いっそ開き直って 後編
「理彰、ごめんなさい!」
理彰と顔を合わせて開口一番、謝罪の言葉と共に頭を下げる。
静かなオフィスで聞こえるのは空調の音と私の声だけで、目に入るのは所々くすんでいる、白い床。下げた頭は重たくて、なかなか顔が上げられない。
あれ程落ち着いていた心はどこへやら、理彰の視線が身を貫き、私の体は凍り付いてしまったみたいだった――
「――私、餓鬼が可哀想になっちゃって、怖くなって、その……逃げちゃいました……心配掛けてごめんなさい」
震える声で伝えたのは迷惑を掛けてしまったことへの謝罪の言葉。
迷惑――それは理彰のみならず迎えに来てくれた富陽、大狼さん、それからことりさんにまで及んでしまい、私の想像していた以上に大事になっていたものだから、これ以上はなんと言っていいか分からず、ひたすら頭を下げることしか出来ない。
「……離れるなと言っただろう」
相変わらず私は黙ったまま、少し時間が空いてから聞こえたのは理彰の声。
それは溜息混じりの呆れ返った様な物言いだった。
「ごめんなさ――」
もう一度発した謝罪の言葉は理彰によって遮られ、彼はもうよい、と私の肩に手を乗せた。
かちかち――時計の針が進む音、それから空調機の音、無機質な音が響く中、頭上から降ってきた理彰の声は、やはり呆れた様な声ではあるが、どこか温かい、安心できる声。
「これ以上は謝らなくともよい。今回は巻き込んだ俺も悪かった。だから、そうだな……お前には、嫌なものを見せてしまって……すまない」
顔を上げるように促され、理彰の顔色を伺うように上げた頭は緩々と優しく、しかしぎこちなく撫でられた。
「怪我は無いか」
「平気です」
「腹は減ってないか」
「富陽がご馳走してくれました」
「クー子には何もされなかったか」
「とても良くしてくれました」
理彰に真っ直ぐ見つめられたまま、一つ一つ質問に答えるが心がざわざわと落ち着かない。長く目を合わせるのが苦手なのは山猫だった時の本能のようなもの。
こうやって誰かと接することが多くなってきた今でもそれは変わる様子はなく、俯きがちに目を逸らすけど真っ直ぐ突き刺さる視線だけは嫌でも感じ取れるものだから敵わない。
「そうか、ならいいんだ」
ひとつ息を吐いた理彰は私の肩を二度叩くと、いつまでそこで見ているのかと部屋の奥、応接用のソファーに向かって声を掛ける。
「いやあ、お前が怒鳴り散らすようなことがあったらどうしようかってな。優しくしてやれてるようで何よりだ」
影から出てきた富陽がけらけらと笑えば理彰は顔を赤らめ、抜かせと一言。
そして富陽の更に後ろ、ことりさんは困った様に頬を掻き、何もなくて良かったですねと私にお茶を手渡した。
「理彰さん、ずーっとそわそわしてましたよ」
「そう、ですか」
「雨華ちゃん、でしたよね。素敵な名前も付けてくれたみたいで何よりです」
受け取った緑茶は暖房の入った室内では少し熱いくらいで、体がぽかぽか火照ってくる。一口飲んだ茶をテーブルに置いて、ご迷惑お掛けしましたと改めて頭を下げれば、気にしないで下さいとことりさん。
「どうせ残業中の身ですし、いいんです。それと……現場には私達が向かうつもりだったんですけどね、理彰さんに電話で連絡したら俺が行くって……だから私達も悪いんですよ。ごめんなさい」
「そうそう。彰さん、用があるとかで俺達に仕事押し付けて帰っ――」
「わんちゃん、理彰さんは明日雨華ちゃんとお別れだから今日は早く帰ったの。お店の予約だってしていたじゃない。だから急な仕事を押し付けちゃったのは私達だよ」
「あ……」
諌めるようなことりさんの言葉にはっとしたのは、大狼さんではなく私。
この一週間、理彰は毎日早く帰ってきてくれた。コンビニ弁当ではあったけれど、朝ご飯とお昼ご飯を用意してから仕事に行って、それから夜は毎晩食事に連れて行ってくれた。外に出る時は切符の買い方、電車の乗り方、私にはまだ難しい言葉も教えてくれるし間違いだって訂正してくれる。
仕事とはいえ、理彰が私にとても良くしてくれているのは分かっているつもりではいた。お礼だって言わなかった訳ではない。
だけど、そのお礼の言葉は理彰に伝わってはいただろうか。
行動で示せていただろうか。
多分、伝わってはいないし、示せてもいないはずだ。これでは、私は無礼な無作法者ではないか――
「――雨華、帰るぞ」
「あ……はい」
ぼんやり、どこか遠くを眺めて考えことをしていた私の意識を引き戻したのは理彰の声で、理彰の後ろでは三人がにこにこと、私達へ向かって手を振っていた。
「じゃあ、理彰。雨華ちゃんのことをよろしくな。雨華ちゃんも、またな」
「はい、また」
三人に手を振り別れた後、二人きりの帰り道は少し気まずい。足早に歩く理彰はちらちらと私のことを気にするように目を合わせ、何かを切り出そうとしている。
「なんでしょうか……?」
「やけにしおらしいと思ってな」
足を止めて理彰を見上げて問い掛ければ、クー子に何かを言われたのではないかと私の顔を覗き込む。私がクー子さんに何かを吹き込まれたのかと思っているのだろうか、それなら答えは違う。
そんなことありませんと頭を振って笑って返したつもりだが、私の口元、笑みは歪で横に跳ねた髪はへたりと垂れ下がってしまっていた。
「どうした?」
「いえ、本当になんでもないんです。強いて言うなら、そうですね。私には理彰の考え方は理解出来そうになくて――」
ああ、しまった――お礼を言うつもりだったのにまた、つい可愛げのないことを言ってしまった。
「富陽と大狼さんが言ってました。理彰は獬豸だって。私、良く分からないんです。悪人だから斬り殺すとか、人を裁くとか……。判官贔屓かも知れないですけど、餓鬼の件だってまだ少し、納得してないんです。人間だって大嫌いだし、餓鬼が罪を犯したどうしようもないクズだとしても、私は理彰の様には振舞えません。だから、その……」
「そうか」
取り繕うように続けた言葉もどこか反抗的で、何ひとつ誤魔化せてはいない。
いくら本心、本音とはいえ私はこんなことが言いたかった訳ではないのだ。理彰はすぐに目を逸らしてしまうし、全く持ってお粗末で、私という奴は本当に本当に可愛げがない。
私が言いたかったのはこんなことではない。こんなことではなくて本当は――
「可愛くないことばかり言ってごめんなさい。でも私は理彰にお世話になって、色々なことを教えてもらいました。理彰の考え方は良く分からないけれど、理彰にはすごく感謝してます」
本当はただお礼の言葉を伝えたかっただけ。歩き出そうとした理彰の前に立ち、ありがとうございますと頭を下げると理彰はひとつ、咳払いをして、ふっと、柔らかな笑みを見せた。
「そうか。それは良かった」
「は、はい」
「きちんと自分の言葉で物を伝えられるのだな。ものの数刻の間に、少々大人びたのではないか」
食事の時に見せるはずだった笑顔がそこにあった。切れ長の目は細められ、口角は上がり、理彰はにこにこと私を見つめてる。
「し、失礼ですね。私だってそこらの小僧小娘よりは長く生きてるんです。もう立派な大人なんです!」
「そうか」
どういう訳か、顔が熱い。褒められるのはあまり慣れていないものだから少し照れてしまう。
目を逸らし、顔を背けて歩き出すのは照れ隠し。この様なことで照れていたらきっとからかわれてしまうのではないか。理彰はそんなことをしないと分かっていても恥ずかしいのだから仕方がない。
「でもほら、よく言うでしょう? 士、別れて三日なれば、すなわちさらにかつ……かつ……」
恥ずかしさからの沈黙に耐え切れずに発した言葉すら曖昧で、後ろではうんざりした様子で理彰が溜息を吐いた。
「士、別れて三日なれば、即ち更に刮目して相待すべし、だ。全く……お前の様な者を呉下の阿蒙と言うのだな」
やれやれと大袈裟に頭を振って答える理彰はなんだかんだで優しくて、いつだって私の間違いを訂正してくれる。
いい加減に言葉の間違いを指摘されるのは慣れてきた……が、進歩のない者とまで言われてしまえば腹は立つし落ち込んでしまう。
「さっきちょっと大人になったって言ってたじゃないですか……」
数歩下がって理彰の腕を軽く掴み、先程褒めてくれたのは一体何だったのかと問えば、理彰は撤回させてもらおう、と意地悪く笑う。
それではあんまりではないか。本当はこんな不毛な会話をするつもりではなかったのに理彰といるとどうしてもこうなってしまうのだから学もなく愛嬌もない自分が不甲斐ない。
視線も自然と下を向き、歩く歩幅も小さくなる。
「そもそもお前は物を知っているのにどうして言葉を間違うのだ。理解しかね…………いや、ああ、すまん。最後まで説教ばかりなのもいかんな」
いつもならここで軽口を叩くはずの私が黙ったままなことを気にしてか、理彰はすまないともう一度謝り、何を血迷ったのか徐に私の手に指を絡めるものだから気味が悪い。
てっきりお説教されてしまうのかと思ったから拍子抜けした気分だ。
「なんですか一体。恋人ごっこのつもりなら勘弁願います。これじゃえんじょこーさいです……」
「阿呆、そのような話なら俺だって勘弁願いたい。手を繋がれたくなければ前を向いて歩け。ぶつかるぞ」
「言われなくても平気です。それに今落ち込んでるので後にして下さい」
そう言って手を解こうにも解けないから困ったもので、手を引かれるがままに歩けば顔のすぐ隣を掠めた聳え立つ電柱。
ほら言わんこっちゃないと言わんばかりにこちらを見やる理彰は視線を前に戻し、私を気遣うようにゆっくりゆっくり歩き出す。
「ちゃんと前を見て歩きますから、手を離してください」
「そう拗ねるな」
「別に拗ねてないです……――」
結局手を繋いだまま帰宅して無言のままで布団に入り、もぞもぞ、動いて寝る姿勢になると理彰は困ったように私の名を呼んだ。
「雨華、寝るなら猫の格好だ」
「私今日は疲れちゃいました」
「そうか、なら俺がこのまま布団に入ってもよいのだな」
「それは困ります」
ぽつりぽつり、会話を交わしてどろん――
猫の姿になって転がるのは理彰の胸元、腕の中。いつもは足元で寝ていたけれど、今日はなんだか寂しくて、少しだけ近づいていたいと思うのだ。そんな気持ちを知ってか知らずか、理彰は私の頭を撫でて一言告げる。
「そこを退け」
「なんでですか!?」
「寝苦しい、動けん、邪魔だ」
「こんなに可愛い猫が甘えてるのにですかー?」
耳元で喚いてみれば理彰は眉間に皺寄せ嫌そうに、ぐるり、こちらに背を向ける。
少しくらい甘えてもいいではないか――大きな背中に頰をすり寄せひと鳴きして、最後の夜は過ぎていく――




