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給仕する仙狸 前編

 夕方というにはまだ少し早い。午後三時ちょっと前の都会の真ん中、ビルの四階ドアの前で私は今、ドアノブを握り締めたまま、動けずにいる。

 理彰リショウと暮らすことになってからもう随分と経った。幸い、あの餓鬼の襲撃以降は目立ったいざこざは一切なく、あるのは妖魔同士のくだらない喧嘩くらい。

 結局理彰の出る幕はなく、私が仕事についていくこともなく、私はだらだらと理彰の家で勝手気儘な生活を楽しんでいた――が、そんな生活も昨日でおしまい。

 色々あって私は理彰の働く会社が経営している洋食店でのアルバイトを始めることになったのだ――


 事の始まりはなんてことはない日曜日の朝、いつものように理彰の買ってきた朝食を食べていると、がちゃりと玄関のドアが開いた。

 またかと溜息を吐いた理彰が向かった玄関には、富陽フヨウともうひとり、私の知らない人間の男が立っていた。

「社長……」

理彰の呟きから分かったのは、その男が理彰達の働く会社の社長であること。

「おはよう。理彰、それから……雨華ユーファちゃん、だったかな」

「はじめまして、お、おはよう、ございます……」

「今日は君にお話があって来たんだよ」

人間の男がなぜ社長なのか、なぜ今更私と話をしにきたのか、気になることが沢山あり、どうにも不審感が拭えない。

 理彰の後ろからちらちらと男を見定めるように視線を動かせば、男と目が合い微笑みかけられ、私の体はびくりと跳ねた。

 間違いなく男は人間なのに、言い知れぬ違和感を感じる。これはあの魔法使いと魔術師に感じたものと同じもの――

「何しに来たのだ」

「――少し長くなりそうでな、邪魔していいか?」

怪訝な顔を見せる理彰にそんなに深刻な話じゃないさと富陽は一笑し、お土産だという菓子をぶら下げ部屋に入る。

 社長と呼ばれた男もまた、遠慮気味に部屋に入り、ゆっくりと床の上に腰を下ろしたのだった。

 理彰の淹れた茶を飲みながらのお話は、社長と呼ばれる男の自己紹介から始まった。

 男の名はサイ。田斉でんせいの生まれだから斉の字を取ってサイと名乗っているのだというのだが……せいというと遥か昔、二千年以上前に滅んだ国の名前ではないか。

 どこからどう見ても人間であるこの男が二千年以上生きているとは考えにくく、仮に彼が魔法使い、魔術師の類だったとしても、ほぼ人間の体では寿命もたかが知れている。ますます怪しいと首を傾げ、サイと名乗った男をじっくり眺め見ると、彼はふにゃり、困ったように笑ってこう答えた。

「正真正銘、僕は人間だよ――」

 どこか頼りないこの男、斉では方士をやっていたらしく、そして今はなんと不老不死の身なんだそう。

 秘薬のお陰なんだと笑う姿はどこからどう見てもただの人間の優男だから不思議であり、そして更に不思議なのが、この男がなぜこの日本に会社を構えているのかという所。

 やるなら大陸の方でも十分、理彰や富陽がいるなら尚更そうではないのか、甚だ疑問である。

「あの、どうして日本で会社を」

口を衝いて出た素直な疑問に男は困ったように頭を掻き、言葉を選ぶようにゆっくりと答えた。

「実はね、僕はこちらでの暮らしの方が長いんだよ。二千年と二百数十年くらい前にこっちに移り住んだきりだから、人生のうちのほとんどは日本で過ごしていることになるかな――」

 それから富陽が付け加えた説明によると、サイさんはクー子さんと共に滅び行くであろう妖魔達の未来を憂いて一旗上げ、そこへ日本にやってきた理彰と富陽、紀伊の山奥でひっそり暮らしていたことりさんと大狼おおがみさん等が加わり、今の会社という形で仕事を始めたんだとか。

「本当はいけないことなんだけどね、人間の戸籍と名義を借りて色々やっているんだよ」

 そして今日、社長であるサイさん自らが私の元へ来た理由はその会社で働いてみないかという打診――

「飲食部門の店舗勤務なんだけど、どうかな」

 もう少し人間と関わってみないかい、と柔和な笑みで問うサイさんは鞄の中から書類を取り出すと、一枚一枚テーブルに並べ始め、そこで私はまだ知らなかった会社の実態を知ることとなる。

 表向きには人間向けの飲食店を経営しているという彼の会社。

 飲食店経営は単に資金を得る為の手段なのだと聞いてはいたが、実際はそれだけではないのだとサイさんは言う。

「君は魔法使いと魔術師に会っただろう? 混血化が進んだから今では魔法使いは滅多に見ることの出来ない種族なんだけどね、実は魔力を持った人間は決して少なくはないんだ。大袈裟に言うと、誰もが不思議な力を使える可能性があるんだよ。勿論力に差はあるし、魔力があるからといって必ずしも術が使えるとは限らない、何より術の発動には媒介が必要だ。それでも彼らが限りなく魔族に近い人間であることには変わりないから――」

何やらサイさんは熱弁しているけれど、話が長くて私には理解出来ない。

 サイさんの言葉を何度も反芻して考えるが、普段滅多に使わない頭は既に考えることを放棄し始めている。そうしてゆっくり話の内容を咀嚼していると、サイさんはええと、と頰を掻く。

「ああ、ごめんね。そうだな、簡潔に言うなら……僕達が経営してる店では素質のある人間の情報を集める役割も担っているんだ」

「それは一体――」

「店で働く従業員は勿論、面接を受けに来た人間や顧客の情報を管理してるんだよ。もし魔法使いや他の魔族が、魔術師になり得る人間に知識を与えたのなら、それは大問題だ。力を手に入れた人間は恐ろしい。だから特に注意してみないといけないような人間は雇って監視、雇えないようなら定期的に様子を探るようにしているよ。そうしたら何か騒ぎがあってもすぐに庇ってあげられるからね」

「そうなんですか」

 ならば、従業員は限りなく魔族に近い人間の集まり、ということだろうか。

 サイさんの口ぶりと、それから魔術だとか力だとかそんな存在が大っぴらになっていないという事実から判断するに、きっと監視対象の者には何も知らせていないのだろう。

 実際、人間は碌でもない生き物だし、人間が身の丈に合わない力を持つようになったらどうなるかなんてとっくに分かりきっている。

 それに件の魔法使いと魔術師のこともあるから監視をつけるというのは間違った考え方ではない。確かに、サイさんの言い分は正しいのだ。

「だからどうかな? 従業員は皆いい人だから、働いてみないかい?」

 しかし、なぜ私を働かせようとしているのだろうか。

 決して興味がない訳ではないが、人間と共に働くのは勘弁願いたい。

 私は妓楼でしか働いたことがないし、何より人間が嫌いだ。

 今一度の誘いに遠慮しますと断りを入れようと口を開いた直後、私を遮るように待ったをかけたのは理彰だった。

「まだ例の件が解決していない。いつ敵が来るか分からない以上、こいつを外で働かせるのは時期尚早ではないか。ましてや店舗でとは……」

「勿論無理にとは言わないよ。話だけでも聞いて欲しくて来たんだ」

苛立った様子の理彰にも、サイさんは臆することなく穏やかな笑顔で対応する。

 理彰はというと、社長相手という手前、やはり断りにくいのか、それとも社長や富陽の言うことなら間違いはないのかも知れないと思っているのか、渋々といった様子で話を聞き入れた。

 理彰が話を聞く気なら、私も聞かない訳にはいかないだろう。聞くだけ聞いてみるのも悪くないと、まっすぐ向き直って正座をするのだった。

 サイさんの持つ書類によると、店舗は理彰の働く会社のすぐ近くの洋食店で、お昼と夜の営業があるらしい。

「じゃあ私をそこで雇いたいということですか」

「そう。そこまで難しい仕事じゃないし、シフト……ええと、勤務時間や勤務日数も出来る限り希望通りにするつもりだよ」

それからサイさんは電卓を取り出すと指先でボタンを弾いて叩き、数字を私に見せて笑う。

「ほら、週三日、夜に働いた場合のお給料はこんな感じかな」

「あ、お金……」

 お給料――今まで私には全く縁のなかった言葉にぴくり、私の髪が跳ねて揺れる。

 働いた分だけお金がもらえるというのは魅力的だ。妓楼では、化け物を匿っているのだから食事が出来るだけでも有難いと思え、というのが上の人間の言葉だったので、お賃金を払ってもらったことは一度もない。

 稼いだお金を何に使うかなどということは特に考えていないが、お金が稼げるだけでも働く価値はあるというものだ。

「…………やります!」

「うん。良い返事だね」

一呼吸間を空けて、とんと茶杯を卓に置き、私に任せて下さいと頷くと、サイさんもまた、笑顔で頷いて茶を飲んだ。

 それが面白くなかったのは理彰だろう。何しろ問題が未解決なのだから、まともな神経をしていたら心配になるのは当たり前だ。

 何を言っておるのだ、なんて焦ったように私を止める姿は必死そのもの。

「働くなら本部の方にしておけ。現場じゃ何かあってからでは間に合わん」

「まー、勿論それに越したことはないですけど、働かせてもらえるならそれで十分です。ウエイトレスなんて素敵じゃないですか! 私、やってみたかったんですよー」

「それなら後からいくらでもやらせてやる。だから今は――」

「いいえ! 今やるんです!」

理彰の話を遮ってサイさんの持ってきた書類に手を出せば、根負けしたのか仕方ないと大きな溜息。

 そんな私達を見てくすくすと笑っていたのはサイさんで、それからサイさんと富陽はアルバイトへの行きと帰りには見張りをつけてくれることを約束してくれた。

 私としては見張りなどいらないのだけど、理彰がそれを強く望んでいるのだから仕方がない。お互い譲歩に譲歩を重ねた結果、働くのは週に三日で働く時間帯は夜、何か問題が発生した時に理彰がすぐに動けるディナータイムのみということで話がまとまった。

 かくして私は半ば強引に押し切る形でアルバイトをすることが決まったのだが、初出勤までにやることは多かった。店長との面談から日本語での接客の練習、業務マニュアルの暗記など、人間社会の中で迷惑を掛けないように、自分にできる最大限の努力をしなければならなかったのだ。

「うちの子達はみんな優秀だからどんどん頼ってこき使っちゃっていいよ」

けらけら、悪びれもなく笑って言ったのはこれからお世話になるお店の店長であり、いたちの妖怪である點田てんだ一朔いっさくさん。

 店長の彼がそれで良いのならそうしたい所だが、私にもプライドというものがある。

 人間の世話になるのは癪だし、何より理彰の顔に泥を塗ることだけは避けたかったのだ。


 そうした猛勉強の末に迎えたのが今日、アルバイト当日。余裕を持って店に行くようにと理彰の言葉通りにここまで来たのはいいが、どうしても勇気が出ない。

 事情を知っている店長は今日は本部の集まりでいないらしいし、魔術師だという調理場担当の男性とは全く会ったことがないから困ったもので、頼れる者がいないというのは本当に心細い。

 左手には釵を、右手にはドアノブを握りしめ、ぼうっと扉を見つめていると背後に感じた人の気配――

「おはようござい、ます?」

「は、はい!」

びくり、大きく肩を揺らして驚いて、ゆっくり振り返るとそこには長い黒髪を後ろで束ねた女性が立っていた――

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