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揺れるのは心か何かか 後編

 平和、平和だ。とても良い。誰かを食い殺さずとも生きられる、逃げずとも生きられる、大変平和な世界だ――

 マンションの高層階、理彰の家は少し寒いことを除けば非常に暮らしやすい。

 窓から見える景色が良い、部屋が広い、静かに昼寝が出来るし、テレビもある。昔の暮らしとは大違いの都会暮らしに、私は少しだけ優越感を感じていた。

 浅い眠りの中でほんのり感じる理彰の気配は温かく、ついつい寝すぎてしまいそう。体を起こしてぐっと伸び、新聞を読む理彰に飛び乗れば、邪魔だと床に退かされた。

「暇です」

「もうしばらく寝てれば良いだろう」

私には目もくれず、なんだかよく分からない沢山の数字と睨めっこをしている理彰は真剣そのもの。

 羅列された企業名と数字、それらが何を指すか、意味は何なのか、さっぱり分からないので面白くない。

 テレビ欄に四コマ漫画、芸能記事だけ読むことが出来れば充分な私とは違って理彰は本当に真面目だ。

 退屈しのぎに鞠を転がし、追いかけ、部屋を駆け回れば、ふと時計が目に入る。時間は正午少し前、もうこんな時間なのかと思った時には私のお腹は鳴いていた。

「なんだ、腹が減ったのか」

新聞から顔を上げた理彰が私を見て手招きをする。

 今日のお昼はなんだろう、寿司に中華にファミレスと、行きたい所は沢山ある。わくわくしながら人の姿になり、出掛ける為の服を選んでいると背後から理彰に声を掛けられた。

「外には行かんぞ」

「はい?」

「部屋着で良い」

外には行かない、ということは何か家に食べ物があるのだろうか?

 言われるがままに部屋着に着替えた私は冷蔵庫を開けるも、あるのは水と果物ばかり、お昼ご飯らしい食べ物は見当たらない。では何を食べるのか、理彰が買い物に行くのかと考えているとこっちへ来いと理彰の呼ぶ声――

「りしょー、冷蔵庫にお昼ご飯がありません」

私はお腹が空きました、そう文句を言いながら入った部屋では理彰が何枚ものチラシを広げ、唸る様に何かを考えている。

「あれ、どしたんです?」

「昼はピザにしようと思うのだが、どうだろうか?」

声を掛ければこちらを向いた理彰がチラシをこちらに向け、食いたいものはないかと問い掛けた。

 宅配ピザ――テレビや時折入ってくるチラシでこそ見たことはあるが、実際に食べるのは初めてだ。とろとろに溶けたチーズの上に乗った様々な具材はどれも美味しそうで一度は食べてみたかったもの。

 ごくりと生唾を飲み込んでチラシを覗き込み、メニュー表と睨めっこ。シンプルなトマトとバジルのピザからコーンにエビ、カニ、焼肉にチキン、果てはデザートタイプのものまで様々。ここにはいくつかのお店のチラシがあるが、どこも似た様なものばかりでどれを選んで良いのか分からない。

「美味しそう!! ……ですけど、全部同じに見えてしまいます。どれが美味しいんですかー?」

「いや、俺も普段は食わんからな。よく分からんのだ」

「うーん――――」

二人向かい合って唸って考えて、ほとほと困り果てた果ての果て、結局どれでも良いかと一枚チラシを選んで電話を掛けようとした所、鳴ったのは玄関のチャイム。

 今度は誰だとモニターを見ると、ことりさんと大狼おおがみさんが並んで立っていた――


「今日は雨華ちゃんがまだしばらくここに住むって話聞いたから遊びに来たんすよ」

「お前達に呼び鈴を押す程度の常識があって良かった……」

「なんのことっすか……?」

「世の中には監視もオートロックもすり抜けた挙句、ノックも無しに人の家に入ってくる不届き者がいるのだ」

「まぁ……! と言ってもどなたかは容易に想像が出来ます」

二人を招き入れた理彰がうんざりした様に溜息を吐くと、ことりさんと大狼さんは苦笑い。いつまでも玄関で話すのも、と部屋に上げれば卓上に並べられたピザ屋のチラシを見つけた大狼さんが目を輝かせてそれを手に取った。

「おおっ! チャンさん昼飯はピザなんすか!?」

「まあ、な。そうだ。もし予定がなければお前達も一緒にどうだ? 実はどれを選んで良いのかわからなくてな」

「そりゃあ勿論喜んで!」

困った様に頰を掻く理彰の提案にふたつ返事で了承した二人にチラシを預け、キッチンで理彰と共に茶を淹れお茶菓子を用意していると、聞こえてきたのはあれでもないこれでもないと言い合う二人の声――

 茶器を持って二人の元へ行くと、テーブルを前に真剣な面持ちで座る二人。

 何を畏まっているのか、正座して見つめるのは一枚のチラシ。ご丁寧に気になる商品にはペンで丸を書いて囲っているのだからどこか滑稽だ。

「ふっくらした生地も美味いが――」

「さくさくのクリスピー生地だって美味しいよね」

「ああ。それと色々なピザを食べたいから四種類を一枚で楽しめるピザが食べたい」

「でも四人で食べるには綺麗に分けられない――」

「ああ、悩ましいな」

参ったと頭を抱える姿はまるで仕事での会議の様。

 茶を出した理彰がどうしたのかと問い掛けて、二人が事情を話せば、全て注文すれば良かろうと理彰は電話を掛け始めてしまった。

「いいんですか、理彰さん」

「構わん。大食らいが二人もいるのだ。これだけあれば十分であろう――」

それから私が見たのは、今まで見たこともない程に低姿勢な理彰。丁寧に、且つしっかりと注文をする理彰はことりさんと大狼さん曰く、“ビジネスモード”で一種の職業病なんだとか。流石理彰だと視線を理彰に向ければ、そこには電話を終えたいつもの理彰。

 私の視線に気が付いた理彰はこちらを見やると電話を片手に首を傾げた。

「どうした、人をじろじろと見て」

「理彰も働いている人なんだなーって」

「急にどうした」

「いえ――」

仕事をしている理彰の姿を見たことがない訳でもないし、決して理彰を馬鹿にしている訳でもない。ただ、初めてみる理彰の姿が新鮮だっただけ。

「なんでもないですよー」

「そうか……」

くすくすと笑ってくるり目を逸らし、ことりさんの隣に座ってお茶を飲むと、理彰は可笑しな奴だとでも言いたげに私の向かい、大狼さんの隣に座って菓子をひと摘み、口へ放り込む――

 流行りのお店が紹介されるバラエティ番組を見ながらのピザを待つ時間というのはなんとも短く感じるもので、あっという間に呼び鈴が鳴った。

 時計を見て早いんですねと驚いたのは私と、それから理彰。何しろ注文をしてからそれ程時間は経っていない。ここまで早いと心配になるもので、平気でしょうかと口を開けば大丈夫大丈夫と笑う大狼さんとことりさん。

 二人が言うには、お店は注文を受け付けてから三十分以内にピザを届けられる様にしているらしく、遅れた場合は割引券をくれるんだとか。

 人間というものは随分と真面目である。応対は理彰に任せて机の上を片付け飲み物を準備すれば、美味しそうな匂いと共にすぐにピザはやってきた――

 テーブルいっぱいに並んだピザと、ポテトにチキンに炭酸飲料、胃もたれしてしまいそうなジャンクフードは私が初めて食べるもの。とろとろのチーズにトマトとバジル、マヨネーズとコーンにガーリックとチキンはどれもこれもテレビで見た通りの品々で、私の食欲を掻き立てる。

「どれもおいしそうですねー」

「どれも美味しいですよ。さあ」

ことりさんに取り分けてもらった後、みんな揃っていただきますと手を合わせた。

 むしゃり、ピザに食いつけばチーズが伸びて具材が溢れてしまいそう。

 これが宅配ピザの味――なかなかに美味である。ふっくらとした生地に程良い酸味のトマトソース、オリーブの実に香ばしいお肉、こんなに美味しいものがあるものか。人間はなんて贅沢なのだろう。

「おいしいです!」

「うむ、美味い。たまにはこういうのも悪くはないな」

理彰は美味いと目を丸くし、それからふっと表情を緩めてみせる。笑う理彰が珍しいのか、かちり、石のように固まってしまったことりさんと大狼さんはしばし瞬きをした後、互いに顔を見合わせ首を傾げた。

「理彰さんが笑ってる……」

「どうしちまったんだ……?」

「……俺だって笑うことくらいある」

顔を赤らめ咳払いをして、何か変だったかと問う理彰に、二人は揃ってかぶりを振る。

 あまりにも珍しかったからつい驚いてしまったとのことで、やはり理彰はあまり人前で笑わない奴なのかと不思議と溜息が溢れた。

「笑った方が素敵ですよ。理彰さん」

「だな!」

「そ、そうか。それは良かった……が、少し照れ臭いな」

ほら、まただ。どうしてだろう、溜息が出てしまう。笑う理彰は素敵なのにどういう訳か心がざわつく。こんなに食事もおいしくて、お話だってこんなに楽しいのに――


 食事の後のお茶の時間になってもやっぱり心は晴れなくて、どこか気分も浮かないまま。テーブルは綺麗さっぱり片付いているのに、どうしてこうも心はごちゃごちゃとしているのだろう。

「彰さん、ご馳走様でした」

「じゃあね、雨華ちゃん」

三人に合わせて相槌を打って、見送った後は少し寂しい。ぱっと猫になって理彰に擦り寄れば、どうしたのかと抱き上げられた。

「二人とは仲が良いんですか」

「特別仲が良い訳ではないが、そうだな、そこそこ、だろうか」

「なるほど……」

さっぱりした、と言うには程遠いかも知れない。しかし、なんとなく自分の今の気持ちが分かった。私は理彰を羨んでいるのだ――

 円満な人間関係には笑顔が必要不可欠、私は人間に媚びて生きてきたからそれが一番大事なのだと思っていた。

 笑って媚びてさえいれば、優しくしてもらえるし仲良くだってなれると思っていた。

 実際、私はそれなりに上手くやってきたつもりだ。しかし、私は人間から見れば人殺しも同然。私を憎む者は多く、殺されかけたことだってあるし、最終的に自らの力を使って誘惑して思い通りに……つまり、人を食い殺してしまうことがほとんどだった。

 仲の良い妖魔もなく、仲の良かったはずの人間さえ失い、いつしか私は人に媚びなくなり、好き勝手に人を食らう化け物へと成り果てていたのだ。

 化け物になる前、私は人に好かれることに精一杯だったのに、本当は仲良くだってしたかったのに、なのに理彰には誰かに媚びたり笑いかけたり、誰かに好かれようと言う気持ちがほとんど見られない。その癖部下に慕われているものだから、私は理彰を羨ましく思っている。

 これは嫉妬染みた憧れだ。

 何に不満がある訳でもない。ちんけな嫉妬も自覚してしまえば胸が詰まったみたいだった気持ちもガスが抜けるように楽になる。不思議そうに私を見つめる理彰から目を逸らし、体を伸ばしてベッドに横になれば、理彰は何かを考え込むように一度唸ってから口を開いた。

「俺達と共に働くか?」

理彰は私が羨んでいることに薄々気付いているようだ。心配そうな言葉は嬉しいが、外で働くのは私にはまだ少し早い。

「働くなんて御免です」

と、私は誤魔化し笑うだけなのだった――


 気付けば夕暮れ空は朱。理彰の膝の上でごろりと横たわっていると、理彰は何かに気が付いたかのように黙って頭を振る。

「そういえばお前、風呂には入っているか?」

「いえ、入ってないです」

お風呂についての説明はこの家に来た日に理彰から受けてはいた、が、私はお風呂に入ったことがない。

 そもそも出掛ける時以外は猫の姿だし、人の姿でいても体が臭ったことは一度もなく、ほとんどを山で過ごしていたが垢や蚤、虱に悩まされたことすらないのだ。

 人を誘惑して食らう生き物なりに何か、自浄作用のようなものが働いているのだろうと考えるのが自然だが……どうやら理彰にとってはそうでもない、らしい。

「風呂に入るか」

「冗談」

「猫の姿のままなら問題あるまい」

ほら、と私を抱き上げた理彰は大真面目。

 冗談じゃない冗談じゃない、私は水があまり得意ではないのだ。

 雨に濡れることすら嫌なのに、シャワーで全身ずぶ濡れだなんて拷問もいいところだ。

「嫌! 嫌です! 私はそんなことしなくても綺麗です!」

じたばたと暴れる体は浴室へ、爪を立てても噛み付いても理彰は動じないものだから本当にどうかしている。

「なんでもしますから! お風呂だけは!」

「これ以上姿を変えるのも疲れるだろう? 大人しくしてろ」

「信じられない! 私水浴び湯浴みなんてしなくても綺麗だったんですからね! 花も実もなるって評判で――」

「それを言うなら花も実もある、だな。ついでに言うとお前に実はない」

「鬼! 堅物! 変態!」

「なんとでも言え。ペット用のシャンプーはあるから安心しろ」

「いやあああ!!」

理彰に捕まり縋って暴れ、されども逃げられるはずもなく、迫り来るシャワーヘッドと流れる水はまるで化け物。

 私はがたがたと震えながらも覚悟を決めてぎゅっと目を瞑って耐えるだけ――


 始まったばかりの二人暮らしは煩く賑やかで忙しない。不貞腐れた私を宥めながらドライヤーを動かす理彰の顔は眉尻が下がっている困った顔。

「ちゃんと乾かして下さいね!」

「ああ」

「ご褒美のおやつも下さいね!」

「ああ」

沢山、沢山我慢したもの。

 これぐらいの我儘は許されるはず。これからどのくらい一緒に暮らすのかは分からないけれど、今はただ、押し寄せる疲れと理彰の優しい手付きに身を任せ、ぐったり床に横になるだけなのだった――

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