにこちらの子は活発な印象で、小鹿さんとは正反対。

 挨拶するのも忘れてぼんやり眺めていると、私と小鹿さんを見つけた女の子は嬉しそうに駆け寄ってきておはようと声を掛けた。

「おはようございます。凛子さん」

「うんうん、おはよう小鹿ちゃん。それから新人さんだね。凛子です! はじめましてー」

「は、はじめまして……」

拍子抜けしてしまう程明るい人――

 間延びした喋り方は良くないと言っていた理彰は嘘をついていたのか、面食らってしまって碌に返事もできずにいると、凛子さんは私の顔を見てにっこり笑う。

「わー、美人さん! これからよろしくね!」

「ありがとうございます。よろしくお願いします」

「じゃあこれからお仕事教えるね。まずは制服から! あ、小鹿ちゃんは先着替えてホール入ってていいよ! 後から昨日のおさらいついでにまとめて仕事教えちゃうから」

「はい」

 ――小鹿さんがホールに向かった後、渡されたシャツに袖を通してサロンを巻き、靴を履き替え着替えると凛子さんは似合ってる似合ってると満足げ。それから向かったホールは思っていたよりも広く、カウンターを挟んだ先のキッチンからは男性の声が聞こえ、小鹿さんはメモを確認しながら相槌を打っていた。

「今日は店長不在! びしびしいくから小鹿ちゃんも頑張れよー」

「は、はい!」

男性から感じるぴりぴりとした妙な感覚は魔術師、さかいと対峙した時と同じもの。恐らくこの男が魔術師だという調理担当の男だろう。

 魔術師――例の一件以来、どうも苦手意識が芽生えてしまったようで怖くてなかなか声を掛けられない。

 魔術師と言えども人間如きに何を臆することがあるのだろう、とは思っているのだが……やはり私は奴らが苦手なのだ――

「じゃあジョンさんが店長代理ってことですね! かーぁっこいー!」

「小鹿ちゃん、今日は仕事全部凛子ちゃんに任せていいぞ」

「ちょっと何言ってるんですかジョンさん!」

「ああ、冗談だから安心しろ。それよりもさっさと仕事教えて新人ちゃんを一人前に育ててくれや」

「ええ、任せて下さい!」

どうやって輪に入ろうか……皆は仲が良さそうで、私の入る隙も与えずに会話が続く。

 しばらく皆の様子を見て自ら会話に参加するタイミングを計ると、私は間を置かずに一気に話せるだけを話した。

「今日からお世話になります! 話は聞いたので皆さんのことは大体わかりました! 凛子さんと、ジョンさんと、小鹿さんですね!」

元気良くはきはきと挨拶したが、我ながら随分と無理をしたと思う。やはり猫を被るのは性に合わない。ひとつ咳払いをしてからよろしくお願いしますとお辞儀をすると、ジョンさんと呼ばれていた魔術師がホールへ出てきてにやりと笑った。

「おう、よろしく」

珍しい物でも見るかのような視線はまるで私を値踏みしているみたいだ。この様子だと彼は私の素性を知っているのだろう。

 あまり関わりたくはないが愛想笑いを浮かべて再度、よろしくお願いしますと頭を下げれば、早速だが、と男は何かを切り出した。

「俺は今日、新人ちゃんの命名権を得ている」

命名権、というとあだ名のことだろうか。

 たまには雨華以外の名で呼ばれることも悪くはない。不思議と心はうきうき踊り、どうせなら日本人のような名前を付けてもらえないかと私は身を乗り出して聞き入るのだ。

「命名しよう。新人ちゃんは今日から“ミケ”だ」

「み、け……?」

「ジョンさんそれはないです! ない! 絶対ない!」

「なんでだよ三毛猫可愛いだろう? 黒髪に茶のメッシュ、三毛以外のナニモノでもないっての! 決定!」

確かに普段は三毛猫に化けているが……彼の考えたあだ名は安直極まりなく、なんというか期待して損した気分だ。

 それどころか本当に考えてあだ名をつけてくれたのかも疑わしい。

 何より、少し賑やか過ぎやしないか――それより早く仕事を教えてもらいたい。やいのやいのと盛り上がるジョンさんと凛子さんは煩くて敵わないもので、纏めた髪を触りながら二人の様子を見つめていると、いつの間にか隣に来ていた小鹿さんが私に声を掛ける。

「賑やかですね」

「そうですねぇ……私は早く仕事を覚えたいです」

そっけない返事を返した私は内心、焦っていたのかも知れない。

 何せ初めてのアルバイトだ。いくらマニュアルを読み込んできたとはいえ、実際にやってみるのとは別なのだから完璧にこなせるとは限らない。

「あの、ミケさん、良かったら私のメモ、見ますか? 昨日教わったことです」

「……ミ、ケ……?」

いつもと違う呼ばれ方に反応が遅れてしまった。

 小鹿さんから差し出されたメモ帳には綺麗な字で“アイドルタイムにやっておくこと”が箇条書きになっている。

 興味深いとまじまじと見つめていると何を勘違いしているのだろうか、彼女は焦ったように謝った。

「ごめんなさい。やっぱり、ミケだなんて、しっくりきませんよね……?」

「へ? ああ、そういうことですか。いえ、呼ばれ慣れていないので反応できなかっただけですよ」

そのようなこと、気にしなくてもいいのに――そこまで私が不機嫌そうに見えたのだろうか。

 別にどう見られようが関係のないことだが、そこまで申し訳なさそうにされるとどうも放って置けずに

「メモ、ありがとうございます」

とひとつ微笑みお礼を言って、次はジョンさんと凛子さんにも聞こえるように

「私ならミケで構いませんよ」

と声を掛けた。

 抗議してくれた凛子さんの気持ちはありがたいが、私の呼び名などというくだらないことで時間を浪費してはいられない。

 それに、私には既に理彰につけてもらった雨華という名前があるのだから、ここでぐらい好きに呼ばせてやっても構わないと思っている。

 私は気持ちを切り替えてきゅっと口角を上げて笑顔をつくって二人に言った。

「ミケだなんて、結構可愛いじゃないですか。ありがとうございます――」

 人間の役に立とうなどとは考えていないけれど、役立たずとは思われなくない。そんなことを考えながら、私は理彰に持たされたメモ帳を取り出したのだった――


 閉店後の夜十時半――

 小鹿さんも凛子さんも帰ってしまった後の店内、私服に着替えたものの動く気にはなれず、私はぐったりと椅子に座っていた。

 営業中の出来事は、忙し過ぎて覚えていない。それでも今日は余裕があった方らしく、いつものホールは二人で回しているというのだから私は驚きを隠せない。

 復習の為に開いたメモには今日教えられた仕事が拙い日本語で書かれており、覚えた仕事は夕方のオープン前作業に来店されたお客様への対応、オーダー、料理の提供、バッシング、最後は閉店後の後片付けと様々。

 これだけ出来るようになると予習してきた甲斐があるというもので、私の心は達成感で満たされていた。

「お疲れ様、お水飲む?」

キッチンからグラス二つを持ってきたのは、後から出勤してきた芋丸いもまるさんという調理担当の男の子。凛子さんや小鹿さんより年下か、人懐っこそうな可愛らしい顔付きだ。

「ありがとうございます……」

「初バイトにしてはすげえなーって思ってたんすよ。俺はポンコツポンコツって言われてたから」

ジョンさんにはよく叱られるのだと芋丸さんは水を飲み干し悪戯っぽく笑う。

「そうなんですねぇ……なんか私、疲れちゃったみたいです」

褒めてくれるのはありがたいが、生憎私は疲れているのでお礼の言葉も謙遜の言葉も言えそうにない。

 これ以上構われたら食事として食べてしまいそうで、愛想笑いを返して同じように水を飲み干すと、キッチンからはジョンさんの声。

「芋丸、お前もう帰っていいぞー。ミケちゃん疲れてるんだからそっとしといてやれ」

「なんすかジョンさん、もしかしてミケちゃん口説いちゃうとか?」

「馬鹿かお前。面談だよ面談!」

「やだなぁジョンさん、知ってますよ」

何やら二人が話をしているが、私には何かを考えられる程の元気も残っておらず、ただただテーブルに突っ伏して、ただただ二人の話を聞いているだけ。

 お腹が空いた――いっそ二人まとめて食べてしまえれば楽になれるのに、これでは生殺しではないか。

「じゃあ、ミケちゃんお疲れ様」

「お疲れ様です……」

やっと静かになる……。ジョンさんとの話しを終えた芋丸さんが軽く手を挙げまたねと挨拶して、私はゆらり、力なく挙げた手をひらひらと振って彼を見送る。

 すると今度はジョンさんがコンビニの惣菜パンを片手に私の隣にやってきた。

「雨華ちゃんだったか? お疲れさん。パン食うか?」

「あ……はい。ありがとうございます」

「素性のことならちゃんと誤魔化しといてやるから安心しろ」

やはり店長から話を聞いていたのか、ジョンさんは私の名前も事情も知っているらしい。このままではまともに話ができそうにないし折角の好意だと、ジョンさんからパンを受け取って包装を破き、急いで口に放り込む。

 ケチャップとソーセージのパンはおいしくて、体の疲れが少しだけ、癒えた気がした。

「芋丸を襲って食いかねないぐらいの顔だったぞ」

「私は“燃費”が悪いらしいです……」

「悪いな。食わせてやれそうなもんは他にないし、俺の精を分けてやることも出来ない。まあ、そろそろマサアキさんが迎えに来るから、何か食わせてもらえ」

「マサ……?」

話の中で出てきたのは聞き慣れない名前、一体誰のことかと考えると、からんころんとドアベルが鳴る。

「雨華、行くぞ」

「あ! りしょ――」

店内に入ってきたのは理彰で、彼が手にぶら下げているのは甘い菓子。理彰、と声を掛けて飛びつこうかと思ったが、それを遮ったのはジョンさんだった。

「マサアキさん。お疲れ様です」

「ご苦労、すまなかったな」

「いえ、とても優秀でしたよ」

「それはよかった」

なるほど、マサアキというのは理彰のことなのか。確かにそう呼ばれることもあると、最初に名前を聞いた時に教えてもらっていた。

 マサアキ、か。日本人の名前でもしっくりきているではないか、そんなことを考えていると、流石に惣菜パンひとつでは足りなかったようで、私のお腹はぐうと鳴いた。

「お腹空いてるみたいですよ。今日頑張ってましたから」

「そうか。それなら雨華、飯を食って帰るか――」


 理彰と歩く帰り道、暦の上ではもう春だが、それでもまだまだ冬といえる程には寒いから参ってしまう。

「お料理、どれもおいしそうで堪えるのが大変でした」

「それは大変だったな」

「人間がいっぱいで、精が欲しくなりましたが、我慢しました」

「偉いではないか」

「断じて心得ば鬼神も之を避くという言葉があります。加減をするとはいえ、人間を食べると迷惑が掛かりますから、食べないって決めてるんです。私だって我慢くらいできるんです」

「……断じて行えば鬼神も之を避く、なんだが、まあよいか。雨華は偉いな」

理彰にもらったチョコバーを齧りながらの会話は淡々としている。

 理彰はきちんと褒めてくれているのだろうが、私にはそれに答える程の余裕がないのだ。

 一本、二本と食べ続け、元気が出てきた頃にはよく利用しているファミリーレストランの前にいて、理彰は私の背中を押すと

「今日は特別だ。好きなものは全部食え」

と微笑みかけたのだ……が、やはり花に嵐とはよく言ったもので、鳴り響く理彰のスマートフォンの着信音は、体を駆け巡る妙な気配は、私の一日を気持ちよく終わらせてくれそうにはない――

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