いっそ開き直って 前編
ご飯は美味しい。
天丼と蕎麦のセットはとても良い。
お米と麺を一緒に食べられるなんて、考えた人は余程頭が良いのだろう。
ついでにうどんと冷奴にお新香、それから先程食べ損ねた点心の代わり、餡蜜までご馳走してくれるだなんて富陽も太っ腹だ。
食べる量の多い私にも嫌な顔ひとつせずに奢ってくれるし、とてもとても有難い――――と言うのもどうやら私は“燃費”が悪いそうで、ことりさんや理彰より多く物を食べなければすぐにお腹が空いてしまうのだ。
食事代が馬鹿にならない、と理彰が愚痴を溢していたから余程のことだと思う。
通常、元気な人間の精であれば死なせることのない量でも一日以上持つのだけれど、人間の食べ物ではそうもいかない。
確か“夢魔”と言っただろうか――彼らや私の様な人の精を食らう妖魔は、他の妖魔と比べ体の構造が違う様で人間以外のものを食べて生きていくのは大変難しいものがあるらしい。
「お前らは本当によく食うなぁ」
食事をする私を眺めるのは富陽。私の隣では大狼さんががつがつと海鮮天丼を頬張っていた。
「人の食べ物は美味しいですからね。人の精は理に適った食糧ですけど、人の食べ物には敵いっこないです」
精も嫌いではないですが、味気ないです――
そう言って笑えば富陽はそうなのかと目を丸くする。
「あ、でも精にも色々味があるんですよ? 今度一緒に食べに行きますかー?」
「いや、遠慮しよう。おじちゃんそういうのは食えそうにないんだ」
「じゃあ大狼さんは?」
「ん? 精ってどうやって食うんだ?」
「ああ、そっか。そうですね」
確かに、今まで息を吸う様に人の精を吸って生きてきたけれど、説明となると難しい。
そもそも私を彼らでは、体のつくりそのものが違うのだ。
「妖魔っつっても色々いるからなぁ……。そういやお嬢ちゃん。さっきは何があったか、おじちゃん達にこっそり教えてくれないか? 理彰の奴からも話は聞いたが、お嬢ちゃんからも話は聞いておきたいんだ。それに……クー子と何を話したのかも聞きたい」
からんからん、富陽が烏龍茶を飲み干せば中の氷が音を立てる。
クー子さんの名を口にする富陽の顔はなんだか少し怖くて、緊張しつつ理彰のこと、餓鬼のこと、逃げ出してしまったこととクー子さんのこと、全てのありのままを話すと、二人はそんなことかと言わんばかりに安堵の溜息を吐いた――
「いやあ、理彰のことが嫌になったのかと思ってな」
どうやら二人は私が理彰の下にいるのが嫌になって逃げ出したのだと勘違いしていたらしい。餓鬼が可哀想で見ていられなかったのだと伝えれば、そう思っても仕方ないさと富陽は笑う。
私を真っ直ぐ見つめたまま、言葉は優しく、瞳はどこか寂しげだった。
「慣れの問題、って言い切るにはちょっと違うと思うが、長くこの仕事をやっていると段々感覚がおかしくなってくるんだよ。理彰は特に、だな。あいつのは最早本能だ」
「本能……?」
「ああ、獬豸っているだろう? あいつは正にその獬豸だ。何千年も前から人を裁いてきたんだよ」
獬豸……古代から人間同士の争いに介入しては悪人を指し示し、非のある人間を倒し、食らう、そんな物騒で独善的な生き物だというのが私の獬豸に対する認識だが、一方では正義や公正の象徴として崇められている瑞獣でもある。
それなら理彰は私なんかとは比べ物にならないくらい強い生き物なのだが、なんと言おうか……私が言うのも可笑しな話だけれど、まさか獬豸が実在するとは思わなかった――
碌な返事も出来ずにぽかんと口を開けるだけの私を見て、大狼さんはからからと笑う。
「そりゃ驚くよな。彰さんは俺らとは生きてる年数も生き物としての力も格も段違いだ。勿論今目の前にいる富陽さんだって豼貅って言ってな、破邪の猛獣なんだよ」
「はい……?」
次から次へと知らされる事実に思考が追いつかずに私は目を白黒させるばかり。
獬豸に豼貅と随分と大層な妖魔が集まったもので、そんな二人の上に立つ者とは神か何かか、全く想像が出来ない。
「豼貅っつっても最近じゃただの金運のお守りだよ。俺が猛獣だったのはずっとずっと昔の話さ」
猛獣というだけあって私の知ってる豼貅は荒々しく猛々しい虎の様な動物だ。
確かに昨今では風水の定番アイテムとしての方が有名だけれど、それでも貔貅が格の高い伝説の生き物ということに変わりは無い。しかし今目の前にいる富陽はどうだろう。にこにこと笑う姿はただの気のいいおじさんではないか。
「まあ、いっぺんに説明されてもって感じだよな」
そう言って頭を掻く富陽曰く、大陸の血生臭い争いから逃げる為に、比較的平和な日本にやってきた妖魔は少なくないそうだ。
中には人間社会に辟易して引きこもってる世捨て麒麟なんかもいる様で、本当に色んな境遇の者がいるらしい。
「皆が皆良い奴って訳じゃあないから争いや諍いもある。人を襲う妖魔にも何か思うところがあるはずだから、今回の餓鬼のことも俺達で慎重に調べていくつもりだ。だからあまり気にしなくて良い……巻き込んじまって悪かったな」
「いえ、私は別に……」
俯いた富陽の表情は眉尻が下がっていて、なんだかとても申し訳無さそう。
別に巻き込まれるのは今に始まったことじゃないから別に気にしてはいないし、私のちっぽけな日常なんてあの日、攫われた日からもう既になくなっているのだから今更どうこう言うつもりはないのだ。
それよりも今私が気になるのは、クー子さんのこと。彼女は理彰や富陽と知り合いだと言っていたのだもの。気になるのは当たり前のことだった。
「それより、クー子さんとはどういった関係なんですか。どうして、一緒に働いていないんです?」
クー子さんの目的は人間との共存――それは理彰や富陽と全く同じなのだ。
しかしクー子さんは二人の働く会社の社員でも、勿論社長でもない。理彰や富陽とは考えが合わないと彼女は言っていたけれど、考えが合わないのは誰にだってあることだし私だって理彰のやり方には疑問がある。
一体何があったのだろうか、口にした疑問に大狼さんは首を振り、富陽は一瞬だけ眉を顰めてから、ゆっくりと口を開いた。
「俺達と同じく、人間との共存を望む、古い知り合いだよ。クー子は善良な狐なのはいいんだが、少々それが過ぎていな、理想が高いんだ。そうだな、俺達が望むのが人間と妖魔がうまく住み分け出来た世界だとしたら、あいつの望む世界は人間と妖魔の間の隔たりを完全に取り除いた世界なんだよ――いきなりそんなことをしても新たな火種になるだけなんだがな……」
「それはまた随分と立派な目標で」
理彰と富陽の考えだけでも良い子過ぎてついていけないのに、クー子さんは更にその上をいっているとは……理想的で最善、しかしそれは無謀というものではないか。
叶いそうにもない夢は酷く滑稽だ――
「どうもあいつには徐々に変えていく、ということがわからないらしくてな、だからいきなり自らの存在を認知させようと尾のある姿に化けて街へ向かうし、気に入った人間にちょっかいを出す。最近じゃその頻度も増えているから出来るだけ出歩くなと頼み込んでいるが……やっぱり今夜も外にいたか」
お嬢ちゃんを見つけたことは有難いが、と溢す富陽は呆れた様に溜息を吐く。
いずれは妖魔の存在も認知させなければならないというが、いきなりではやはりまずいらしい。途轍もなく大きな目標に頭が痛くなってくるが、クー子さんとはそこまで険悪な仲ではないみたいだ。
仲間同士で啀み合っていては共存なんて夢のまた夢なのだから、苦手な者とは出来るだけ関わらないというのはやはり大人の対応というものだろう。
そんなことをぼんやりと考えていると、隣の大狼さんはオレンジュースを飲み干し残念だと呟いた。なんのことかと首を傾げるとそれはどうやらクー子さんのことらしい。
「クー子さん、優しいし美人だから俺は嫌いじゃないんだけどなぁ。彰さんとはとことん相性が悪いんだよ」
と、大狼さんが溢しそれに対して富陽は仕方ないだろうと首を振るのだ。
「理彰曰く、善狐とはいえどうも狐は信用ならん、ってな。まあ、理彰には何か引っかかる所があるんだろうよ」
獬豸はそういう生き物だ――富陽はそう言うと私に向き直りそろそろ帰ろうかと促し立ち上がる。
「あいつも待っている。俺達やクー子に話した通り、思ったことをそのまま言えば良い。それなら大丈夫だろう?」
「……はい」
「理彰もそこまで分からず屋じゃないから安心しろ。それにあんま遅くまで連れ回すと俺達が怒られちまうし、理彰の奴の相手をアオちゃんに押し付けんのも申し訳ねぇや」
ほら、と差し出された手を控えめに握り、立ち上がればそそくさとレジへ向かう店員の姿が見える。
「ご馳走様です富陽さん」
私に続いて立ち上がった大狼さんがお礼を言って、富陽は嬉しそうに気にすんなと一言。そんな二人を見て思い出したのはつい先週、私がすっかり富陽にお礼を言いそびれていたことだった。
助けてもらった挙句にお礼の言葉もなしでいるのはどうも心がむずむずする。理彰も、お礼の気持ちを伝えてやってくれと言っていたんだ――
「あの、富陽。先週はありがとう。今日は、ご馳走様」
お礼の言葉は所々つっかえていたけれど、きちんと富陽に伝わっただろうか。
俯いていた視線を富陽に戻せば驚いた様に目をぱちくりさせている彼の顔。
「……おう! 良いってことよ!」
それから少し間を置いて、彼が見せたのは白い歯で、にっかり笑った富陽は上機嫌でレジへ向かっていった――
機嫌の良い富陽は酒も飲んでいないのに面倒臭い。
やれ背負って歩きたいだの、やれ肩車をしようかだの、そんなことを外で出来る訳がないじゃないか。
全く、子供扱いをしないで頂きたいというのが私の本音で、手を振り払って歩けば隣からは冗談だよと笑う声。
「なんにせよ、お嬢ちゃんが元気になったみたいで良かった」
「富陽さん、あんま子猫ちゃんからかうのよくないですよ」
「……お嬢ちゃんでも子猫ちゃんでもありません! 私は雨華です!!」
街中でその様に呼ばれるのはどうにもこうにも耐えられない。周囲の視線が痛くて堪らない。
そうして言い返したのはまだ付けられてから日も浅い、新しい私の名で、二人はそれから笑って手を出し立ち止まり、握手を求めて私の名前を呼んだのだ。
「それじゃあ――」
――よろしくな、雨華ちゃん。
「よろしく、お願いします……」
一人ずつ握手をしてから歩き出す夜の人間の街はとても明るい。
理彰にしっかり説明して謝ることが出来れば、きっと無事に一人で暮らしていける気がする。お礼だって言わなければいけないし、向こうでの暮らし方も聞かなければならない。これから忙しくなるというのに、私の足取りは軽く、心も落ち着いていた。




