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揺れるのは心か何かか 前編

 迎えた別れの朝は、酷く狼狽した理彰リショウの声で目が覚めた。

 カーテンの隙間からは朝日が射し、更にその奥、外からは、鳥の囀りが聞こえる気持ちの良い朝――のはずだったのに、部屋の中はがらんどう。

 玄関の方からは理彰の怒鳴り声が聞こえてくるから全くもって穏やかじゃない。

 とん、とベッドから降りて扉の前に座り込むと、磨り硝子越しに見える理彰の影。

「優先すべきは雨華ユーファではないのか!?」

 理彰以外の者の気配を感じないことから彼が電話をしているのはすぐに分かったが、理彰が私以外の者に声を荒げている姿は全く見たことがないので戸惑いを隠せない。

 私のことを話している様だが、一体何を話しているのか。落ち着かないと尻尾はぱたぱた動き、なんだか心がもやもやする。

「……承知した。俺がなんとかする――」

 じっと扉の外を見つめたままで数分後、通話を終えた理彰が戻ってくると、すまんと謝り頭を撫でた。

 なんのことかと尻尾を揺らし小首を傾げて見上げれば、理彰は私を抱き上げる。

「起こしてすまなかったな。実はもうしばらくお前を預からなければならんのだ。まだまだ我慢してもらうことになりそうだが、平気か?」

しばらく……と言った理彰はもう勘弁願いたいと言った顔。

 この様子だと今度は一週間そこらの話では無さそうだから何か余程のことがあったのだろう。私は別に好き勝手にやっているから構わないとは思っているけど、理彰はそうもいかないはず。嫌々面倒を見られるのはやっぱり癪なもので、理彰こそ平気なんですかとつい聞き返してしまう。

 少し棘のある聞き方だったと思うが理彰は優しかった。仕方なかろうとベッドへ座り、私の鼻先をつんと突く。

「お前を襲った者がいつ来るか分からん以上、お前を放っては置けん」

「そうですか……」

「何、俺もやっと慣れてきたところだ。お前は今まで通り暮らしていれば良い。何より……この姿はなかなかに愛らしい」

私の体を床に降ろした理彰はそう言って頭を撫でた。

 理彰に褒められることは殆どない、容姿となれば殊更珍しい。当たり前ですとゆらり、尻尾を動かして、私は再びベッドの上へ上がると態とらしく媚びた様に、にゃおんとひとつ鳴いてみる。

「可愛くて綺麗で美しくなるように化けてるんです。私の器量が良いのは当たり前じゃないですか」

どうです、なんて言って得意げにごろりと寝転がれば性格はまるで可愛げがないな、と優しく背中を撫でられた。

「人の言葉を話せる猫なんてこんなもんですよ」

「お前のような者ばかりであってたまるか」

「残念、私は今でこそ家猫の姿ですが、元は気高く美しい山猫です。そこらの猫と一緒にされちゃあ困っちゃいます」

「それはどうだろうか――」

やり取りの中で、理彰が取り出したのは鼠を模した飾りの付いた玩具。

 ちんちくりんなそいつだけど、目の前でゆらゆら揺れるそれはなんだかとっても魅力的。右へ、左へ、揺れる動きにタイミングを合わせて飛び掛かれば、ひょいと鼠は飛んでいく。

「あっ」

「やはり猫ではないか」

理彰は失笑し、私はそれが恥ずかしかったものだから布団の中に潜り込んだ。

 まるでこれではペット扱い、私をなんだと思っているのか。

 そうして布団の中から覗き見上げた理彰は、愉快愉快と言った顔で玩具を揺らし、私の反応を窺っている。勿論私はそれを無視して寝ることも出来るのだが、目の前で揺れるそれが気になって仕方がない。布団の隙間から前足を伸ばし、玩具掴もうとすれば遠退いて、そんなこんなの繰り返し。

 最初こそやいのやいのと文句を垂れていたけれど、つい憎まれ口を叩くのも忘れてしまうくらいには楽しく感じているから困ったもので、本能に逆らえない辺りはまだまだ私は動物なのかも知れない。

 爪を引っ掛けきゅっと掴んだそれを引き寄せれば理彰は観念した様に玩具を放り出す。

「捕まえましたよ!」

達成感が私を満たし、玩具を咥えて見せびらかす様に布団から出るとにこにこと理彰が私を見ていたのだから気味が悪い。

「楽しそうだな」

「た、楽しくなんかないです!!」

 なんだかとても馬鹿にされている様な気がする。再び布団に飛び込んで、もう出るまいと固く決めるも外から聴こえてくるのは微かな音。

 なんなんですかと早々に顔を出した所で目に入ったのは理彰の持ったスマートフォンで、画面には布団から前足を出してじゃれつく私の姿がしっかりと収められていた。

「よく映ってるだろう」

「撮っていいなんて言ってません!」

「すまんな、あまりにも愛らしい姿だったものだから――」

「消して下さい! 早く! 早く!」

羞恥の感情のままに飛び出して、狙うは理彰の右手のスマートフォン。服に爪立て駆け上り、叩き落とそうとした所で首根っこを掴まれて、私の体は宙に浮く。

 それでもまだまだ諦めきれないと人の姿に化けて喚いて押し倒せば、理彰は驚きたじろぎ目を逸らし、慎みを持てと顔を真っ赤に染めたのだ。

「だって恥ずかしくて、私ペットじゃないですし、写真なんて……」

「ペットじゃないのは分かった、動画も消す。だからお前は裸でいることも恥じろ」

相変わらず目は逸らしたまま、出来る限り私の体には触れぬ様に離れろと懇願する理彰は可笑しくて、愉快で愉快で仕方がない。

 堪え切れずにお腹を抱えて笑っていれば、理彰は大きな溜息と共に一言。

「笑ってないでさっさと退け」

眉間に皺を寄せ心底嫌そうにしていても、顔が真っ赤だからまるで説得力がない。溢れる笑みを手で覆い隠し、はいはいと理彰の上から降りれば突然誰かの気配を感じ取った――

「あれ。理彰、誰かが――」

「いいから急いで猫になるか服を着ろ!」

乱暴に毛布を押し付けられ、呆気に取られている間に部屋に入ってきたのは大きな荷物を抱えた富陽フヨウ

「よう、理彰。雨華ちゃんの様子を見に来たぞー……って、おう。おたのしみ中邪魔したな」

呼び鈴も押さずにずかずかと部屋に入ってきた富陽は何を勘違いしたのかすまなかったと扉を閉める。

 これに焦ったのは理彰の方。誤解だと富陽を引き止め私には服を着てくれと一喝。

「富陽、これは違うのだ」

「そうです! 理彰が動画を消してくれなくて、それで私がお願いしてた所で――」

「動画って理彰お前!」

「お前は阿呆か!!」

「だって理彰が私のこと撮るから! 恥ずかしかったんですからね!」

「理彰……お前って奴は……」

「頼むから雨華はもう黙っていろ!!」


「――――まあ、遊んでただけだって、知ってたさ。お前に限って女の子を襲うなんてことはないからな」

「別に好きで遊んでた訳じゃないです……」

「これ以上からかわないでくれ」

 結局、私達が妙なことをしていたなどという疑いを晴らしたのは理彰の必死の説明でも私の言い訳でもなく、富陽自身――

 つまり疑いなど最初からなかったのだ。ちょっとからかってやろうと思っただけと富陽は悪びれもせずに菓子を食べ、理彰は呆れたように茶を啜り、テーブルを囲んでの時間はゆったりゆっくり流れてく――

「それで富陽。お前は連絡もなしに何をしに来た」

茶杯を片手に理彰が聞けば、富陽は思い出した様に大きな荷物のチャックを開けた。

 中には本がぎっしりと詰まっており、綺麗に床に並べた富陽はにっかり笑って手招きする。

「もうしばらくここに住むって聞いたからな。暇潰しになればと思って持って来たんだ」

「わー、日本語の本がいっぱいありますねー! ありがとうございますー!」

 並んだ本は故郷でも馴染みのある古典文学から日本人作家の書くドラマ化までした超有名時代小説まで様々、ひとつひとつ手に取っては眺めて開いてページを捲り、理彰に見せれば彼もまた興味深そうに本を手に取った。

「随分とあるな」

「元々持ってたものと買ってきたものだ」

読みたいものがあったらやるよと本を指差し富陽はむしゃむしゃ焼菓子を食べて、私は言われるがままに本を漁り、目ぼしいものを探していると一冊だけ、他の本とは少し装丁の違う本を見つけた。

「放課後愛奴……? 女教師、の――」

芸術的、肉感的な女性の絵が書いてある表紙は鮮やかな色合いが美しい。

 手に取りじっくり眺めていると理彰がそれを取り上げ、隠し、富陽に押し付け息を吐く。

「富陽……こんな本は閉まっておけ」

「おお、そりゃあ俺のだ。間違えて持って来ちまった」

「当たり前だ。雨華向けの本じゃない」

「じゃあお前が読むか? 俺が尊敬して止まない結城ゆうき紅丸べにまる先生の官能小説だ」

「俺はその様な本は読まん」

「低俗だと思ってるんなら大間違いだぞー?」

「低俗だとも高尚だとも思っとらんからそれを隠せ。雨華に見せるな」

「これはこれは随分と過保護なこって――」

なるほどこれは分かりやすい。

 どうやらあの本はやらしい大人向けの本らしい。しかし内容には全く興味がなく、男二人の話は心底どうでもいい。

 関係ないなと欠伸をし、猫の姿になってごろり、もう一眠りの時間。

 理彰の膝の上にどっかり陣取れば、おやおやと富陽に頭を撫でられた。

「仲良きことはなんとやら、だな」

「こいつは喋らなければ良いのだが……どうも煩くて敵わんのだ」

それでも毎日飽きないから悪くはない――そう言漏らした理彰は多分笑っていたと思う。

 それから富陽はお前に預けて正解だなと、からかう様に理彰を小突き、私を撫でてから立ち上がった。

「さて、そろそろ帰るか」

「もう帰るのか。飯でもどうかと思ったんだが」

「すまんな。これから行くとこがあるんだ」

「そうか。なら仕方ないな」

幾つか言葉を交わした後、理彰は私を床に寝かせて立ち上がる。

 またなと声を掛ける富陽に尻尾を動かし返事をして、くるり、丸まり私の意識は薄れてく――

 微睡みの中で聞こえたのは、私のことを話す二人の声。

「雨華ちゃんをこっちに住まわせてるのは社長なりに何か考えがあるんだろうよ」

「分かってはいるが、あいつがまた襲われるようなことがあると困る。こちらに住まわせるなら問題が解決してからでも良いはずではないか」

「概ね同感だ。これからあっちに行く予定があるから、雨華ちゃんが住める所がないか、その時にでも調べてくるよ」

「頼む」

「じゃあな――」

何か、悪い予感がする。これは最悪、きっと夢見も悪いだろう。早く忘れてしまおうという訳でもないが、理彰が部屋に戻ってくるのを待たずして私は再び眠りについた。

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